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【説教17】2024.4.28「私は口を開いてたとえを語る」

  これは2024.4.28、おもに子どもとその保護者が参加する礼拝で、ね羊さんがお話した全文です。
  本文では、『聖書協会 共同訳』を引用しています。


【 聖書箇所 】

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。  あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。  また、灯をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである。  そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」

マタイによる福音書 5章13-16節

【 説教要約 】


【 説教全文 】 約20分30秒

  「あなたがたは地の塩である」、「あなたは世の光である」と、イエスさまは言われます。

  さて、“塩”とは、“光”とは、イエスさまは、いったい何をいっておられるのでしょうか。本日も、御言葉をたどりながら、御心を深めていきたいと思います。

  聖書とは、不思議な本ですよね。聖書は全66巻あります。それはいろんな時代に、いろんな人の手によって書かれた本であるのに、「それが1冊の本にまとめられて、そのすべては神の言葉なのだ」と言われています。

  聖書の言葉を用いるなら、「すべて神の霊感によって書かれた本」だと言われています。

  それは、いろんな時代に、いろんな人の手によって書かれた本ですけれども、そのすべてはイエスさまと共に書かれた本であり、そのすべては「イエスさまの言葉である」ということです。

  その言葉の一つ一つをひも解いていくものが、イエスさまのたとえ話なのです。イエスさまのたとえ話とは、その中に神の国の教えが隠されているお話のことを指しています。

  イエスは、このように多くのたとえで、人々の聞く力に応じて御言葉を語られた。 たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

マルコによる福音書 4章33-34節

  「その隠された秘密のすべてをイエスさまは、弟子たちにひそかに説明された」と、言われています。それでは、どうやって、私たちはこの弟子たちが受けた説明を、イエスさまから受けることができるでしょうか。

  それは、やはりこの聖書によってです。

  もし、あなたが、この聖書の言葉を、すべてイエスさまの言葉であると信じるならば、聖書の疑問は、聖書の中から答えを捜すことができるということです。

  本日の聖書箇所にある “ 塩 ” や “ 光 ” も、イエスさまのたとえ話なのです。

  なぜなら、「たとえを用いずに語ることはなかった」と言われているからです。物語のように語られるお話だけが、イエスさまのたとえ話ではないのです。

  イエスさまには、ある言葉を通して、別の伝えたいメッセージがあります。どうして、そのような回りくどい話し方をするのか。

  それは、聖書の中だけではなく、私たちの生活を通しても、イエスさまには伝えたい何かがあるからなのです。

  私たちの日々の生活の中で、すべての人の口を通して、すべての出来事を通して、イエスさまは語られます。

  この聖書を読んでいて、ある言葉を通して別のメッセージを読みとること、これは、あなたの日々の生活の中で、神が何と言っておられるかに目を向けるようになるための練習になります。

  さて、まずは ” 塩 ” と ” 光 ” について、イエスさまが何を伝えようとしておられるのかを見ていきます。

  まずは、” 塩 ” については、このように言われます。

  あなたの穀物の供え物はすべて塩で味付けしなさい。あなたの穀物の供え物には神の契約の塩を欠いてはならない。あなたの献げ物には、必ず塩を添えなさい。

レビ記 2章13節

  聖書の中で ” 塩 ” とは、契約という意味を含んでいるときがあります。塩が契約の何に使われていたのか、私にはわかりません。けれども例えば、あなたが大学生になると一人暮らしをするようになると思います。

  そのときに不動産屋さんから、「ハンコをもってきてください」と言われます。すると、「ハンコ=契約」、「ハンコ=重要な書類の受け渡し」と、日本人が一般的にもっているイメージをもつようになると思います。

