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科学との出会いをもとめて 第四章 健康


1 科学の信用

農民の手

 小学校時代の親友に、開拓農民として福島県下の火山灰地に住みついた人がいる。この人の手を見て、これが百姓の手かとびっくりしない人はいない。どう見てもそれは、ペンや箸より重い物をもったことのない人の手だ。この人の前歴が編集者だといったところで理くつにはならない。

 この百姓らしからぬ百姓の手をつくるこつは、聞いてみれば簡単だ。それは、仕事のあいまに両手を高く空にあげてこまかく振動させる方法だ。うねからうねへと作業をつづけるとき、この人は、往復作業をしない。ということは、往路は鍬を打ちこんでも、復路は手を空にあげて振ってもどって、それから隣りのうねに移るという。

 この方法で、すべての農民の手がすべすべするかどうか、それは保証の限りでないが、この人の場合はこうだった。

西式健康法

 この人の方法は西式健康法の一つであるから、ご存じの方もあるかと思う。黒人の皮膚を白くする研究に自分の体を実験台にし、砒素をのみすぎて命をすてた西一氏は血液の循環について一家言をはいた。それは、毛細血管内の血行は心臓の圧力によっておこるのではないから、手足の血行をうながすためには、手足を高くあげてそれをはげしく振動させよという説である。

 手足を高くあげれば、そこの血管内の血液の量がへるから、毛細血管も太い血管も細くなっている。これを振れば、いわゆる遠心力によって血液がそこへ流れていく。振動では遠心力が周期的に働くので、血管についている弁の作用に助けられて、毛細血管内に、動脈にむかう血流がおこる。血行がよければ皮膚がきれいになるのは自明の理である。

科学のごりやく

 筆者は西式健康法のすべてを知ってはいない。したがって、その説くところのすべてが正しいかどうかわからない。しかし、少なくとも手足の血行についての論理は正しい。友人は、この正しい方法を信じたおかげで、きれいな手をもつことができた。

 西式健康法とよばれる一連の方法を信じたことには問題がのこる。しかし、科学を信じることにごりやくのあることは、この例ではっきりするのではないだろうか。

天気予報

 科学の信用を問題にするとき、いつも頭にのぼる例は天気予報である。きょうは晴れだという予報を見るか聞くかしているさいちゅうに、雨がふっているというようなケースはめずらしくない。

 もし政治というものが科学本位におこなわれるなら、天気予報などという無理を承知の横車はおさなかったことだろう。正確な天気予報が不可能なことは科学上の事実だからである。天気予報によって信用をおとしているものは、科学ではなくて予報技術だったのである。

 天気予報が毎日はずれても、それはもともと科学の信用とかかわりのないことである。雨粒はどうしてできるか、大気の渦にはどんな性質があるかなどが、気象学とよばれる科学の問題なのである。

誤診と科学

 生身の体は病気という名の悪魔にねらわれることを、どうしようもない。そして、病気になれば医師にかかるのが何よりである。しかし、どんな医師でも、診断をあやまったり、治療をあやまったりする。東大医学部の沖中教授が停年退職にあたって、誤診が一六%におよんだことを発表したとき、世間はその高さにあらためてびっくりしたものだった。

 患者にじかに接する臨床医師は、技術者であって科学者ではないのがふつうといってよい。したがって、誤診やまちがった治療法などで信用をおとすのは、病理学や薬理学などの科学ではなく、診断や治療の技術と考えるべきである。

 漢方医学が経験に立脚した技術であるのに反して、科学に立脚した技術であるところから、西洋医学がつねに主導権をとることを考えると、科学の信用が絶大であることを否定しようがないではないか。

科学と技術

 原爆の惨事があって以来、科学の功罪が論じられ、科学を悪の華のように思う人がめずらしくなくなった。なるほど、原爆が科学者の頭のなかに生まれたことはまちがいない。しかし、現実の原爆をつくったものは政治であり技術である。恐れられなければならないのは、科学ではなくて、技術を動かす政治である。

 科学はどこまでも信用しなければならない。そして、その信用にごりやくのあることを確信しているのが技術である。

 24Dが主として双子葉植物に害をあたえるという除草の科学を確信して、農業技術者はこの薬剤を利用する。そのとき、使用者が守るべき、濃度の指示、実施の適期の指示などは、すべて除草の科学からでているのである。

科学の信用なしには、日常生活も、農業も、工業もたちゆかないのである。

農業北海道 一九六四年三月

2 体質論、素質論

 体質という言葉は、思いだしたように使われる。ピリン系解熱剤で薬疹がでればアレルギー体質のせいだといい、種痘で不幸な影響がでれば特異体質のせいだという調子なのだ。医師にとっての〝体質〟は、ある場合には責任回避のカクレミノとなる。もしも体質という言葉がなかったら、医師はしばしば窮地に陥らざるをえない。

 だがわれわれは、体質とは何ぞやという問題を解明する努力のあったことを聞いたためしがない。あたかも、体質をめぐる論議がタブーででもあるかのようだ。ある百科事典の編集の進行中に、医学関係担当者にむかって私は〝体質〟の項の扱いについてたずねたことがある。すると彼は、例のクレッチマーだと答えて苦笑した。エルンスト=クレッチマーといえば精神医学者、心理学者であって、その体質論は一九三五年に発表されたところである。そこでは、肥満型と躁欝病との親和性、細長型と精神分裂病との親和性を軸として仮説が展開された。結局、クレッチマーは、肥満型、細長型、筋骨型と、三つのタイプに体質を分類する。これに続く体質論はこれを脱脚することができず、心理的側面を重視する傾向が強い。この論理を貫徹しようとすれば、天然痘ワクチンによるショックのごとき現象を体質に結びつけることなどは無理だろう。クレッチマー流の体質論は、臨床医の切札となる体質論とは縁がない。それは現実に有効性をもっていないのだ。

 一九五三年以来われわれは、生体のあらゆる現象がセントラルドグマ、すなわち〝生命の中心原理〟を軸として解釈されるべきことを、ワトソン、クリックの両氏によって教えられた。それが遺伝情報の担い手DNAの発見をさすことはいうまでもあるまい。ここでわれわれは、宿題の体質論もまたセントラルドグマを根底において構築されるべき必然にあることを知るのである。そうかといって、体質論へのアプローチが自動的にDNAから生まれでるわけではない。

 ここに有力なヒントとなるのは、ライナス=ポーリングの指摘である。アメリカの統計だが、風邪ひきの経験のない人が約一〇%いる。ビタミンCを大量に投与すれば風邪ひきは一人もいなくなるだろうと彼はいう。ここには、風邪をひかない体質なるものの存在を否定する論理がある。

 ポーリングによれば、風邪をひかないために必要なビタミンCの量には個体差があって、一日二五〇ミリグラムから一〇グラムまでの幅をもっている。風邪ひきの経験のない人はこの必要量が少なく、しかもそれを確実に摂取する食習慣の持ち主と想定してよかろう。一方、風邪をひきやすい人はビタミンCの必要量が多く、それが日常的にまかないきれない場合と考えたらどうだろうか。仮りにこの必要量を一〇グラムとすれば、それの摂取のためには一日じつに二〇キログラムのレモンを食わなければならず、そんな食習慣の持ち主などいようはずがない。そこでこの人間を風邪ウイルスに対して弱い体質の持ち主と見ることになる。

 ここでの論理は、体質の数量化といえるだろう。そしてまた体質の弱点は、少なくともこの場合、ビタミンCでカバーできるということだ。一般に体質といわれるもの――ピリン系解熱剤や天然痘ワクチンに対する弱味から躁欝病や分裂病までを包括して――はすべて数量化可能でありカバー可能であると仮定してみてはどうかと私は思う。それこそがDNAレベルでの体質論になるのではなかろうか。

 ウイルスへの対抗手段として生体のもつ物質にインターフェロンがある。これは椎茸ブームの背景にある問題のタンパク質だ。ビタミンCはそれの合成反応の助酵素として登場する。DNAにはインターフェロンを合成する酵素の設計図となる遺伝子があるはずだ。この酵素がビタミンCと合体してインターフェロンの合成反応を実現する。この遺伝子に個体差があり、したがって酵素に個体差があってその個体差がビタミンCとの親和力の差としてあらわれると考えたらどうだろうか。親和力が小さいとは、ビタミンCの血中濃度が高くないと、それが主酵素と結合しえないと仮定するわけだ。

 ここでの大前提は、DNAレベルでの遺伝子の個体差の存在である。具体的にいえば、A氏のインターフェロン合成酵素の特定位置のアミノ酸が、B氏のそれとはちがうのだ。このアミノ酸構成のちがいが親和力の差の形にあらわれると考えたい。この論理でいけば、恐らく、遺伝学でいう優性、劣性の別も親和力の差として数量化できることになろう。ここではそこまで議論を発展させる積もりはないが。

 体質というものが、遺伝子のつくる主酵素とビタミンなどの助酵素との親和力の大小として数量化されるというのが私の仮説であるが、これの立証はきわめて困難だ。ということは、これを誤りとして証明することも困難ということである。しかしDNAには、したがって遺伝子には突然変異が生じやすいことは事実であり、多くの突然変異が正常な代謝の範囲に納まることも事実であって、われわれ各人が多かれ少なかれ変異種であることは否定できない。皮膚ひとつとってみても、他人のものを移植することが不可能である事実は、そのタンパク質のアミノ酸構成に相違点のあることを証明するものにほかならぬ。他人の皮膚は異種タンパクとして識別され排除されるのである。腎臓や心臓などの移植における困難さも、このためではなかったか。地球上でわれと同一のDNAをもつ人間は、一卵性双生児以外に絶対にいないのである。それはすなわち、同一の体質の持ち主はいないということにほかならぬ。換言すれば、各人は何らかのビタミン類との親和性において、多かれ少なかれ弱点をもつということだ。しかもその弱点を発見する方法がいまはない。この見えざる弱点をカバーする唯一の道は、ビタミン類の大量投与ということになる。ワトソン、クリックのDNA発見はそのことをわれわれに告げたのだ。

 ここで注意すべきことは変異皮膚、変異肝臓、変異腎臓、変異血液などが、見掛上での差別なしに同一の機能をはたす点である。この事実は、習慣的に摂取する栄養物質で、遺伝上の弱点の大部分がカバーされていることを示すものにほかなるまい。それがカバーされきれなくなった時点でアレルギー体質、特異体質などといわれる事態が発生するということであろう。

 神経機能となると、体質というかわりに素質という言葉がでてくる。学問の素質があるとかピアニストの素質がないとかいう、あれだ。しかしDNAレベルで考えるとすれば、体質と素質との区別など、できない相談だろう。素質もまた数量化可能ということになってくる。

 一部読者はたぶん、ここで知能指数を思いうかべるだろう。そして学者の素質はIQでとらえられても、ピアニストの素質はIQでとらえられないと想像をめぐらすことだろう。

 知能指数が方法論の一つであることを、私は認める。しかし、DNAレベルでものを考えるとすれば、これはあまりにも皮相な見解といわなければならぬ。IQが低いということは、ある面での頭脳の働きがスムーズでない状態に対応する。脳内代謝に登場する酵素に、助酵素との親和性の格段に小さいものがあったとすれば、その助酵素の大量投与のないかぎり、頭の働きに差し支えがおきるのは当然ではないか。その大量投与を怠っておいて、頭が悪いとか数学の素質がないとか、勝手な理屈をこねるのは、一つの俗流心だと私は思う。千葉康則氏にしても林たかし氏にしても、脳生理学者が異口同音に、「悪い頭とは何のことかわからない」といって俗流に挑戦しているのを軽視してはなるまい。この見解はDNAレベルで再確認されるべきものと、私は思う。脳の代謝の弱点の比較的小ない人間を選びだし、それを素質に恵まれたものと見てエリートに仕立てようとする風潮はますます露骨になりつつあることは周知の通りである。わが国の教育のシステムは、この線でかたまろうとしている。体質論、素質論を抜きにしてこのような路線を敷くのは、せっかくの自然科学の知見を無視する暴挙といってよいのではあるまいか。

