一字一字を大切にしたい
祖父の名は束矢(ツカヤ)。
僕の名は勇矢(イサヤ)という。
祖父の名は、その昔、毛利元就が毛利三兄弟へ伝えた言葉からつけられた。すなわち「矢は1本ではすぐ折れるが3本束ねればなかなか折れない。」という言葉。これは長男隆元に弟の元春・隆景と意見に相違があってもおおらかな心で受けるように説いた言葉。弟の元春・隆景には長男の意見に従うように説いた言葉。3人が一致して秩序を守れば毛利家を守ることができるが、そうでなければ滅びの道に至るとして戒めたもの。のちに毛利輝元が3人協力すれば、苦しい時期を乗り切れると考え訓示した、とある。わたしの祖父束矢の名は毛利元就の戒めからつけられたと聞いている。その矢という字を僕は受け継いだ。では、いさましい(勇ましい)の一字はどこから来たかというと、古い古文書から受けている。そこにこうある。
『若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。』
この言葉には3つの意味がある。1つは武具をまとって敵に備えよ。敵と語るときにも矢筒に矢を充分いれて警戒せよ。2つめは両親にとって子どもたちは希望の光である。その光は敵をいとめるに充分に勇ましい。安心せよ。3つめは勇士たちよ、矢筒に矢を満たせ。しかし、その矢はただの矢ではない。昔から伝え受け継がれてきた言葉の矢である。これほど、研ぎ澄まされた親切な言葉の矢はない。戦いの門においても牢獄の門においても、この矢があれば恐れることはない。
古い書物の解釈がその通りかどうかはわからないが、少なくともこの言葉に込められた思いがあることを忘れずに、祖父からもらった一字を大切に生きていきたい。
平穏な世界に戦いは好ましくないが、守るべきものがあり戦いを避けられない時、勇ましく名に恥じぬよう心の矢筒に矢を満たしたいと思う。また、そこに寛容な心と親切な言葉を忘れないように自身を戒めつつ歩みたい、と思う。
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