星神楽⑧ オオムラサキの蝶
清羅さんの目がここぞ、とばかりに輝いた。清羅さんは同級生なのに、慣れない敬語を駆使していて、僕は首肯しかねた。
「詳しいね! そうですよ。詳しくは絶滅準危惧種ですよ」
そんな希少な蝶々を果たして、標本の餌食にしていいのか、と疑問が幾つも浮かんだ。
聞く話によると、清羅さんが採取した蝶々ではなく、清羅さんのお父さんが子供の頃に採取した蝶々なのだという。
小学生の頃に昆虫図鑑をめくり、食い入るように見たことがある。
ポストカードを真ん前に構図としてアップしたい、と衝動に駆られるような、美しい蝶だった。
濃紫色の鱗翅の中に、白い水玉模様が楚々と浮かび、羽先を囲む、紫黒色と山吹色の水玉が縁取っている。
その濃紫色はラピスラズリの原石を錬金術師が溶解させ、その純然たる一滴の雫を集めた、小さな湖沼の水面のようにも見えた。
「銀鏡にはいるんだ」
「いっぱいいますよ! 揚羽蝶なんか夏になると、川岸にうじゃうじゃ飛んでいますよ」
僕らの会話をよそに君が目を細めて笑っている。
「清羅は蝶の話になると止まらないものね」
「銀鏡には濱砂(はますな)さんと中武(なかたけ)さん、甲斐(かい)さんと那須(なす)さん、興梠(こおろぎ)さんしか、いないんですよ。親戚じゃないのに苗字が一緒。田舎の証拠ですよね」
伯父さんからも、口伝に耳に胼胝ができるほど聞いた。
銀鏡では同じ苗字の人が、たくさんいるから通常、下の名前で呼ぶんだ、と。
「東京の暮らしって、どうなんですか? 教えてください。池袋とか、原宿とか、行ったことがあるんですか? 渋谷のスクランブル交差点って本当に人が多いんですか? 芸能人にしょっちゅう、会えるんですか? やばい、マジ会いたくなったんですけど」
僕が住んでいた国立市は少し、都心から離れていたし、人いきれが僕を避けていたから、神保町に行く用事がある以外は、都心に自ら、率先して出向こうとはしなかった。
「東京育ちの人はあまり行かないよ。よく行くのは田舎から上京してきた人くらいだよ」
つい、本音を言ってしまうと、清羅さんは憮然と口をすぼめた。
「いいよね、都会は何でもあって。銀鏡みたいな田舎じゃ、洋服だって気軽には買えませんし。コンビニも行けませんから。辰一君も神楽保存会のメンバーになるんでしょう?」
不機嫌そうな顔の清羅さんから、急に相槌を強要され、はい、ととりあえず、返事する。
「神楽は一晩中、舞うんだよね? 僕は夜に寝るのが早いから大丈夫かな」
「辰一君は東京育ちなのに夜が早かったんですね。意外」
あの人の嬌声を聞くのが嫌で早く、寝たふりをしていただけだ。
あの人が養育費を愛人に大量に貢ぎ、蓮っ葉な自身もどんな如何わしい、夜の街の仕事に手を染めていたのか、毫も知りたくもない。
ひたすら呪文のように唱えろ。
今、僕は悪夢を見ているんだ。
振り返りたくもない、触れたくもない、柳の木を倒す、春の嵐のような夢を。
禍々しい過去が小さな胸を壊している。
ありふれたフレーズが、脳内に青い噴煙のように漂う。
他の人たちは前へ、前へもっと進め、切り替えろ、とそればかり、付和雷同に言う。
本当は心の監獄にずっと立ち尽くしたいんだ。
一切の陽光が射さない、独房の闇の底で。
「どうしたの? 辰一君。顔色が悪そうだよ。保健室に行く?」
心配され、僕は我に返った。
こんなときに何を思い出したんだろう。
「私が辰一君を連れていくよ」
行く春はもうすぐ、凛とした晴れ晴れしい歳月を連れてくるだろう。
僕は授業が終わると、初日から保健室にお世話になり、昼休みの間はずっと床に就いていた。
星神楽⑨ 夜半の帳の物語|詩歩子 複雑性PTSD・解離性障害・発達障害 トラウマ治療のEMDRを受けています (note.com)