 ここでの体質論、素質論は、助酵素に偏したかもしれぬ。主酵素はどうしたかと、問う人もあろう。主酵素の設計はDNAの担当である。そして、主酵素はタンパク質であり、その材料はアミノ酸だ。そこで、主酵素の合成には、アミノ酸群すなわちタンパク質が必要ということになる。タンパク質の補給に手ぬかりがあっては、ビタミン類に不足がなくても代謝はスムーズにおこなわれないということだ。この代謝障害が体質以前の問題であることに注意する必要がある。こうなっては、体質の弱点が露呈するまえに栄養の欠陥が暴露されるだろう。不完全な食生活は、体質の弱点をこえた病気の温床となり、いわゆる頭の悪い状態をもたらすだろう。

 体質をいい素質をいうとき、それは先天的差別を思わせる。もしそれがカバー可能であるとしたら、これを振りまわすのは文化的犯罪行為といえるだろう。すべての論議、すべての施策は、自然科学の現在のレベルに即したものでなければならぬといったら、暴言だろうか。

東京タイムズ 一九七四年六月二十五日

3 ビタミン大量投与の是非をめぐって

ビタミンCの場合

 医者が内容の知れない薬をおしつけることを、われわれはなんとも思わなくなっている。その医者は素人がビタミン剤に手をだすと、そんなものは食事でとれといいたがる。はたしてビタミンの必要量は食事からとれるものだろうか。

 まず、ビタミンCからいこう。周知のごとくこのビタミンの欠乏は壊血病を招く。そして、その予防に必要な一日摂取量は一〇ミリグラムとされている。一九六三年アメリカのFDAはビタミンCの一日必要量について次の決定をおこなった。(1)壊血病状を治療できる最少量以上であること、(2)傷の治りが正常であって細菌の毒や寒さなど一般的ストレスに対する抵抗性などの諸機能が十分にはたせる量であること。結局、ビタミンCの一日の必要量六〇ミリグラムという数値はこの根拠によって求められたものである。

必要量は働く面で異なる

 一般にビタミンの役割りは多様であって未知のものをふくんでいる。それの働く面によって必要量は異なると考えるべきものである。最近のメディカルトリビューン誌の紹介するところによれば、アメリカのC・スピットルは、ビタミンC一日必要量を一グラムとしている。彼はコレステロールの代謝にビタミンCが介入する点を重視する。ビタミンCの血中濃度が高ければ、コレステロールは動脈壁に沈着することなく肝臓に運ばれることが発見されたからである。この状態では粥状隆起アテロームはできにくい。しかもなおビタミンCにはアテロームを崩壊させる作用のあることが実験によって推定される。スピットルはビタミンC大量投与によって静脈血栓症が完全に予防できたといっている。脳梗塞も心筋梗塞も血栓症につながることは言うまでもあるまい。血栓症による悲劇的事故を頭において、彼は独り暮らしの老人にはビタミンCの大量投与が望ましいとする。

尿へ流出するのみという説

 わが国では従来ビタミンCの大量投与は、尿への流出あるのみという説が流布されてきた。しかし実際には、その血中濃度は摂取量にほぼ比例するものであって、大量投与の研究はすべてその前提のもとにおこなわれている。ビタミンCの血中濃度の高いことが、いわゆる頭の回転をスムーズにして知能指数を上昇させることも知られているのである。

 ビタミンCの大量投与が風邪のようなウイルス病の予防に有効なことはL=ポーリングによって強く主張されてきた。彼によれば、風邪をひかないために必要な一日摂取量は二五〇ミリグラムないし一〇グラムであって、この幅は経験的に発見された個体差である。

 最高値であるにせよ一日一〇グラムという数値は莫大なものであって、レモンを給源とすれば実に二〇キログラムという非現実的な量にのぼる。
臨床医ストーンは、一日三グラムから五グラムのビタミンCをとり始めてから一〇年間、一回も風邪をひかなかったという。

 彼の風邪の患者に対する指示は次の通りである。まず風邪の徴候がみえたら、一・五グラムのビタミンCを服用し、さらに一時間以内に同量を服用する。そして症状がなくなるまで、一時間ごとにこれをつづける。この方法でいけば、三回目で食いとめられるのが通例で、重症になる恐れはないという。

 ポーリングは椎間板ヘルニアに対してもビタミンCの大量投与の有効性を説く。手術を要する程度の患者がこれによって全快した例をあげ、さらに全快後に服用をやめて再発した例をあげている。

 ビタミンCの脳に対する作用の機序は明らかでないが、ウイルスに対する作用、椎間板に対する作用などはすでに判明している。したがって大量投与の意義には確実な根拠があるといってよい。

 ポーリングが社会主義者であること、風邪薬が製薬会社のドル箱であること等によって、彼のメガビタミン療法は、祖国アメリカにおいて猛反撃をこうむった。そのポイントは、ビタミンCの製剤はナトリウム塩の形のものであり、それは食塩の過剰摂取と同等であるという理由におかれた。しかし実際には、ナトリウム塩でない製剤もあるのであって、一方、大量投与の効果が各方面で確かめられつつある現状から、最近はアメリカでも風向きが一変したようである。かつての反対論者のなかに転向者続出のありさまとなった。ビタミンCは予防効果はともかく罹病日数をへらす効果はあるという説もあらわれた。
 念のために付言すれば、ビタミンCの一部は体内で蓚酸に変化するため腎臓結石、膀胱結石の原因となりうる。ビタミンAの摂取あるいは水の十分な摂取、塩酸リモナーデの飲用などによって、この結石は回避できるはずである。

ビタミンB群の場合

 ビタミンB群はビタミンCとともに水溶性ビタミンに属する。この種のビタミンの大量投与では過剰分が直ちに尿によって排出されるという説が、いわば常識となっている。しかしそれは極端な表現にすぎず、いわゆる過剰分が完全に排出されるまでにはかなりの時間を要するものであって、それまでは血中濃度を高める効果をもっている。そしてまた、水溶性ビタミンの高い血中濃度はそれ相応のメリットをもつと考えるのが正しかろう。

 ワラビ、ゼンマイなどのたぐいを半分まぜた飼料を馬に食わせた小柳達男氏の実験がある。それらシダ類にはビタミンB1を破壊するアンチビタミンが二種類もふくまれている関係上、この馬のビタミンB1の血中濃度は次第に低下する。すなわち、一週後には最初の二分の一となり、三週後には三分の一となった。生体にはビタミンの血中濃度を制御するメカニズムはないのである。そこにおいて、ビタミンの大量投与による血中濃度の高値が、生体にとって有利か不利かの問題がでてくることになる。むろん、ある濃度より低下すればいわゆる欠乏症状があらわれ、それの回復には血中濃度の上昇のための大量投与が必要になることは、実験するまでもなく推察できるところである。

 前記実験の場合ビタミンB1の血中濃度が最初の二分の一まで低下する過程において、馬は憂うつな表情を示し、ぼう然と立って動くことをきらい、食欲は減退し、眼光はにぶった。次に血中濃度が二分の一よりさらに低下する過程において、馬は興奮状態におちいり、手で触れられるのをきらい、眼光は異様に輝き、飼料の食い方は粗暴になり、横木をかじり、物を蹴った。

 三週目にはいると、後足がしびれたらしく犬のように坐ってしまい、数日後には倒れて飼料を呑みこむこともできなくなった。そして、ビタミンB1の大量注射によって、わずか一時間で馬は常態に復したのである。

 以上の実験について記した『食物と健康』(東都書房)のくだりのなかで小柳氏は、ビタミンB1欠乏の初期には憂うつ、中期には興奮、末期にはマヒがおとずれることと結びつけて、われわれのまわりに、これらの各段階の人が見られることを指摘しているが、この背後には、日本人が慢性ビタミンB1欠乏に陥っているという見解がある。このことから、林たかし氏の日本人エンセファロパチア説を想起せざるをえない。

 エンセファロパチアとは潜在性脚気の意味であって、他人の足を引っ張る、判断力がにぶる、夢と現実とを混同する、などが主症状であると林氏はいう。これらに相当する現象が馬にあっても人間ではわかりにくい点は注意を要するところであろう。日本人のイライラもこのたぐいではあるまいかと思うこと度たびである。ビタミンB1剤アリナミンが、猛烈な批判をうけているにもかかわらず、医家によっても素人によっても大量使用される事実は、日本人の食生活に欠陥のあることを想像させる。

 この点についての重要な資料を太平洋戦争中に見い出すことができる。シンガポール島チャンギ刑務所に収容された五二、〇〇〇の白人捕虜の間にエンセファロパチア患者が多発した。原因は白米の粥である。この場合、記憶力の低下がいちじるしく〝チャンギメモリー〟なる新造語が生まれるしまつであった。

 この症状を追跡していたクルクシャンク及びプルゲスの両医師は、帰国後回復した帰還兵の有志をつのり、チャンギと同様の生活をさせてみた。すると病気は再発した。

 アメリカの一刑務所にも実験例がある。ここで女囚一一名を対象とし、ビタミンB1を破壊した食物に一日〇・四五ミリグラムのそれを添加した。すると、イライラ型と陰気型との二種の症状をみることができた。ここに日本人の弱点の鏡があるような気がしてくる。

 ビタミンB1の大量投与効果の具体例をあげよう。スキーのような過激なスポーツの場合、毎日五〇ミリグラムを注射すれば、中・高年者でも筋肉痛を発しない。重い石を持ち運ぶ作業で手がマヒし、指が硬直した中年男子の場合、経験上翌日までは治らないとされたその症状が、一〇〇ミリグラムの注射によってわずか五分で消失した。

 乳ガン手術後の腕の腫脹の対策は今後の課題となっているが、ビタミンB1の大量投与はこれに有効のようである。連日一〇〇ミリグラムの注射でこれの消退した例がある。隔日五〇ミリグラムの注射でこれを予防できた例がある。一〇年間の大量投与で正常な状態にあったものが、中止後二ヵ月で腫脹を発した例がある。

 わが国ではビタミンB1の一日必要量を〇・三ミリグラムとする。これが食事でとれ、しかもこれだけの量でまにあう生活が普遍的にあるとすれば、イライラや足の引っ張りあいがわが国の世相の基調をなしているのはおかしい。大量投与とまでいかなくても、食後にナッツをつまむぐらいの心掛けがほしいものである。ただしナッツでビタミンB1五〇ミリグラムをとろうとすれば、五キロという莫大な量をつめこまなければならず、食事ではとてもむりという結論がただちに出てくる。

 ビタミンB、ビタミンCなどのいわゆる水溶性ビタミンの大量投与では、過剰分が尿に排出されるがために問題はおきないが、脂溶性ビタミンの場合には、過剰分が体内に蓄積される点から害作用が論じられる、というのが従来の図式であった。水溶性のはずのビタミンB1を脂溶性に変形した薬剤アリナミンが、貯留性を獲得すると同時に薬害を批判された経緯は見逃せない事実であろう。