  私たちがハンコにもつイメージと同じように、聖書の中では、おそらく塩と言われると、「契約なのですね」というイメージにつながるのではないでしょうか。

  次に、” 光 ” については、このように言われています。

  戒めは灯、教えは光

箴言 6章23節

  ” 光 ” とは、神の国の教えのことです。

  それでは、それはどのような契約、どのような教えなのでしょうか。

  私はあなたがたとだけ、この呪いを伴う契約を結ぶのではなく、 今日、ここで私たちの神、主の前に、私たちと共に立っている者、ならびに、今日、ここに私たちと共にいない者とも結ぶのである。

申命記 29章13-14節

  ここで呪いと言われていますが、これは私たちにとっては祝福のことです。

  どうして呪いが祝福になるのでしょうか。

  このことについては、『申命記』の“祝福と呪い”のお話をするときに、もう少し詳しくお話ししようかと思います。

  今日は、” 塩 ” と ” 光 ” のたとえについてお話します。

  「あなたがたは地の塩である」とは、「少なくとも、天地創造のはじめ『光あれ』の時には、御国の働きはすでに、この地上に及んでいますよ」ということを知らせる契約のことです。

  だから、「あなたは地の塩、世の光」とは、「あなたは人々が神を思い起こすための契約であって、世に示される御国の教えの現れである」という意味です。

  聖書は、「光あれ(御国の教えを、この世に示せ)」という言葉から始まるのです。

  その教えを示すためには、どうすればよいのか。

  これは私が中学2年生の頃のお話です。お守りと聞いて、わかりますか。神社やお寺なんかで家内安全、交通安全、学業祈願とかいうものをお金で売っているアクセサリーです。

  聖書の中では『コリントの信徒への手紙』で“偶像に献げられた肉”と呼ばれています。

  私が学生のときに、このお守りをもっていると、話しのネタにいじられたりしたのです。

  あるお友だちのグループが、教室で、その話をしていました。その横に、まじめで物静かな男の子の席があったのです。私は休み時間に、ぼーっとそのやり取りをなんとなく見ていました。

  「え!お前、お守りなんてもってるの。神とか信じてるのかよ」と言われて、言われた方も、「やめてよ、そんなんじゃないから」と答えていました。

  「でも、もってるってことは、俺たちより信仰心高いよ」
  「お父さんお母さんが心配するからもたせてくれただけだって」
  「またまた、そんな神を信じているなんて、子どもっぽいことを隠さなくていいから。なぁ、〇〇くんもそう思うだろ」

  そう言って、自分に同意してもらおうと思って、隣の席の男の子に話題を振ったのです。すると、その子は言いました。

  「え、あなたにはいないの」

  それを聞いて、その場にいた人たちが、「神はいるかもしれない」とつぶやいたのです。そして、「お守りは大事にした方がいいよ」と返してました。

  ちなみに、聖書にお守りはありません。

  こういったものに対する聖書の姿勢は、記念です。何の記念でしょうか。それは、神を思い起こすための記念です。私がお話しているエピソードも、「こういうことがあって御言葉とつながったな」と、思い起こすための記念のお話です。

  証しとも呼ばれます。

  お話に戻ります。その後に私は、その子のところに行って、「あなたは教会に通っていたりするの」と、尋ねました。

  すると、その子は「いいや、僕はお正月に神社に行ったときに、お母さんが『神さまにお願い事をしなさい』というから、『神さまっているんだな』と思っていただけだよ」と言われました。

  まったく信仰心が篤いわけではなかったのです。

  けれどもその子の「あなたにはいないの」という毅然とした態度や言葉は、ひと時のこととは言え、その場にいた人たちが「神はいるのかもしれない」と、信じるために十分なものだったのです。

