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  その言葉を聞いたとき、もう、ダメだった、と匙を投げそうになり、息切れが止まらず、つい片手で胸を押えた。

「いないよ、そんな人いない」

 本意とは意図しない、すれ違いを僕はこの手で舵を取った。

「なあんだ。いるかと思ったよ。辰一君ってちょっと、陰があるからきっと、心の深いところに秘めていているのかな、と思ったから、簡単には話さないと思ったけれど、……本当はいるんじゃないの?」

 頭が少しくらくらする。前髪が前方に突き進み、甘い動揺で満たされている。 陰がある、と確かにそう言った、と思うのは束の間で、蕩尽した想いの滄海に漂い、どういう意味なんだろう、という疑問さえも、すぐに立ち消えになった。

「いないよ。本当だってば」

 もう、見透かされたかもしれない。胸を抉られそうになるまで、その秘めた内側まで知られてしまったのかもしれない。

「私っておかしな人間かな?」

 漆黒の海淵を称えた、瞳の奥に陰影が見え隠れした。

「違う。螢ちゃんは僕みたいに汚い人間じゃない。おかしな人じゃない」

 僕はとっさに腰を持ち上げた。白い夕日が茜色に染まるのも、遅くはなかった。

「冗談だよ。辰一君ってすぐにそうやって、大袈裟なんだから」

 涼風が森の奥から沁み出し、二つの影が寄り添うように葉擦れと揺れた。

 このまま、夕闇を抱いたまま、夕映えを司る少年として、歳月が止まってしまえばいいのに。君の細い腕を抱いて甘い蜜まで吸い込んでしまいたい、と肩が震えながら。僕はわざとらしく隠しがたいために大きく、息を吐いた。

 瞳を閉じたいのにTシャツから、花柄の模様が見えた。もう、平たくはない豊かに育ちつつある、丸みと服の縦皺と横皺の象徴。

 それを垣間見て、身体の奥底が熱く、熱くなりすぎて柔らかい、苦労を知った。お前はどこを見てしまったんだ? と僕はほろ苦い罪悪感で、拳を丸め、長くなった髪の毛をどかした。

「……辰一君は全然汚くなんかないよ」

 このまま、時を抱いてゆっくりとその場で、小さく息を吸えばいい、とさえ願った。
「もう、夕方だから帰るね。ありがとう、辰一君。お話を聞かせてくれて」

「ありがとう、さよなら」

 君が立ち上がって帰ると、両足はすぐに走りだしていた。

 急な階段をこけそうになるまでかけ下がり、鳥居の前に止めてあった自転車に乗り、緊張感が程よく緩みながら、サドルを漕ぎ続けた。

 急勾配のある坂道を下がり、一本橋を渡り、九十九折りの坂道を上った。息切れに耐えられなくて、蛇淵のある道路で自転車を止めた。

 その淵を僕は見た。水飛沫を頬に感じ、蛇淵を見ると、夏の日が暮れかかった陽射しに照らされていたものの、底は目視できず、深緑色を何回も混ぜたように淋漓と這い、川下は蛇淵を避けるように流れていた。

 胸に秘めた最愛の人から拒絶された、石長比売はここで何を思い、何を恨み、何を悔んで、自らを殺めたのだろう。

 この深淵は奥深い、緘黙の果てまで、この地に轟いている。邇邇芸命は石長比売を拒んだために、その弥栄の生命は花のように縮んでしまわれたという。――人間に寿命があるのもそのためだ、と。

星神楽㉛ 彼岸花、月夜に影を呼ぶ|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)

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