まだたりぬ摂取量

 このような背景のあるところから、脂溶性ビタミンの大量投与はこれまで現実にはおこなわれなかったといってよい。それにもかかわらず、先般ビタミンAの過剰投与が問題になった。このビタミンの一日必要量は、卵黄にして四個、バターにして六分の一ポンドであって、われわれの食習慣からすればむしろ不足している。日本人に胃ガンの多発することについて世界保健機構(WHO)はビタミンAの不足を指摘しているのであって、ビタミンA剤の服用が直ちに過剰摂取につながるような印象を与えたのはまずいといわざるをえない。われわれの栄養生活は多くの欠点をもっているのである。

 ビタミンEを例にとろう。これの大量投与によって筋肉の酸素消費量が四三%も切り下げられることはいわゆる先進諸国のスポーツ界では常識であって、一九七二年のミュンヘンオリンピックにおけるオーストラリア水泳選手の好記録も、恐らく今年のマラソン世界選手権大会における外国勢の好成績も、この脂溶性ビタミンに負うものであった。カナダの例をみれば、ビタミンE投与量は、最初二〇〇国際単位であって、逐次これを増量するという。オーストラリアの例をみれば、競技の半年前から大量投与を開始したという。

 ビタミンE含有量の最も多い食品は小麦胚芽であって、われわれの食生活にはあまり縁がない。もしこれで二〇〇国際単位のビタミンEを摂取しようとすれば、毎日一四〇グラムの小麦胚芽油を飲まなければならない。サラダオイルに使われる大豆油にもビタミンEはふくまれているが、これで二〇〇国際単位のビタミンEをとろうとすれば一、二四〇グラムの油を飲まなければならなくなる。ビタミンの大量投与という行為は、食事を当てにしては絶対に不可能なのである。

 老人病の権威として知られる故緒方知三郎博士は、老化にニセ物と本物とのあることを論じた。そして真の老化に対してビタミンEが予防手段となりうると説いた。ここでもまた、食事からのビタミンEなど当てにされてはいない。念のために付記すれば、ニセの老化の予防には彼の発見にかかるパロチンが有効である。

顕著な抗酸化剤

 老化には多くの過程があるが、大きな面の一つは酸化である。ビタミンEにはその酸化を抑制する作用がある。そこでこのビタミンが真の老化に対して働きをあらわすわけであるが、酸化が全身的規模でおこれば、それをおさえこむに十分な量のビタミンEが少量でたりるはずはない。これに不足がなければ老化過程の逆もどりもあることを動物実験で確認したのは、ストレス説の提唱者ハンス=セリエである。具体的に彼の見たものは腎臓や大動脈に沈着したカルシウムの減少であった。

 西欧では心臓疾患が成人病の最大なものとなっている。これに対してビタミンEの大量投与が著効をあらわす。ビタミンEの発見者エバン=シュートによれば、多くの心臓疾患はビタミンEの欠乏からおこる。狭心症患者の八〇%は、ビタミンEの大量投与によって症状が軽くなるという。ある心筋硬塞患者の場合、一日量八〇〇国際単位を一ヵ月つづけて恐怖の発作がとれなかった。そこで一日量を一、二〇〇国際単位にふやし、一週間後にさらに一、六〇〇国際単位に増量して、はじめて発作をおさえきることができた。この量は小麦胚芽油換算一、一二〇グラム、大豆油換算一〇キログラムに当たる。

 この患者は重症の場合であって、普通の狭心症には一日八〇〇国際単位で足りる。ただしこれより減量すれば再発の危険がある、とシュートは報告している。

減量すれば再発も

 ビタミンEが心臓発作に対して治療的効果を示すのは、動脈壁に発生した粥状隆起を崩壊させ、あるいは粥状隆起の剥離によって生じた血栓を溶解する作用による。この面に着目すれば、ビタミンEの作用として循環系の改善をあげることができる。これは酸化抑制作用とは別個のものとみてよい。単純な酸化抑制作用だけが目的なら、ビタミンEの一日最低量は二〇〇国際単位とされる。

 循環系の改善といえばビタミンEの大量投与は静脈炎の治療にも有効である。閉塞性静脈炎のため両足切断を要すると外科医に診断された患者が、一日に二、一〇〇国際単位のビタミンEの服用によって全快した例がある。

 一般にビタミン大量投与が成功するケースがありうることは、理論的に十分に推測されるところであって、いわゆるメガビタミン療法は今後さらに研究を要する分野であると考えられる。

東京タイムズ 一九七四年一月二十三日

4 スポーツとタンパク質

必要だからうまい

 スポーツマンの好物がビフテキであることは、われわれ門外漢にまでよく知られた事実である。そうかといって、うまいものを食べればスタミナがつくというたぐいの単純な論理で、ビフテキをスポーツマンに結びつけてはよろしくない。

 うまいと甘いとは、英語などでも同義である。甘くさえあればうまいとする感覚は、スポーツマンにも子どもにもある。エネルギー消費の大きい彼らが、エネルギー源である砂糖を好むのは、むしろ当たり前だろう。

 だが、甘くなくてもうまいものはある。それの象徴的なものは、一群の化学調味料だ。ところがこれは、糖とは全然ちがった物質に属する。化学調味料といえば、グルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸など、アミノ酸もしくはアミノ酸誘導体であって、いずれも生体を構成する基本的な物質の仲間だ。

 これらを総合して考えると、うまいものには二種あって、一つはエネルギー源、一つは身体の材料、ということになる。結局、うまいものとは、われわれの生命や活動にとって必須のものなのだ。だいじなものであるからこそ口にいれて快いのだ。

 酒飲みは、甘いものをうまいとは思わない傾向がある。エネルギー源を、砂糖でなくアルコールに仰いで足りるなら、それでさしつかえないわけだ。スポーツマンなら、酒好きな人でも、甘いものに手を出すだろう。エネルギー消費が大きければ、アルコールだけではそれがまかなえない、ということだ。

タンパク質の必要性

 人間の身体をある程度まで分解したら、青・壮年の場合、その六五%が水分子に、その二八%がアミノ酸分子になるだろう。この水やアミノ酸が、そのままそこにとどまっているものなら、われわれは、水も飲まず、アミノ酸も食わずで、生きていけるはずだ。

 現実を見ると、われわれは、一日のうちに何回もトイレに入り、尿を排出する。この経験からわれわれは、水の損失が不可避であることを知り、水を飲む必要を思う。

 実を言うと、尿の中味は水ばかりではない。それはつねに尿素をふくんでいる。尿素はアミノ酸の最終分解物である。したがって、われわれの目が、水を見るがごとくに尿素を見ることができたとしたら、トイレに入るたびに水の補給の必要と同時に、アミノ酸の補給の必要を思うことだろう。

 もしわれわれが、十分に科学的であろうとしたなら、尿に排出される物質は何かを知って、それを手がかりとして、栄養の問題と取り組むべきなのだ。医者なら、尿の成分に異常があるかどうかを調べて、それを診断の手がかりにするではないか。

 尿にはつねに尿素がふくまれているという事実は、われわれの身体を組み立てているアミノ酸がつねに分解していることを、端的に物語っている。それはつまり、われわれの身体がつねに崩壊するからこそ、われわれは、口からアミノ酸の補給を心がけなければならないのだ。

 われわれが食物としてとるアミノ酸は、化学調味料のような特殊なものを除けば、タンパク質の形をとっている。タンパク質は、アミノ酸をつぎつぎにつないだ鎖状分子である。ビフテキを食うということは、アミノ酸の鎖状分子を消化管に投入することにほかならない。

体重一kgあたり一g

 さて、スポーツマンがビフテキを珍重する理由は何だろうか?スポーツマンの体内で、アミノ酸の分解がとくに激しいとでもいうのだろうか?

 スポーツマンは常人より余計に骨格筋や心筋を酷使する。これらの筋肉は、いうまでもなくタンパク質の存在様式の一つである。そのタンパク質分子は、つねに崩壊し、そして再構築される。再構築にさいしては、新しいアミノ酸が要求されるが、これが不足であれば、再構築された筋肉は、もとのものより細く弱くならざるをえない。タンパク質の補給が不十分な状態でトレーニングを行えば、成績が努力と逆行して落ちるという、悪循環が始まる。筋肉の酷使は、その崩壊を促進するのだ。
一般に、臓器の組織が、崩壊と再構築とによって更新される速さについて半交代期という概念が設定されている。これは、組織の半分が更新される時間であって、筋肉の場合、その値は一六~一八〇日とされている。更新の盛んな部分では、一六日で半分が新しくなるということだ。スポーツはこれを短縮する。

 半交代期の数値は臓器ごとにことなるが、いずれにせよ、これが、われわれが一日に摂取しなければならないアミノ酸の量、したがってタンパク質の量と深くかかわっている。

 正常な成人の場合、タンパク質の一日必要量は、体重一㎏あたり一gとしてよい。しかし、筋力の増強を願うならば、この値は三〇~五〇%増となる。体重七〇㎏のスポーツマンの場合、タンパク質の一日必要量は、一〇〇g前後になるだろう。

 これをまさかビフテキ一本でとろうなどと思う人はいまいが、仮にそんなぜいたくをしようとすると、何と、六〇〇g前後になる。タンパク質一〇gをとるために必要な牛肉の量は六五gにのぼるからだ。牛肉のタンパク質含有量は一九%である。しかし、含硫アミノ酸の比率が低いために、そのタンパク質の利用率は八〇%しかない。六〇〇gという驚異的な数字がでるのは、その低い利用率(プロテインスコーア)のせいである。

計算された食生活

 予算の関係か何かでビフテキが二〇〇gしか食えなかったとすると、牛肉四〇〇g分のタンパク質を何かで補わなければならなくなる。これは六〇gのタンパク質に相当する。参考資料としてタンパク質一〇gをとるために必要な量を示すと、米飯では六五〇g、食パンでは二八〇g、うどんでは六九〇g、そばでは三六〇g、ジャガイモ一、一〇〇g、イワシ、サケ、アジで六〇g、サンマ、カジキでは五〇g、豆腐では三三〇g、卵では八〇g、牛乳では四七〇g、チーズでは五〇gとなる。これで補給計画をたてることだ。米の飯でいこうとすれば、三〇杯ぐらいになるから、おかずで何とかしなければならなくなる。この計算をなおざりにするようでは、スポーツマンの現代的資格が問われるだろう。そしてこれが、日本のスポーツ界の低調の根底に、厳として横たわる弱点ではなかったか。

配合タンパクの利用

 ここにあげたタンパク質の必要量は筋肉の要求のみからきまったものではない。アミノ酸から筋肉をつくるにさいしても、糖からエネルギーをつくるにさいしても、代謝という名の化学反応がいる。そしてそれは、酵素とよばれるタンパク質の媒介によって実現する。スポーツでは代謝が促進され、酵素タンパクの需要がふえる。酵素にまわるタンパク質の量がふえるということだ。

 一方、スポーツには極限の負荷がしばしば要求されるが、それはストレスの原因となる。このストレスがタンパク質を食うのだ。ストレスが大きければ大きいほど、タンパク質の要求量はふえる。それはつまり、ビフテキ六〇〇gでも不足になるということだ。

