パンツ脱ぐ勇気ナイナイ 着ぶくれる
新年早々、パンツネタで恐縮でございます。
こう寒いと、パンツどころか着ている服を脱ぎたくなくて「風呂に入る(ために服を脱ぐ)の、やだなぁ」と思うわたくしでございます。
さて。今回のネタ元はこちら
ちょっと前にたまたま目にしたノンフィクション『さよなら、野口健』の作者、小林元喜氏のインタビュー記事であります。
「野口健さんをパンツ一枚までほぼ丸裸にするかわりに、礼儀として俺はパンツまで脱ぐ」
という気概を持って、著者はその本を書いたのだという。
その言葉を読んだ瞬間、低体温、低血圧、冷え症のゾンビ脳の本能が激しく反応した。
寒い! 死ぬ!
ブルブル、ガクガク……だって、今は冬なんだもの。凍え死ぬ!
たぶん、これが夏だったら「パンツさえも脱ぎたくなるよなぁ」と思ったかもしれない。その言葉の本来の意味からは、何万光年もかけ離れた感想ではあるが。
ところで、パンツを脱ぐというと思い出す話がある。
「芸術は爆発だ!」で有名な岡本太郎氏の母親で歌人であった、かの子さんが「小説家になる」と決心したところ、夫の一平さんが「日本橋のど真ん中でまっ裸で寝るようなもんだ」というようなことを言って、たしなめたというのだ。
参考記事
正確には「小説で成功するには日本橋のど真ん中で素っ裸になる勇気がいる」という言葉のようです。
私、これ、日本橋じゃなくて銀座だとずっと勘違いしていた。当時は、銀座より日本橋の方がネームバリューが高かったのかしらん。いや、日本橋って江戸時代に五街道の起点であったから、明治時代にはまだ「日本のど真ん中」というイメージが強かったのかしらん。
いずれにせよ、その時代に吉幾三さんがいたら、かの有名は歌は、きっと「日本橋でべこ飼うだぁ~」になっていたことでしょう。
小説を書くということは、確か林真理子女史が言っていたのだと思うけれど、エッセイを書くより、自分の本当が出るらしい。つまり小説を書くっていうことは、ある意味、パンツ脱いで「まっ裸」になるってことだ。
小林元喜氏は、作家として世に出るまで随分と回り道したようであるが、小説家としてようやく成ったのは、パンツを脱いだからだったかもしれない。逆に言えば、パンツが脱げなかったから、上手くいかなかったのかもしれない。
勝手な想像なのだが、小林氏は、文章は元から上手かったのだと思う。足りなかったのは、パンツを脱ぐことだったのかもしれない。
小説を書く人で、パンツ一丁までは、なれる人は多いだろう。半ケツぐらいまでなら、イケる人もいるだろう。でも、そこまでもすら、なれない人がほとんどだろうと思う。
大体、パンツを脱いだからといって、必ずしも小説家になれるとは限らないだろう。もし、そうだとすれば、パンツを脱ぐことに抵抗のない人は、誰でも小説家になれる。
風呂上がりにパンツ穿かずに脱兎のごとく逃げ出す幼児は、生まれながらにみな小説家じゃないか。井出らっきょなんて文豪だよ。明るい安村は……脱いでるようで履いてたからなぁ。最近、見かけないのはそのせいか? 違うか。
この「パンツ」の正体は、何も赤裸々に書くということではなくて、何でも暴露することでもなくて、気取りを捨てるってことなのかもしれない。そんなことを離れたところから、つらつらと考えている私は、きっと、ぶくぶくと着ぶくれた読む側の人なんだろうな。
……って書いてたら、こんなの見つけた。
そうか。心のパンツか……。やっぱり私は脱げないな。懐寒いから……。