  私たちは、ほかの人の心のうちにあるものを知ることは難しいですよね。けれども、何かを見て、「この人は信用できる」、「この人は信用できない」と、判断していませんか。

  どこで判断していると思いますか。

  それは、その人の行動と、その人から出てくる言葉を照らし合わせて、一致しているときに、「この人は信用できる」と判断しています。

  だから聖書の中では、イエスさまの前に、預言者エリヤが遣わされるのです。

  主が神なら主に従え

  『旧約聖書』は、「律法を守りなさい」、「行いを守りなさい」と教えますよね。それは、「律法を守ることによって、神を信じる者の行いを整えなさい」と教えているのです。

  その行いを整えていくと、どうなるのか。


  それは、本日の聖書箇所『マタイによる福音書』5章16節にある “ 光 ” を『教え』と読み替えて、意味が通るように読んでみるとわかりやすいと思います。

【 マタイによる福音書 5章16節 】

  そのように、あなたがたの光(教え)を人々の前に輝かせ(示し)なさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。


  「私は神を信じている。だから、毎週の礼拝に出席する」。その理由は、私の姿を見る人にとって神を思い起こすきっかけとなるためです。

  けれども、ただ出席するだけなら、礼拝に出席する負担にあなた自身がつぶされてしまいます。

  銀の精錬にはるつぼ、金には炉 / 人は賛美する口によって精錬される。

箴言 27章21節

  あなたには、将来の夢や、何かしらの目標であったり、打ち込んでいる趣味があったりしますか。

  例えば、歌がうまくなりたい、ダンスがうまくなりたい、絵がうまくなりたい、憧れている人の助けとなるような知識や技術を身に着けたい、人それぞれにありませんか。

  今はそれをもっていないから、求めるのではありませんか。そのために努力するのではありませんか。

  このことについては、信仰も同じです。

  私たちに神を賛美する心がなかったとしても、神を賛美する心が欲しいから、神を賛美する言葉を使うのです。

  その心を神に願うのです。

  「礼拝が喜びとなるように」と祈りながら、礼拝に出席する行動を守るのです。

  聖書では、「イエス・キリストは教会の頭であって、私たちはその体の一つ一つの部分です」とたとえられますね(Ⅰコリント12:27、エフェソ4:16)。あなたにとって、まだ理解でしかないものが、あなたの思いとなって心に降りてくるように祈りながら、行動を守るのです。

  礼拝に出席するということは、「御国が来ますように」という祈りなのです。

  イエスさまは、「あなたは、それをどれだけ欲しいと思っていますか」と、見ておられるのです(申命8:2)。

  だから、勉強でも同じですよ。勉強が嫌いな人は朗報です。自分の机に座って、祈ってください。まず「勉強がしたくありません」と思いを打ち明けてください。

  それから、「面倒くさいし、つまらないし、何の役に立つかもわからないし、〇〇先生嫌いだし、あの先生が喜ぶことなんてやってあげたくないし」と思っている理由をいっぱいあげます。

  そして、「でも、やらなければならないことはわかっているのです。だからイエスさま、さっき言った悪い心をもっていってください。そして、勉強を喜びとするよい心をください」と祈るのです(マタイ11:28-30)。

  すると、心が軽くなりますよ。

  それを毎回毎回、繰り返すのです。

  この5つのステップです。① 席に着く。② 「これをやりたくない」などと本心を明かす。③ やりたくない理由をあげる。④ 「この心はいらないから、イエスさま、陰府までもっていってください」と渡す。そして、⑤ 「代わりに楽しくできる心をください」と願う。

  試してみたら感想を聞かせてください。

  私は、つらい時に、いつもこの祈りで乗り切っています。

  お話に戻ります。礼拝に出席することは、モーセの十戒でも示されている「安息日を守りなさい」という神の命令です。

  命令と聞くと、あまりよい印象をもたない人が多いと思います。けれども、たとえば、こういうことです。学校の教室に、お友だちがあなたのことを呼びに来ます。

  「〇〇さん、職員室で先生が呼んでるよ」

  このときに、「あなたは、どのように感じるか」ということです。

  私のあるお友だちは、「この前、絵画のコンクールがあったから、それで受賞したのかな」と、要は、ほめられるのかなと感じました。

  また、あるときには、「理科の実験の準備の手伝いをしてほしいのかな」と、重要な仕事を任されるのかもと感じました。

  それを、ね羊さんが小学生から高校生、そして今も偉い人に呼ばれたときには、どのように感じるか。

  「ね羊くん、先生が職員室で呼んでいるよ」
  「え!俺、また何かやった!?」

  要は、叱られると感じるかということです。

  そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは、これを聞いて、「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