 このぼうだいなタンパク質要求にこたえる最も簡単な道は配合タンパクと私が名づける栄養補助食品の利用である。私の常用するものについていえば二〇〇gのビフテキに追加すべきタンパク質は、八〇gの配合タンパクでたりる。解決策はきわめて手近にあるのだ。くわしくは『高タンパク健康法』(本書シリーズ九巻)を参照されたい。スポーツにとっての今後の課題の一つがタンパク質の問題にあることは明らかである。

陸上競技 一九七七年三月

本書シリーズ9巻「高タンパク健康法」は絶版となっており、現在は阿部出版より「高タンパク健康法」として再販されています。

5 スポーツとビタミン

 ご承知のとおり、昨年のスポーツ競技界は新記録ラッシュの年であった。そしてまた、先進諸国では、この傾向がすでに数年前から始まっていることも、ご承知のことであろう。

 この興味ある現象は、私がかねてから予想したところであった。あえて予想をかさねるならば、恐らくこの新記録ラッシュ時代は、これから数年間つづいたあげく、ついに沈静して、低成長時代を迎えることだろう。
確信していえることは、この新記録が猛練習のみからきたものではないということだ。

猛練習のメリット、デメリット

 わが国のスポーツマンは猛練習になじんでいる。練習また練習で、へとへとになることが、記録向上の唯一の道であるような錯覚がゆきわたっているようだ。また、これを可能にするための厳しい管理体制のあることも、周知の事実となっている。くたくたになるまで、走ったり、跳んだり、泳いだりすれば、われわれのからだは自然にエネルギーの節約を余儀なくされる。むだな力を抜き、よけいな筋肉を使うまいとする。力む現象を離脱する結果となる。

 こうして、最少限のエネルギーで目的の達成ができるようなからだをつくることは、スポーツマンにとって必須の条件である。このことを可能にするという意味でのみ、猛練習のメリットを見ることができる。それができてしまえば、もう猛練習との縁はゆるめる必要がある、と私は思っている。

 参考のために、それを裏書きする具体例を二つ三つあげておく。

 古い話になるが、メルボルン=オリンピックのとき、大会二ヵ月前に一六メートル四八の世界記録を樹立した小掛選手が、三段とびの金メダルを獲得するものと、日本人は誰しも期待をかけていた。ところがいざ当日となると、一五メートル七〇で第七位という不振に終わった。周囲はこれを精神力の不足と評価したが、真実は、千葉合宿の練習のたたりであって、紺野義雄氏にいわせれば、筋肉が硬くなっていた。

 陸上一〇〇メートル競走の日本記録を二〇年以上も保持した吉岡隆徳選手の偉業はスポーツ史上に輝やいている。この記録を樹立したのは一九三六年に大阪で催された日比対抗競技の場であった。彼は当日の五日前の夜行列車で東京を出発したのであるが、先方につくと腹痛におそわれ、友人の家で寝こんでしまった。おかげで猛練習どころではなくなり、二日前に軽い練習をしただけで本番を迎えた。そして、一〇秒三という前人未踏の記録を達成したのであった。

 まだある。ベルリン=オリンピックで三段とび世界記録をだして優勝した田島選手は、猛練習で調子をおとしたままヘルシンキに到着した。しかもそこで足をいため、ベルリンに乗りこんで二週間、スパイクをはくことができなかった。そのあげくの好記録は、猛練習をしなかったところにあった。

 一昨年までの記録低調は、いたずらなる精神主義によるものと私はみている。これについての見解を、私は一九七三年九月の東京タイムズに、『敗退する日本の精神主義』と題して書いておいた。日本は神国だ、などという神話が、第二次世界大戦で崩壊した今日、スポーツ界に残っている精神主義が、一日も早く尻尾を巻くことを願ってやまない。

精神主義にかわるもの

 まずここで、近年とくに水上競技にみられた新記録の世界的ラッシュのよってきたるところにビタミンEのあったことを強調しておく。

 ミュンヘン=オリンピックで、オーストラリア水泳陣が驚異的成績をあげたが、これは六ヵ月前からのビタミンE大量投与の結果であった。そしてそれ以後、各国でビタミンEの利用がさかんになり、新記録ラッシュ時代がきたのである。

 ビタミンといえばいろいろあるが、すべては食物からとるべきものとする論者が多い。しかしそれは分子生物学という名の新しい科学を知らない人のいうことであって、精神主義とともにカビの生えた思想である。ビタミンEがわれわれの食生活でまにあうなどと考えたらとんでもないことになる。スポーツをしない人にとっても事情は変わらない。

 そうはいっても、ビタミンEは、食品にふくまれている。だがその筆頭は小麦胚芽であって、日本人の食品のリストからは完全にはみだしているのだから問題だ。

 じつをいうと、ビタミンEは、米胚芽にもトウモロコシにも大豆にも綿実油にも、多くの食品にふくまれている。ところが、それが天然品だけでも八種の化学物質にわかれているからめんどうだ。結論からいえば、小麦胚芽にふくまれるアルファが最高である。外国選手は小麦胚芽油を使っている。

 ビタミンEのための小麦胚芽油は、それから抽出したものを小麦胚芽油に加えた形になっているのがふつうだ。したがって、いろいろな濃度のものが市販されている。要は、一単位がいくらにつくかを計算して品を選ぶことが有利だ。私は、いろいろな合成品や天然品を使ってみて、そこに多種多様の問題のあることを知った。
くわしくは『ビタミンE健康法』(本書シリーズ八巻)を参照されたい。

本書シリーズ8巻「ビタミンE健康法」は絶版となっており、現在は阿部出版より「ビタミンE健康法」として再販されています。

スポーツマンにとってのビタミン

 スポーツにとってのビタミンEの重要性はいくら高く評価してもオーバーにならない。大げさにいえば、これを無視するスポーツマンが時代おくれであることを、歴史は明快に証明するだろう。
まず、スポーツのような運動で、筋肉は大量の酸素を要求する。それに応じて呼吸は盛んになるが、吸気中の酸素の四三%は、不飽和脂肪酸の酸化に消費されて、エネルギーの発生に利用されない。オーストラリア水泳陣の場合、揚げ物を禁止したが、それは不飽和脂肪酸を敬遠するためだった。不飽和脂肪酸にも必須なものがあるので、へたに筋を通すと健康上に新たな問題がでてくる。このへんの理論については、前記『ビタミンE健康法』を参照されたい。

 そこでビタミンEの効果であるが、それは不飽和脂肪酸の酸化抑制作用にほかならない。ビタミンEがあれば、吸気の酸素はすべてエネルギー発生に利用されると考えてよい。これは、呼吸がらくになることを意味する。呼吸条件のきびしい水泳において、最初の成果があったのも当然だろう。

 ビタミンEが不足ならば、筋肉が十分な酸素の補給をうける状態をつくりだすことが不可能である。ビタミンEを知らない時代、その状態でのテクニックが、あらゆるスポーツにあったわけだ。したがって、ビタミンEを摂取した場合のテクニックは、従来と同じでないはずだ。この点の工夫いかんで記録の伸びはきまってくる。われわれは、そこに期待しているわけだ。

 ビタミンEが不足すると、クレアチンリン酸が尿に排出される。この物質は筋肉が急激に収縮するさいのエルギー源である。ビタミンEの存在は、クレアチンリン酸を筋肉内に保持する条件となり、瞬発力を強化する条件となる。このビタミンには、スポーツマンの見逃せない効果が二つもあるわけだ。ビタミンEには、筋肉のこりをほぐす作用もあることを、つけ加えておこう。

 ついでにいえば、いわゆる特訓の場合、ビタミンC、Eとタンパク質との大量消費がある。栄養条件を完全にふまえるまでの過程で、記録の更新がつづく、と私は思っている。

陸上競技 一九七六年二月

6 無知こそは悪の根源

 お互い日本人のなかでは、「科学に弱い」という言葉が、まったく安易に抵抗感なしに使われます。ご承知のとおり、それは怪しまれることなく、欠落状態とみられることなく、堂々とまかりとおります。いやむしろ、科学のような地味で陰気くさい学問など無視するほうがさっぱりする、という考え方もないではありますまい。

 それについて、私が好んで引用する言葉があります。それは、「無知こそは悪の根源である」という、ロベール・ギランの言葉です。科学に弱いとは、科学に対する無知にほかならないでしょう。科学に対する無知から、悪が生まれることを、私どもは日常的に知らされているはず、というのが私の持論みたいになっています。

「地震、雷、火事、親爺」という古い言葉があります。これはこわいものの序列として、永遠の真理を語るものといえましょうが、ここに無知があると、親爺が地震よりこわいと思われたりする危険性があります。

 具体例をあげてみましょう。

 人工甘味料のサッカリンは、発ガン性があるとかないとか、よく話題になる代物です。最初に発ガン性をみとめたのは米国で、一九七三年四月のことでした。日本の厚生省は、これをうけて禁止措置をとったまではよかったのですが、その八ヵ月後には、一転して規制をゆるめました。消費者運動はこれを見逃すはずがありません。「サッカリンにとどめを刺す会」は猛運動を開始しました。

 これは、私ども日本人の市民運動として定着したパターンでしょうが、こういう場面で必ず思いだすのがギランの言葉なのです。じつは、サッカリンの発ガン物質としての位置はとても低く、例のAF2などとともに幕下にランクされています。これを私は「親爺」とみなすわけです。

 そして、地震はといえば、消費者運動家の視野の外にある、タンパク質の熱分解物、つまりおこげなのです。トリップP1、P2などは、これまでに知られたどんな発ガン物質より強力だといわれます。地震のこわさを忘れて、親爺がこわいこわいと騒ぎたてるような愚に対して、ギランは注意を促している、と私は考えるわけです。

在家仏教 一九七九年一月

7 魚は安心して食えるのか

水銀汚染は先祖代々から

 今年八月、全国四〇都道府県の四九九生活学校にかかわる主婦を対象におこなわれた調査によれば、その八六・二%が食品に対する不安を申し立てたという。この脅威的数字をもたらした最大のものは恐らく水銀汚染の魚介であろう。

 水俣病が天下を騒がして以来、有機水銀の恐怖はにわかに高まった。そして有明海、徳山湾と水銀汚染が拡大するとともに問題は大きくなった。

 水銀汚染魚について最近の話題は、メヌケ、キンメダイ、ギンダラなどの六品目が規制の対象からはずされたことである。これにマグロを加えて七品目が対象外となったわけだ。

 ところで水銀の許容基準値は総水銀で〇・四ppm、有機水銀で〇・三ppmと定められた。この数値をきめる会議では、学者側がご馳走政策で当局に押し切られたと聞いている。専門家の適当とする値の二倍が許容されることになったという。だが、この値はさして突飛なものではない。例えばイタリアでは、輸入品については〇・四ppmにおさえても自国産の魚介については〇・七ppmまでを認めている。ここでイタリア人が日本人ほど魚介を多食しないという事情を忘れてはなるまい。

 マグロを筆頭とする七品目を規制対象からはずした措置についての当局の弁明は、それらの漁獲量があまり大きくないことを主な理由としている。同時に、アリューシャンやミッドウェー沖で捕れたものが異常に汚染されている事実からして、これが天然の水銀であろうと付け加えた。当然のこととして、水銀は水銀であって天然のものも工場排水のものも毒性に差異がないとする反論もあらわれた。

 マグロの七五%以上は〇・五ppmをこえる水銀で汚染されている。他の六品目もこれに似た傾向を示す。しかもこの汚染が工場排水によりはしないのである。これは一つの謎とみえるだろう。

