ファプタ=つくしあきひと説 メイドインアビス2期 考察

はい、メイドインアビス2期。
よーわからんという人も多いと思うけど、自分なりに整理してみる。


人間性とはなにか

そもそもメイドインアビスの前提に、”冒険への憧れ”という俯瞰的なテーマがあると思う。
冒険とは死や犠牲と対面しても先に進み続ける憧憬である、みたいな美学は世界設定からでもお話からでも、セリフからでも漂う。

なれはて村のお話だと、わかりやすくベラフくんが説明してくれる。

「睨みつけ 慈しみ あこがれ続ける その眼差しこそが 美しさの本質なのだ」


この目とはすなわち、アビスの底に向く憧れであり、冒険であり
何かを突き詰めるということへのメタファーだ。
危険や死に直面しようと憧れ進み続けること、それこそが人間性を保たせている。

ガンジャ隊がなれ果てと化す理由

冒険から危機的状態に直面したガンジャ隊。イルミューイが欲望の揺籃によって人間性を失い、取り込まれたガンジャ隊もなれ果てになってしまうのはなぜか。

先の話と照らし合わせると、
冒険への憧れから自分たちの欲望へ逃避してしまったことが、人間性を喪失し村から出られなくなる理由と考えられる。

イルミューイの例でいえば、現実世界の冒険への憧れから産めないはずの子供の出産という内的な欲望へ逃避したわけであり、
ベラフの言う美しさ、すなわち人間性を失ってしまったのだ。
その証拠に、イルミューイの産む子供達はみな人の形を持たない獣だ。そして冒険の危険、死へ向き合うのではなく、欲望の世界へとどまることを決めた者たちがガンジャ隊なのだ。

この現実逃避と冒険への憧れは、創作者にとって
自分の内なる世界へとどまる(オタク的態度)

作品を作りなにかを切り広げる冒険(作り手の価値観)
の対比なのだ。だからなれ果て村のメンバーはみなオタク的価値を持ち
(笛オタク、排泄物オタクなど)それらを守り続け、
村にとどまる。

しかし、皮肉にも村で価値が高いのは、人間性を保ち進み続けるリコ達である。


なぜファプタは生まれたのか

ここまでの話を見ると”オタクは外に出ろ”的エヴァの二の舞になりそうだが、そうではない。

このなれ果て村エピソードでもっとも重要なキャラクターといえるファプタ。
このファプタは人間(冒険への憧れ)となれ果て(欲望への逃避)の複合体であり、自身の母を犠牲にした村に復讐を図るキャラクターだ。

ここでいう復讐とは、母の復讐にとどまらない。「欲望への逃避」そのものに対する怒りであり、破壊なのだ。


「ファプタは…ファプタは火だ…食われ、冒涜された者達が継いだ…火だ!」

ファプタは結果として、なれ果て村を守るキャラクターへと転身し、村は消え、冒険に出る。

つまり欲望へ逃避するのではなく、
欲望を憎むのではなく
欲望を内包し、受け入れながら現実世界の冒険に対する憧れを持ち続けるという選択であり、

これはつくしあきひと自身の
「オタク的部分を受け入れ内包しながらも、創作という、しいては人生という死と隣り合わせの冒険へ駆り出すのだ」
というメッセージに他ならない。それこそが欲望のふかい人間を、人の姿にとどまらせている力なのだ。

つまり、つくしあきひと=ファプタでQ.E.D。おそろしいですね。



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