鹿が深山で誰かを呼んでいる。こんなに物思いに耽っても、誰も聞く耳を持たない。どれだけの哀しみの荷物を背負ったら、僕は人の機微を容易く、分かるようになれるだろうか、と苦渋の念に満ちながら。深夜になるまでうつ伏せになり、うたた寝したのも束の間、僕はその夢の中で、けばけばしい赤いベッドの上に、一糸纏わずの裸で寝かされていた。
そこは永久凍土のように、冷たく違和感のあるほど暗かった。 僕はシーツの下をあさり、この置かれた状況を逃れようとあらゆる手段で画策をした。火照る身体が疎ましい。あの人が全裸で立っていたのを黙視すると、あの人は人を食うような笑みを浮かべて、近づいてくる。僕は何も出来ず、シーツをぎゅっと、締めるしかなかった。
あの人はベッドの上に座ると顎を触り、わずかに生えた髭を撫で始めた。中途半端に生えるので最近になって、僕はこの髭に困っていた。また、今日も剃っていない。くすぐったくって思わず、僕はくしゃみをしそうになりながら、暗中模索の小夜すがら、抵抗しようと顔を激しく振った。
「慣れていないものね、あんたは」
そのあんた、という親しみを越えた、呼称を聞くと熟れすぎて、落ちた桃のように身体は感じた。
これは道徳的にはいけないことだ。理性は吹っ飛び、されるままになっていた。 もう禁忌を犯すなんて、どうでもいい。どこまでも堕ちてしまえばいい。僕はこのまま身を委ねていた。僕は小さい頃にただ、純粋に抱きしめられる方が良かったよ、と脳裏に駆け巡っても、身体は意地らしく素直だった。
触れてはいけない、夜の鼓は赤い音域で満ち、いい音色が聞こえそうだった。甘ったるい、苺味のソーダ水をごくごく、と飲み干すかのように招き入れられ、禁忌は見事に破られた、と思った矢先、いつも見ている埃にまみれた、天井が見えてくる。どうした、何て、厭らしい夢を見たのだろう、と残酷な事実を噛み締めたのも、ほんの一瞬だった。いい証拠に下着がべったりと汚れ、身体中が汗だくだった。こんな欲望が自分の中にすくんでいたか、と思うとたまらなく恐懼してしまう。
「汚い、何て僕は汚いんだろう……」
独り言が妙に空々しく、耳を突き抜けた。朝になって、あの人の顔を見たら、と足並みを揃えるように、我に返ると眩暈に襲われた。
少し、疲れてしまっただけなんだ。
慢心を押し殺しながら、夜中にトイレに行って、皮膚が擦れるくらいまで、その雫を拭き取り、平常心を養おうと、ドアをそっと開け、小夜風を浴びに出向いたまだ晩秋なのに膝ががくがくと震え、思わず、派手なくしゃみをした。いつもとは違った様相の空、真珠のような星が余すことなく散らばり、小さく縮こまった背中を垣間見ていた
「あなたはまた罪を犯しましたね」
嚠喨たる笙のような声がする。ああ、また、姫の声か。
「あなたは何て、卑しい人なのですかね。母を恨み、憎み、母に恋を抱き、……あなたはこの世の罪人なのです。あなたの心に巣食う影はきっと、その身を亡ぼすでしょう」
星神楽㊵ トパーズブルーの薄明り|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)
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