 海洋物理学の知見によれば、地球上の全海水は一億四千万トンの水銀をとかしこんでいる。遠海魚の汚染がここからきたことは明白であろう。人間の責任で毎年海水に流入する水銀の量は全世界で一万トン程度にすぎないからだ。この天然の水銀は火山の噴出物や海底鉱床などからきている。それだからといって、水銀の廃棄を野放しにしてよいという論理は成立しない。

 一九七〇年一二月、日本製マグロ缶詰に〇・五ppmの水銀を発見したアメリカFDAがそれの販売及び輸入を禁止したことがある。やがてマグロの水銀が数十年前の標本にも検出されたことから、翌年二月、この措置は解除された。そこでマグロになぜ水銀が多いかが問題になるのだが、結局、鰓、呼吸量、排出器官などの特異性によるものと考えざるをえなくなっている。マグロは体質的に水銀を蓄積するということだ。恐らくこれは七種魚介に共通にいえる関係だろう。とするならばこれら魚介の水銀汚染は今に始まったことではない。先祖代々そういう魚介を食って水銀に汚染されつづけていたことになる。

 海産生物が特殊な元素をためこむ例はこれ以外にもある。カキの亜鉛、ホヤのバナジン、海藻のヨードをあげることができる。

 こう考えると七種魚介の汚染は水俣湾、有明海、徳山湾などの魚介の汚染とは別個の問題であることがわかる。したがってこれを規制の対象からはずすのはおかしくないといってよかろう。

 水銀化合物は有機と無機とに大別されるが、これを総括して総水銀という。メチル水銀などの有機水銀は他の汚染物質と違って脳細胞に侵入できるために中枢神経を障害して悲惨な症状を呈する。そしてまたビタミンB12の媒介によって、無機水銀が有機水銀に変化する現象が知られている。この現象は多くの生物の体内やヘドロに見られるが、幸いにして人間のような大型哺乳類には見られない。

 タンパク質を大幅に魚介に依存する食生活で水銀汚染問題がクローズアップされたのは当然ではあるが、このかげにPCBなど有機塩素剤による汚染を雲隠れさせるようではこまる。魚屋の店頭にならぶ魚介はすべて多少とも複合汚染されている。水銀は少ないけれどPCBの多いもの、水銀は多いけれどPCBの少ないもの、どちらも多いもの、どちらも少ないものと、汚染状態は多様なはずだ。従って食膳にのせる魚介の選択においては両者の汚染度を比較し、毒性、解毒性の大小を天秤にかける心掛けが必要になってくる。われわれ日本人が白米食のために欧米人の数倍の水銀を蓄積している事実も合わせて考慮すべきだろう。急速に汚染がひどくなりつつあるのは水銀ではなくてPCBであることも見逃してはなるまい。

人体には解毒排出する作用

 すべての海産魚介が水銀に汚染され、白米も平均〇・一ppmをこえる水銀を含むとなると、自衛手段ありやなしやが問題として提起されるのが順序だろう。魚も米も食わずにいることが唯一の自衛手段だということになったら、われわれの食生活は破綻せざるをえない。これを回避する道は〝解毒〟にしぼられるだろう。

 恐らく医学者の怠慢からであろうが、汚染物質の解毒について大衆は無策であってよいかのごとき風潮がわが国に定着している。催眠剤フェノバルビタールがPCBの解毒に効果をあげたというニュースが新聞に報道されたのはつい先頃であるが、その扱いを見ると、素人がその知識を実践にうつすことなど初めから期待していないかのようだ。催眠剤が医師の指示なしには入手不可能という事情のあることはさておいても、この種の報道を実践の指針としてみることのできない日本人の情報受容態勢の弱点を思わざるをえない。

 平均的日本人の毛髪中水銀濃度は六ppmほどであるが、これが欧米で生活すると急速に減少し、帰国すれば数ヵ月で旧値にもどることが知られている。そしてまた、日本で生活をつづけてもこれ以上の上昇をみることがないのが通例である。この事実は、問題の水銀が魚介からきたにせよ米からきたにせよ、解毒排出のメカニズムが人体にあることによって、水銀濃度が頭打ちになることを示している。またとくにマグロを多食する習慣のないふつうの東京都民を対象とする調査では、毛髪中水銀濃度は平均約四ppmであって、少ないものは一ppm以下、多いものは一〇ppm以上という大きなバラツキがある。このバラツキの原因を食物のみに帰して解毒能率を棚上げする現在の傾向は、非科学的であるのみならず、まじめな問題解決を怠るものであろう。

 われわれの血液中には血清タンパクとよばれる物質がとけている。そのうちの一つにグルタチオンという名のタンパク質がある。これは大量のイオウを含むことを特徴とする。そしてそのイオウは重金属を捕捉するといわれる。したがって、グルタチオンの高い血中濃度が維持できれば水銀汚染もさしてこわくはないという論理になる。水銀に挑戦したいというならグルタチオンの原料をしこたま仕込んで、それの血中濃度を高める工夫をはかるべきだといいたい。グルタチオンは薬剤化されて重金属中毒の治療に用いられているのである。

 グルタチオンの血中濃度を十分に高く保つためにはビタミンC、ビタミンE、ビタミンB12および鉄の存在が必要だといわれる。水銀汚染に対する自衛のためにはこれらビタミン、ミネラルの補給に留意せよということだ。

 ところでグルタチオンの原料の問題であるが、これには含硫アミノ酸の一つシステインがなくてはならない。

 二〇種のアミノ酸のうちイオウを含むいわゆる含硫アミノ酸はシステイン、メチオニンの二種しかない。両者はほとんどすべてのタンパク質に組み込まれているが、格段に多くこれを含む食品は卵白のタンパク質である。この事実から直ちに水銀汚染に対する自衛のためには卵を食えという結論が導かれる。都民の毛髪中水銀濃度のバラツキは、卵を欠かさず食膳にのせる習慣の有無とかなり密接にかかわっていると判断する論理があってよいのではないか。体内の水銀はシステインと結合して毛髪や爪に幽閉される。

 ラットについての実験によれば、有機水銀の投与によって肝臓のイオウは減少し、肝臓、腎臓は肥大する。ここにメチオニンを与えると肝臓のイオウが増加すると同時に肝臓、腎臓の肥大は消失し、体内水銀蓄積量は低下するのである。

 含硫アミノ酸システインおよびメチオニンは、血液や臓器内でグルタチオンなどタンパク質の構成部分となるのみならず単独でも存在する。これらはいろいろな化合物となって水銀を捕捉すると考えてよかろう。

 解毒手段があれば水銀汚染から何の障害も生じないかというと、そうではない。捕捉されおわるまでにも、この毒物は脳細胞に侵入し各種臓器に侵入して種々の障害をおこすことが十分に想像されるからである。

 厚生省は魚介の許容基準値を定めるにあたって、メチル水銀の週間摂取許容量を一七〇マイクログラムとした。体内水銀の半量が排出されるのに七〇日を要するという学説が根拠である。この生物学的半減期を信用するなら、毎週許容量を守るかぎり水銀の体内蓄積量は増加しないという理屈になる。ここには自然の解毒排出過程の存在が示唆されているではないか。企業に公害防止の怠慢があってならないのは無論だが、当局や医学者にも対策上の怠慢があってはなるまい。

東京タイムズ 一九七三十二月五日

8 健康法総点検

危険な食品、民間療法

 昨年一一月の厚生省発表によれば、全人口中の病人の比率は年々上昇をつづけ、ついに一二%を越えた。このような事実のある一方、医療技術に限界のあることが次第に周知されつつあるという背景のなかで、一般人を対象とする健康法が、特定の食品、あるいは自然食品、民間療法の形で脚光をあびている。

 医学にも生理学にも生化学にも栄養学にも不十分な知識しか持ち合わせない一般市民は、とかく何やらの一つ覚えに陥りがちだ。そこにピントをあわせて、玄米でいけシイタケでいけ、ローヤルゼリーでいけ、朝鮮ニンジンでいけとけしかける。これさえあれば鬼に金棒の印象を与えるのが、いわゆる健康法の性格らしい。それは、素人をひっかける意図によるのではなく、すでにご当人がその穴に落ち込んでいる、と見える。

 おおかたの健康法は、さすがにガンを忘れていない。制ガン物質として、ニンニクならばゲルマニウムを、玄米ならばベータシステロールを、ローヤルゼリーならば一〇ヒドロキシデセン酸を、シイタケならばインターフェロンを、というあんばいだ。ガンは遺伝情報の担い手DNAの損傷ないし変異から起こるものであって、その原因は多様であり制ガンのメカニズムも多様であることを思えば、制ガン物質がいくつあってもふしぎはないが、この種の特定の化学物質にオールマイティーを求めたら裏切られるだろう。その点でインターフェロンだけは別格としてよい。

 人体がブラックボックスであるかぎり、入力と出力との生化学的関係は捕捉しがたい。そうかといって両者が無関係であるはずはなく、人体のあらゆる状態は摂取する化学物質の支配下にある。いわゆる健康法の多くがこの大原則を無視していることは驚くばかりだ。玄米食主義者は、一日の食事を、玄米一~二合、ゴマ塩、海藻、根菜、野草、豆で構成し、これに少量のみそ、しょうゆ、植物油を加えれば十分だという。豆といわれるものを大量の大豆の意味にとればともかく、これは高度の低タンパク食となって、感染に弱く、貧血、高血圧、リューマチ、胃下垂などと縁の近いからだをつくるだろう。米胚芽に存在するフィチン酸は、重金属と結合してその吸収を阻害するかもしれないが、カルシウムの吸収を困難にして、骨の脱灰や萎縮を招く恐れもある。玄米食のメリットは、繊維素による便通、少しおまけしてガンマオリザノールによる自律神経調整、キレート物質による重金属の解毒あたりにとどめをさすだろうが、少々心細い。それにしても、胚芽の農薬汚染が心配だ。

 玄米食主義はそれが総合的プランを示す点で責任の所在が明らかである。そこへいくと入力の内容を問わずに、ニンニクだ、ローヤルゼリーだ、朝鮮ニンジンだ、シイタケだという健康法は無責任ではあるまいか。それらは、たまたま不足している化学物質がそれによって補給される場合をのぞけば、よけいなお節介でしかない。そういう意味ならば、不足する確率の最も高いビタミンCやビタミンEの補給を軸とする健康法を披露すべきだろう。ところがビタミン中心の近代的健康法は翻訳書でなければ見当たらない。われわれ日本人の土着の健康法は一本釘がぬけている。土着思想家はそれぞれに独特な成分ありと主張する。例えばローヤルゼリーの一日基準量は五〇〇ミリグラムだから類パロチンは五ミリグラムとなる。このタンパクホルモンが分解されずに腸管で吸収される量は〇・〇五ミリグラム程度だろう。こんな微量で効果のあろうはずがない。経口的にパロチンをとる場合、その一日量は六〇ミリグラムとされている。ホルモンの研究でノーベル賞をうけたブーテナントが、ローヤルゼリーの秘密として探りあてたプテリンは、チョウやガの鱗粉の色素であって葉酸の前駆物質である。葉酸が造血に不可欠なビタミンであってみれば評価する理由はないではないが、プテリンから葉酸をつくる代謝に必要な酵素を、昆虫から縁の遠い人間が用意しているとは考えにくい。

必ずある〝落とし穴〟

 酵素といえば、酵素そのものが栄養補助食品として売られている。生体のすべての代謝が酵素の媒介によることを思えば、これを商品化する根拠なしとはいわない。しかし、われわれの必要とする酵素は遺伝情報DNAのつくるところのものであってそれ以外のものではない。われわれ自身のDNAによらない酵素で役に立つのは消化酵素ぐらいのものだ。