ヨハネによる福音書 12章29節

  これは、天から声が聞こえてきたときの人々の反応です。

  私のお友だちは、「ほめられるのかな」、「任せたい仕事があるのかな」と、喜びを受け取りました。

  それは、天使が声をかけたのでしょうね。

  それとも、「何を言われるのだろうか」と、言いようもない不安を抱えて職員室に足を運ぶのか。

  それは、雷が鳴ったのでしょうね。

  私たちは、同じものを見て、同じものを聞きながらも、それぞれ別々の思いを受け取っています。

  神の命令を受け取るときも、これと同じです。

  イエスさまが、「あなたに任せたいことがあるからこの教えを守ってほしいのだ」と命令される言葉を、「私のことを信用してくれているから、任せてくれるのだ」と嬉しいなと受け取るのか。

  それとも、「とんだ罰ゲームだよ、面倒くさッ」と、神から嫌がらせをされていると受け取るのか。

  けれども、今のあなたにとって「どのように聞こえたか」は、まったく問題ではありません。

  このことを知って、「あなたはどのように受け取るようになりたいか」が、重要なことです。

  聖書は、「これまでのあなた」、「今のあなた」に尋ねてはいないのです。

  「これからのあなたは、どうありたいか」を、いつも尋ねているのです。

  けれども、そうは言っても、「私は、『あなたは地の塩、世の光』と言われるような、そんなに神の掟を守っている者ではない」、「イエスさまの教えがどういうものかも、それほど知っているわけではない」と思うこともあるかもしれません。

  そのようなときには、次の聖句をとおして、イエスさまの言葉を聞いてください。

  だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

マルコによる福音書 11章24節

  「あなたは地の塩である、あなたは世の光である」

  これは、「あなたがそうあるように、あらかじめ神に願っておきましたよ」というイエスさまの祈りなのです。

  イエスさまは、「あなたが私を選んだのではなく、私があなたを選んだ」と言われます(ヨハネ15:16)。そして、「私とつながりなさい」と言われます(ヨハネ15:3-5)。

  今、礼拝に出席しているあなたは幸いです。ライブ配信で、何とか礼拝の時間を守ろうとしているあなたも幸いです。あなたはイエスさまとつながっています。

  あなたと共に神はおられます。

  あなたは今、聖霊に導かれてここにいます。これを積み重ねていってくださいね。

  すると、聖書の文字の見え方が変わります。生活での教えの受け取り方が変わります。聖霊に導かれる感覚がわかるようになります。

  あなたは神の神殿なのです。その神殿にある心の祭壇には、あなたが記念として献げた言葉が記されています。あなたの周りは、神を知りたいと願う者たちが教えを受ける境内となります。

  その時に、「私は地の塩、世の光であった」ということがわかるようになります。

  だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

マルコによる福音書 11章24節

  お祈りをしましょう。


【 お祈り 】

  天の愛するお父さん、私たちがあなたの教えを忘れてしまえば、私たちはいったい誰の子とされてしまうでしょうか。

  あなたは、私が見るもの、聞くものすべてにおいて、あなたのことを思い起こすことができるように、たとえを用いて語られます。私は、それを記念として、私の心に収めます。こうしてあなたの祈りによって、あなたの見ておられる正しい私の姿につながり、あなたの子とされる幸いを嬉しく思っています。

  私が見て、聞いて、触れたものを兄弟たちと分け合うことができるように、私たちを通して、あなたが語ってくださいます。私たちは、あなたからの言葉を受け取りたいのです。その願いを聞き届けてくださることを、いつも喜び、感謝しています。

  この祈りを私たちの救い主であり、主であるイエスさまのお名前によってお献げいたします。


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