 もっとも、どんな酵素も全く無用とはいえない。というのは酵素はタンパク質だからだ。タンパク質を食うことに文句のつけようはない。問題は、このタンパク質がさほど良質のものとは思えない点と、価格の高い点とにある。

 ニンニクとなると、他の食品には存在しない物質アリシンがセールスポイントになる。したがって、もしこれが必要不可欠な栄養物質ならば、ニンニクを食わない人間は不健康と極印がおされなくてはならない。そこでアリシンとビタミンB1の複合体アリチアミンがアリナミンという名で登場する素地があったといえば、話の筋は通りすぎるだろう。もっとも、ビタミンB1が不可欠物質であることは早くから知られていた。したがって、ある種の細菌やシダ類にふくまれるアノイリナーゼによって分解されるただのビタミンB1(チアミン)に対して、これにやられないアリチアミンがすぐれているという論理はありうる。ニンニク論者のポイントの一つはこれだ。

 アリシンは強烈な酸化作用をあらわす。これが菌体に侵入すると、その酵素タンパクを酸化して失活させる。この反応による強い殺菌作用も、ニンニク論者のポイントの一つだ。

 ニンニクのふくむグルタチオンは、公害物質や放射能に対して多少の保護作用をあらわすだろう。

 ニンニク論者の欠点は、そのデメリットにふれたがらない点にある。漢方の古典『傷寒論』がニンニクを扱わず、植物学の古典『本草綱目』は、ニンニクの多食は肝臓や目に害ありと記している事実を直視すべきだろう。ニンニクを多食すれば貧血に見舞われるが、これはアリシンの溶血作用によるものだ。ニンニクについて語るとき、〝ニンニク貧血〟や酸化による酵素作用阻害を無視するのは片手落ちだろう。高橋晄正氏は、催奇性ならびに腸管における重金属吸収促進作用のあることを示唆している。

 朝鮮ニンジンにも独特な成分がある。それはパナキサジオール、パナキサトリオールの二種のサポニン配糖体だ。このいわゆる生体防衛反応増強剤がほしいなら、朝鮮ニンジンでなければ、エゾウコギの根茎かシラカバの葉を食わなければならなくなる。

 末梢血行の改善、血圧の調整、血糖の調整、胃腸の強化など、朝鮮ニンジンの効能は多彩である。先般、朝鮮ニンジンに農薬ありと新聞がたたいた。その後わが国の栽培業者は有機塩素剤の使用をやめたそうだが、六年ものが出荷の中心だとすれば、手放しで安心できるとはいいにくい。汚染の少ないものといえば、間引いたニンジンということになり、それがまた広く出回っているが、こんどは有効成分にとぼしい点が問題となる。

 シイタケ健康法となると、これが日常的な食品だけに、万人に親しみがわく。この本を買ったある人は、自分では読まずに料亭の内儀に渡し、これでやってくれと頼んだという。健康法もここまで落ちたのだ。

 シイタケ主義者の最大のセールスポイントは、その胞子に寄生するウイルスである。これが人間の細胞に侵入してインターフェロンの産生を促すという。シイタケを食えばウイルスにもガンにも強くなるという論法がそこからでてくる。インターフェロン合成のために必要なビタミンCがここで忘れられているが、この種のミスは〝○○健康法〟の特徴なのだから、とがめる気はおきない。最近、食品の放射能汚染が問題になりはじめたが、放射性元素を吸収しやすいと森喜作氏が主張するシイタケの特性は新たな問題を提供するだろう。

 いまは乱世だと誰しもいう。健康法の氾濫もまさに乱世の様相を呈してきた。それにしてもこの公害時代に、公害と真正面から取り組んだ書物が私の二著をおいて他にないとは、いったいどうしたことなのだろうか。

東京タイムズ 一九七五年一月三十日

9 恍惚の人を警戒せよ

 『恍惚の人』という文学作品がベストセラーになったことは記憶に新しい。これを読んだ老人はいずれも苦虫をかみつぶしたようだ。ぼけた人間が周囲の迷惑になるという大原理を、この小説はえぐりだしたのであろう。私はこの種の文学に興味がないので読んでいないから、大きな顔はできないが、ここでの〝恍惚〟は、脳軟化か何かによって機能障害をおこした頭をさしたものと、私は勝手に想像している。一方われわれは、脳卒中などとは無関係にも、脳の退行現象のあることを知っている。広い意味で、そのことをも〝恍惚〟にふくめるのが現実的であろう。

 恍惚、すなわち脳機能の退行は、生理過程のなかでいわば不可避的におこってくる。そしてこれは、脳細胞の脱落、脳細胞の乾燥、脳内血管網の退行と、大きく見て三つの面をもつと考えてよかろう。

 これらの退行現象は三〇歳前後からはじまるといわれる。脳細胞は全面的に水分を失って干からびる一方、毎日じつに一五万個ずつが死んでゆく。機能を喪失して脱落するのだ。干からびた細胞は代謝がスムーズに進行せず、いわゆる頭の回転のにぶい状態に陥るはずである。

 脳内血管網の退行とは、脳にはりめぐらされた血管の網の目があらくなり、血のめぐりの悪くなった状態をさす。六五歳をすぎてなお若いときの血管網を維持する人は七%にすぎないといわれる。その年齢になれば九三%という大多数が顕著な恍惚の境地にふみこんでいるということだ。

 こういうわけで脳細胞は不断に脱落する一方、生き残りのものは干からび、しかもなお血液からの酸素や栄養の補給が不十分となれば、そこに特有な現象のおきないはずはない。それを象徴するのが、高年齢者の頑固さや保守反動性であろう。

 高年齢者の保守主義は世論調査のたびに表面化するが、これは日本だけのものではない。フランス大統領選挙においても、若いジスカールデスタン氏が老人の支持をうけ、若くないミッテラン氏が若者の支持をうけたではないか。わが国で、保守政権が失政のなかで勢力を失わないのは、平均寿命の延長と無関係ではあるまい。人間社会の現象を論じるにあたって、恍惚という冷厳な事実を見逃すことは、脳生理学の知見無視のそしりを免かれないのみならず、見当をまちがう危険をはらんでいる。

 私はこの小論を漫然とぶつのではない。例の刑法改正案について警告したいのだ。この作業に従事したスタッフのなかにはかなりの高齢者がいる。若手がはみだしたいきさつもあるようだ。ただこれだけの事実からしても、この改正案の性格の判定ができる、というのが私の論理である。

 八〇歳になれば体細胞の三分の一を失い、脳細胞の三分の二を失うという計算が平均的標準的なものにすぎず、年をとってもぼけない頭脳のあることを否定することはできない。しかし恍惚の回避は、生理学、生化学などの広範な知識と周到な計画とがあって初めてある程度まで可能になることであって、その実現はむしろ異例であろう。医者の指示をうけているから大丈夫などという甘っちょろいものではない。三〇歳をすぎて頑固になったら赤信号だ。高齢者がしゃしゃりでる場合つねに控え目が美徳だ。

東京タイムズ 一九七四年六月二日

10 成人病とビタミンE

三大成人病の脅威

 脳卒中、ガン、心不全の三つは、中・高年者にとって恐怖の病気である。医者でもない私のような者が、もし、この三大成人病に対して、多少の予防手段があるなどと口を滑らしたら、黙殺でなければ反撃を食うだろう。ところが私は、それをもっているといいたいのだ。むろん、それが絶対確実だ、などというつもりはないが。

 ここで私は、その予防手段の具体的内容を問われることになるだろう。一言でいえば、それはビタミンである。そのビタミンは何かと問われるならすべてのビタミンである、と答えたくなる。それなら何を食えばよいかと問われるなら、何を食ってもだめ、と答えたくなる。一般の食品のふくむビタミンはあまりにも微量で、話にならないのだ。

 三大成人病の脅威に対して、どれか一つのビタミンを選べといわれるなら、私はためらうことなく、ビタミンEをあげる。脳卒中、ガン、心不全の三者に共通点が見い出せないではなく、ビタミンEがその共通点に対してものをいう、ということだ。その共通点は、「突然変異」である。

 脳卒中は、脳出血と脳梗塞とに大別されるが、両者は心不全と共に血管壁の異常からくるものであって、原因は突然変異だと考えられるようになった。ガンが突然変異によることはすでに常識であろう。

 もしここに、突然変異を未然に防ぐ手段があったとすれば、三大成人病の脅威は遠のくことになる。その手段として有力なものがビタミンEなのである。

遊離基発生を阻止

 ビタミンEは、突然変異の原因の一つ「遊離基」なる物質を捕捉する作用があるのだ。現在のところ、老化学説のなかで最も有力視されているのは、米ネブラスカ大学のハーマン教授の「遊離基老化説」であろう。この説に従えば、ビタミンEには老化防止作用がある、ということになる。この学説では老化が突然変異からくるという考え方を前提においているのだ。

 遊離基という名の化学物質についての解説を抜きにして話を進めるのは気のひけることであるが、ビタミンEには、不飽和脂肪酸から遊離基が発生するのを妨げる作用がある。したがって、ビタミンEには、遊離基が大量に発生するのを阻止する働きと、でてきた遊離基をとりおさえる働きとの、両面があることになる。いよいよもって、ビタミンEの、評価は高からざるをえないわけだ。

 不飽和脂肪酸からの遊離基発生は、それの自動酸化による。ビタミンEには、不飽和脂肪酸の自動酸化を抑制する作用があるのだ。これを抗酸化作用という。抗酸化作用は、酸化の抑制によって、酸素の節約を結果する。酸素の大量消費を伴う多くのスポーツにおいて、ビタミンEが記録の向上をもたらすのは、それの酸素節約効果による。

品質や表示に問題

 ビタミンEの作用は、抗酸化作用のみではない。これによって頭がさえ、糖尿病が改善され、子宝に恵まれる、というような多面的な効果に注目すれば、ビタミンEが各種のホルモンの産生に役割りをもっていることがわかる。ビタミンEの静かなるブームがおこりつつあるのは、理由のないことではない。

 もっとも、このような多面的な効果をうたいあげるいわゆる栄養補助食品は枚挙にいとまがない。ローヤルゼリーあり、朝鮮ニンジンあり、クロレラあり、スクワレンありといったありさまである。ビタミンEが、そのような栄養補助食品群のなかに埋没する恐れは十分にあろう。それは、ビタミンEの名を掲げて売られている商品にも責任のないことではない。ズバリ言ってしまえば、品質や表示に問題がある、ということだ。

 まず、第一に、天然品と合成品と、ビタミンEは大きくわけることができる。両者は、分子の立体構造において同一ではない。この相違は、効果に大きく影響してくる。

 天然ビタミンと称するものにも、合成品をまぜた製品もあり、酢酸を結合させて安定化させた製品もある。天然品といわれているものにも、いろいろあって、必ずしも同一の物質ではないことを知っておくべきだろう。まちがいなくいえることは、天然ビタミンEは値段が高いこと、化学的に不安定なこと、の二点である。それでもなお、高価で不安定な天然品も見られないではない。

 もう一つビタミンEについての問題点は、ある研究者の分析データをもとにしての話であるが、表示通りの力価(単位またはミリグラム数)をもつ商品がほとんど絶無ということである。ひどいのは一〇〇分の一しか含有量がないという。合成品についても、同様なことがいえるそうだ。善意にこれを解釈すれば、ビタミンE欠乏状態の人がにわかに十分な量をとると、動脈硬化のある場合には若干の危険がないではないので、安全のために力価を低くしておく、という考え方が許されてよいだろう、ということになる。

日本工業新聞 一九七九年十一月二十九日

11新しい健康法への道

 大平首相の死は各方面に衝撃をあたえた。その一つに、現代医療技術があったことは否定できないだろう。虎の門病院といえば、東大名誉教授沖中重雄氏を擁して故人が設立させた一流の病院である。そこの医師陣にとりまかれ、現代医療技術の粋をつくしての看護の結果が、意外にもあっけない〝死〟であった。噂によれば故人は、かねてからこの病院で診療をうけており、ポケットにニトログリセリンをしのばせていたという。

 彼の病気は心筋梗塞であった。冠動脈に狭窄があったのだ。そこで、これを拡張させる働きのあるニトログリセリンが、心臓発作時の緊急措置として賞用されているのである。この歴史はまことに古く、ニトログリセリンでダイナマイトをつくったノーベルも、これのご厄介になっている。

 ところで、東大医学部講師高橋晄正氏の著書に『新しい医学への道』(紀伊国屋書店)というのがある。彼によれば、新しい医学への道はコンピューターによる診断と対応とを特徴とする。大平氏の場合にこれを適用したら、病名は心筋梗塞、処置は冠動脈バイパス設置工事、ということになったことだろう。これは手続きとしては新味があっても、根本的には旧来の医学と別物ではない。

 大平首相の死を契機として、小麦胚芽油の売行きが伸びたという。庶民の常識のなかに、循環器障害に対するビタミンEの効果が定着したようだが、それは私の功績だといってくれた大学教授がいる。

 それはともかくとして、私のようなアウトサイダーからみれば、現行医療技術は曲り角にさしかかっている。大平首相の死は、その象徴的なできごとではなかったか。曲り角にきたとなれば、新しい医学への道を探し求めることは、避けられない課題であろう。

 診断にコンピューターを導入することは、旧来の医学知識をもれなく結集しようという発想である。これは、旧来の医学が正しい道を歩んできたという事実によってのみ保障されるべきものだ。もしそれが正しい道でなかったとしたら、コンピューター化はナンセンスとならざるをえまい。

 一九七〇年代にはいって、医学教育の基礎教科として分子生物学が採用されることになった。この事実は、医学の基礎が分子生物学の上におかれるべきことが、当事者のあいだの総意であったことを意味していないはずはなかろう。とするならば、新しい医学への道を示すものが分子生物学にほかならないことは、明白ではなかったか。コンピューターではなくて、である。

 そこにもむろん問題はある。その第一は、分子生物学が難解であることだ。その第二は、医学生に分子生物学を教える教授諸君が医学を知らないことだ。もともとこの新しい科学は、医学者や生物学者の建設したものではなく、物理学者ジェームズ=クリックが提唱したところのものである。これの専門学者が医学を知らないのはむりもないことだ。分子生物学が医学の基礎になるといっても、両者をかみあわせることは容易でない。しかし、新しい医学への道を開く鍵が分子生物学にあるという認識は、いかなる事情によってもゆるがないはずである。

 新しい医学への道は、裏を返せば、新しい健康法への道につうじるだろう。物理学者であって医学者でない私は、分子生物学によって、新しい健康法への道をさぐろうとする。その努力のなかで私が到達したところは、タンク質とビタミンを十分にとること、という一語につきる。これはいわば高タンパク食、高ビタミン食ということになる。

 ノーベル賞を二回もうけた現代科学者の最高峰ライナス=ポーリングは、「メガビタミン主義」、すなわちビタミン大量主義を唱えた。ポーリングのメガビタミン主義はビタミンCを中心とするものだが、これの信奉者は全米に数百万人を数えるそうだ。

 私の主張も、結局はメガビタミン主義の枠におさまる。ただ私のメガビタミン主義は、すべてのビタミンを包括し、さらにタンパク質をも包括する。その意味で、ポーリングのそれと完全に一致するとはいいにくい。

 カナダの二人の精神病学者が、精神分裂症患者に対して、一日量一七グラムのニコチン酸を与えていた。これは一般に知られているニコチン酸投与の推奨値の一、〇〇〇倍という大量である。一九六五年のある日、ポーリングはこのことを知ってびっくり仰天した。アスピリンでも食塩でも、基準量の一、〇〇〇倍を投与したら、命があぶないだろう。ところがニコチン酸ならば生命に別状はないのだ。ビタミンCについても、推奨値の数百倍の量を投与している医師がいる。ポーリングは、ビタミンにかぎっては、大量投与が安全であるばかりか、メリットのあることを知った。ニコチン酸はビタミンB群の一つである。

 ポーリングはこのようにして、メガビタミン主義の意義をさとった。彼もみずからいうように、経験から出発して、ここに到達したのである。

 これに対して私のメガビタミン主義は、分子生物学の応用からきている。生物の体内では、代謝という名の化学反応がおきている。この化学反応は、三七度程度の低温でおこらなければならないために、酵素の媒介を必要とする。ところが、多くの酵素は助酵素とよばれる部分をもっている。ビタミンは、この助酵素の役目を負う物質なのだ。

 酵素ということばは、一般によく知られている。この酵素の概念は、分子生物学の登場によって大きく変化した。酵素というものは、生体がそれぞれの遺伝子によって自前でつくるものであり、その作業を開始したり中止したり、また量を加減したりが、みごとにコントロールされているものであることがわかったのだ。

 多くの酵素は、主酵素と助酵素という二つの部分からできている。遺伝子の指令によってつくられる部分はタンパク質であって、これが主酵素とよばれる。

 ここで注意すべき点は、主酵素がタンパク質であるという事実だ。そこから当然でてくる結論は、タンパク質の補給に手ぬかりがあれば、主酵素がつくれず、したがって、代謝がスムーズにゆかない、ということである。代謝がスムーズにゆくことは、健康にとって必須条件である。高タンパク食の第一の意義はここにある。低タンパク食は不健康のもとであり、病気のもとである。わずか一ポンドの高タンパク食品をあたえただけで、五歳の男の子の心臓中隔欠損症が治った例さえある。

 助酵素を要求する酵素では、主酵素と助酵素とが結合しなければならない。十人十色ということばがあるが、これは主酵素についてあてはまる。主酵素はタンパク質であるが、その構造は十人十色である。ということは、主酵素と助酵素との結合の難易に個体差がある、ということだ。この現象は、主酵素と助酵素との親和力の大小について個体差がある、ということである。これは結局、ある主酵素が大量のビタミンを要求する人があるのに対し、少量のビタミンでたりる人がいるということになる。ビタミンの必要量に個体差があるのだ。この差は意外に大きい。

 近来にわかに脚光を浴びているインターフェロンは、もともとウイルス病に対する生体の防衛手段である。多くの風邪はウイルス感染症であるから、インターフェロンで防げる。ところが、この物質はタンパク質であって、それを合成する代謝の酵素はビタミンCを要求する。ところで、ビタミンCの一日量〇・二五グラムで風邪をひかない人がいる一方、一〇グラムもとらないと風邪をひく人がいる。前者は、主酵素と助酵素との親和力の大きい人の場合であり、後者はそれの小さい人の場合である。インターフェロンがタンパク質であってみれば、タンパク質に不足があっては、ビタミンCがいくらあってもお手あげだ。いずれにせよ、主酵素と助酵素との親和力の個体差とは、こういうものである。

 ところでわれわれお互いは、インターフェロンをつくるのに、人並み以上のビタミンCを必要とするのか、それとも人並み以下の量でたりるのかを知る由もない。それならば、とにもかくにも大量をとってみよう、とするのがメガビタミン主義の考え方である。

 これは一つの例にすぎず、あらゆるビタミンについて、私はこの例のように考える。そこで、すべてのビタミンを大量にとる。という立場がでてくる。

 以上が私のメガビタミン主義の根拠である。私のメガビタミン主義は、このようにして分子生物学から導びかれたものだ。

 メガビタミン主義が、従来の常識によって否定されることも、私は知っている。私にいわせれば、ビタミンは日常の食事から、という常識はない。この常識に従うかぎり、健康レベルの低下は絶対に免かれないのである。

 健康管理が個々人の自由であることはいうまでもない。私はここに、食生活の内容に分子生物学の光をあてたまでのことである。

苫小牧民報 一九七九年八月二十日

12 メガビタミン健康法

メガビタミン主義について

 メガビタミン主義(Megavitaminism)ということばは、日本語にすれば〝大量ビタミン主義〟ということになるだろう。それは、ライナス=ポーリング(Linus Pauling)の造語である。彼は偶然にも、私と同年一九〇一年の生まれであるから、すでに八〇歳になるが、どこから見てもかくしゃくとしている。彼に接した人は、メガビタミン主義が何をもたらすかをじかに知ることができるはず、と私は考える。

 自分自身をここに引きあいにだすのは、いささか気のひけることではあるが、私もかくしゃくとしている、とよく人にいわれてきた。冬になればスキーにでかけ、夏になれば海に泳ぎに行く、という生活内容に接する人が、私にむかって〝お元気ですね〟などというのは、当然のことかもしれない。

 じつをいうと、私は無病のからだの持ち主ではない。鉛中毒による重症糖尿病患者である。毎朝二八単位のインシュリン注射をして、ようやくごまかしているのが実情である。私の住んでいる地域は鉛に汚染されていて、多数の中毒患者をだしている。これについての詳細は、『鉛が人を呑みこむとき』(本書シリーズ一八巻)に記した。ただし、この本を書いた当時、一九七六年には、私の糖尿病はまだ発病していない。地域住民にも、私と同様の経過を見た例がある。

 私が、糖尿病に悩まされながらも、高齢者の平均よりいくぶん高いレベルの健康を保っているのは、まぎれもなくメガビタミン主義のおかげ、といってよい。

健康の自主管理

 ここまでのところでおわかりであろうが、私は自主的に健康を管理している。どのビタミンをどれだけとるかについて、他人の指示を仰いだことはない。自分で考え、自分でドーズをきめているわけだ。それどころか、他人に対する指導も行っている。

 このようなことは、日本では例外的であろう。しかし、健康管理においての先輩国であるアメリカでは、健康は各自が管理すべきもの、という考え方が一般化しつつあるという。

 私のような立場からすれば、健康の自主管理の基礎は栄養におかれる。そこでどうしても、ビタミンに注目せざるをえない。すると、ビタミンを薬剤のカテゴリーにいれている日本の現状は不便ということになる。これはそのまま、アメリカでの歴史を語るものだ。

 アメリカでは、ビタミンが一つずつ薬事法からはずされた。いちばんあとまわしになったのはビタミンAであって、これが最高裁で食品のカテゴリーのものとされたのは、一九七八年のことである。この時点から、すべてのビタミンは薬ではなくなった。これは、アメリカの話である。

 薬事法の規制がなくなったビタミンに、品質内容上の問題があるのは、当然のことであろう。しかし、ここではそれにふれる必要はないだろう。ビタミンが薬でなくなった、という事実の重みはあまりにも大きいからである。
健康の自主管理のために必要な事項は、ビタミンの解放ばかりではない。アメリカでは、血糖測定装置や脈拍計が市販されている。血糖値の測定にわざわざ医師を訪ねる糖尿病患者など、いないのである。

 食餌性のアレルギー患者は、手首に脈拍計をつけて食事をする。不利な食物が口にはいると、にわかに脈拍が多くなるので、生卵が悪いのか、サバが悪いのか、自分でみつけることができる。

 このような、健康の自主管理の風土から、ビタミンの解放があり、メガビタミン主義の市民権獲得があり、ということなのだ。

 健康の自主管理という思想は一般市民の意識にかかわっている。そのことからただちに、ビタミンの解放というような事態をもたらす力が、行政側ではなしに一般市民の側にあったことが想像される。そして、事実はまさにその通りであった。ビタミンを食品のわくのなかに取り戻した力は、市民運動にあったのだ。

日本の実情

 わが国では、ビタミンは薬である。ビタミンのラベルや箱を見ると、やたらに飲むな、という意味の記載があるのがふつうである。したがって、ビタミンを思う存分とれ、というようなアドバイスをあからさまにおこなうのには勇気がいる。

 消化器ガンの手術で名を知られたN氏は、アメリカの医師が、各種のビタミンを大量にとるのを見て、そのまねをやりだした。これを見た人が彼に、それはガンの予防に役立つか、とたずねた。すると彼は、そんなことはわからない、と答えたという。

 高名な医事評論家M氏も、メガビタミンを実行している。これを見た人に対し、彼は、このことを大きな声でいってくれるな、と抑えたという。

 また、ビタミン学者として有名なⅠ氏は、取材にきた雑誌記者にむかって、自分は一日七グラムのビタミンCをとっているが、記事にするときには、ビタミンは食品からとればよいと書くように、と注文をつけたという。

 日本には、健康の自主管理という思想がないとすれば、各自の裁量でビタミンを大量にとる、というような行為は、片隅のもので、大きな声で人に話すべきものではないことなのだろう。

 だが、その考え方の背景には、一般市民を無知とみる思想がかくれている。私にはそれが許せない。いつの日か、日本がアメリカなみになったとき、前に記した人たちは、我こそは先覚者といった顔をするだろう、とある友人はいった。

メガビタミン主義の歴史

 一九六五年頃のことである。ポーリングは、カナダの精神科医が、精神分裂病の患者に大量のニコチン酸を投与しているのを見た。それは一日量一七グラムで、FDA勧奨値の一、〇〇〇倍に近い。そこでポーリングは考えた。アスピリンのような安全とされる薬であっても、いや、食塩のような食品であっても、基準量の一、〇〇〇倍を服用したら事故がおこるにきまっている。ところがビタミンとなると、そのような大量をとっても、いちじるしい害はない。

 ポーリングのメガビタミン主義の原点がここにあったことは、雑誌『現代化学』(一九八〇年九月号)に、同夫妻の談話の形で紹介されている。

 ビタミンCの大量投与の研究は、その頃すでに欧米では、各国の臨床医家の手によって試みられて、それ相応の効果をあげていた。そのことは、ポーリングの『さらば風邪薬』(講談社)、ストーンの『ビタミンC健康法』(徳間書店)に、具体例の形で記されている。私の『ビタミンC健康法』(本書シリーズ七巻 現在は阿部出版から再販)でも紹介しておいた。

 これは私の推察であるが、ポーリングは、ビタミンCの大量投与について若干の知識をもっていて、そこにまたニコチン酸大量投与のことを知って、メガビタミンの価値を認めるにいたったものであろう。

 こんどは私の番になるが、目の調子がおかしくなって、一九六一年、東大病院眼科に甥を訪ねた。このとき、白内障との診断をうけた。教授は私の目をみて、二、三年後には手術することになるから、また来るように、といった。

 私は、手をこまねいて視力がおちるのを待つような人間ではない。さっそく文献をあさって、白内障の大きな原因の一つに、ビタミンCの欠乏があることを知った。じつは、私の亡くなった父は緑内障をわずらって、盲目の晩年を送った人である。私は、自分の家系が、目に弱点をもつ、と考えた。

 当時私は、近所に住むK医博と入魂じっこんにしていた。そこで彼と、〝目のしょう〟について討論することとなった。彼は〝血管網〟の個体差を、目の性の個体差に結びつけた。私は、栄養条件の個体差を目の性の個体差に結びつけた。それは、具体的にいえば、ビタミンC所要量の個体差をさしていた。それはつまり、私の家系は、ビタミンCをとくに大量にとらないかぎり、少なくとも目に障害のおこる可能性があるのではないか、という仮定である。眼球は、とくにビタミンCの濃度の高い器官であるから、この仮定には、多かれ少なかれ、真実味があったはずだ。

 私は自分の意見にK医博の見解を加味した。栄養をいかに補給しても、循環が悪くては、それが目にゆくことを期待するのはむりだろう、ということだ。

 そこで私は、〝目玉の体操〟というのを工夫した。目的は、アイソメトリックス(等尺収縮)による、眼筋内血管の発達にあった。

 目玉の体操はなかなか評判がよく、娘の友人の場合、近視が改善され、めがねを二度もとりかえた。某スポーツ新聞に取材されたことから、テレビで、江利チエミに実演してもらったりもした。

 要するに私のメガビタミン主義の出発点はこのあたりにある。一九六二年のことだ。

 いずれにせよ、私の白内障は、ビタミンCの大量投与と目玉の体操とによって改善の方向にむかった。しかし、それから一二年後に糖尿病が発症すると、それは悪化の方向に転じ、一九八〇年、ついに手術をうけることとなった。私の水晶体は、このときからプラスティックのレンズとなった。

私のメガビタミン主義

 私のビタミンC大量投与の根拠は、目の性の悪さを、体質と結びつけた点にある。要するに、私のメガビタミン主義は、初めから体質との関連から出発したものだ。私の目は大量のビタミンCを要求しているのに、摂取したビタミンCはどこへゆくかわからないので、ビタミンCをよほど大量にとらないかぎり、目はその欠乏におちいる、と私は考える。

 このような次第で、私のメガビタミン主義の起源は一九六二年頃ということになり、ポーリングより三年ほど早いことになる。ポーリングの場合は、ニコチン酸大量投与の現場の経験に発しているのに対し、私の場合は、体質論という理論から発している。私は経験主義者ではないのである。

 私の体質論の完成は一〇年おくれて、一九七二年になる。この年に出版された『人間への挑戦』に、それは発表された。

 体質は遺伝的なものである。仮に親ゆずりでなくても、それは遺伝子レベル、DNAレベルの特性にかかわってくる。

 そこで私は、〝体質のちがいの実体は、主酵素と助酵素との親和力の差である〟という、いわゆる三石理論を提唱したのであった。この詳細は、『日常生活の栄養学』(本書シリーズ五巻)に述べてある。私の目の性が悪いのは、水晶体の代謝に関係した主酵素の、助酵素ビタミンCとの親和力が極端に小さいため、として説明されることになる。これは、私の体質上の弱点として理解されてよいだろう。

 この弱点をカバーするために、私は大量のビタミンCをとらなければならないことになる。そしてまた、ずっとビタミンCの大量投与をつづけていたら、白内障にならずにすんだ、ということにもなる。これはただちに、健康の自主管理という問題をとく鍵の一つとなるだろう。

なぜメガビタミンか

 一九六七年、家内が乳ガンとの診断をうけ、手術となった。この手術では、腋下リンパ節を切除するため、その側の腕に腫脹がおこりやすく、その確率は八〇%といわれる。この腫脹は、リンパの灌流の不全からくる乳酸の蓄積であろうから、ビタミンB1の投与によって阻止される、と私は考えた。ただしこの結論をえるについては、前記K医博の助言があった。

 問題の代謝に、人並み以上に大量のビタミンB1が要求されているかどうか、は誰にも見当がつきかねる。それならば、とにかく大量投与にしくはないだろう。そこで私は、毎日一〇〇ミリグラムのビタミンB1の注射を開始した。

 私の思惑は成功し、一〇年余り腫脹を見ることがなかった。そのうちに、行政指導か何かで、一〇〇ミリグラムのアンプルが製造中止となり、私はついにこの実験的措置を断念した。そして現在、家内の右腕はパンパンにはれている。これはもう、注射をしてももどらなくなってしまった。

 私はまた、スキーによる筋肉痛が、ビタミンB1一〇〇ミリグラムの注射で、数分間のうちに消退することを知っている。むろん、出発前に注射すれば、筋肉痛はおきない。このときも、ビタミンB1所要量の個体差などは棚にあげて、とにもかくにも大量をやってみる。そうすれば、個体差の問題は消去されてしまう、という論理だ。

 私のメガビタミン主義は、私の体質論を土台としたものだ。しかし、私が体質といっているものは、容易にとらえられない。そこで、個体差を無視して、いや、そのビタミンの所要量を人並以上と仮定して、とにかく大量投与をしてみよう、というのが私の方法である。

 むろん、そのことの背景には、ビタミンには原則として副作用がない、という見方がある。

分子矯正医学と私との関係

 ポーリングは、メガビタミン主義を提唱し、また、それによる病気の治療法に対して、分子矯正医学(Orthomolecular therapy)という名を与えた。代謝が分子レベルの現象であり、ビタミンも分子レベルで活性をあらわすとするなら、ビタミンによる治療は、分子矯正医学の名にふさわしいであろう。私の見るところ、それは生化学の領域におさまる性質をもっている。
これに対しての、私の三石理論はDNAレベルのものであって、生化学にもとづくのではなく、分子生物学にもとづいている。それは、体質の個体差に着目し、体質上の弱点をカバーするために、メガビタミン主義をとる、という発想の必然といってよい。結局、すべての人には、必ずどこかに体質上の弱点があるので、それをカバーするためには大量のビタミンが必要になる、というのが私のメガビタミン主義の理論である。

 ポーリングは、ワトソン・クリックのDNAモデルにさきがけて、〝三重らせん説〟を唱えたことでもあって、分子生物学にくわしいが、分子矯正医学が、ぴたりと分子生物学の上に築かれた、とは私に見えない。私は、分子生物学にもとづく〝分子栄養学〟を提唱し、その分子栄養学を支える柱として三石理論を構築し、その当然の帰結としてメガビタミン主義を位置づける。

メガビタミン主義

 私の理論によれば、健康レベルをあげるため、あるいは病気を改善するために必要な栄養素は、ビタミンばかりではない。何よりもまずタンパク質の補給が必要である。したがって私のメガビタミン主義は、高タンパク食を土台とする。タンパク質は主酵素の原料として必須のものなのだ。分子栄養学は、DNAのRNAへの転写から、RNAを解読して酵素タンパクの必要量が合成されるまでのいわゆるコーディングを、要求されたレベルで実現するための条件を扱う。その意味で、三石理論を〝パーフェクトコーディング理論〟(Perfect coding theory)とよぶことにしている。

 三石理論は、もう一つ〝カスケード理論〟(Cascade theory)をもっている。一般にビタミンの役割りは一つではない。いくつかの役割りをもつ。その優先順位をきめる理論がこれである。カスケード理論の誕生は一九六三年頃のことだ。『メガビタミン健康法』(本書シリーズ一〇巻)に、これの詳細がある。

 結局、私のメガビタミン主義は、高ビタミン高タンパク食の性格をもっている。それにさらに適量の必須ミネラルを加える。このような食生活を実行するためには、すべてのビタミンを意識的に大量にとり、さらにプロテインスコーアが一〇〇に近いタンパク食品を、おかずのほかにとらなければならない。カルシウム、セレン、クロムなどのミネラルについても、意識的な摂取が望ましい。

製薬工場 一九八二年六月二十五日




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