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【主日礼拝】2024.1.14「もっと偉大なことを見る」

  これは2024.1.14の主日礼拝で、H.Y牧師がお話されたものを書き留めて、話の流れに沿ってまとめたものです。
  本文では、『聖書協会 新共同訳』を引用しています。

【 聖書箇所 】
(旧約)サムエル記上 3章1-10節
(新約)ヨハネによる福音書 1章35-51節

【 説教まとめ 】

  イエスの最初の弟子たちがどのようにして弟子となっていったのか。本日の聖書箇所である『ヨハネによる福音書 1章35-51節』では、そのことが記されています。

  そこでは、ペトロ、アンデレの兄弟、フィリポ、ナタナエル、そしておそらくヨハネと思われる名が記されていない人、その5人の弟子たちが登場します。

  これを読むと、『マタイ、マルコ、ルカによる福音書』とは、異なることが書かれていることに気づかされます。そこでは、ペトロとアンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟は漁師であり、イエスに招かれて弟子となっていったことが記されていました。

  それとは異なり、『ヨハネによる福音書』では、出来事の史実以上に、その意味、本質を書き表そうとする特徴があります。そのため時間的な順序や記述がほかの福音書とは異なることがあります。

  どちらが正しく、どちらが間違っているということではありません。どちらも正しいのです。

  『ヨハネによる福音書』が書き表そうとしたことは、イエスの弟子たちが招かれた出来事を通して、主イエスがすべての人を弟子として招いておられることを伝えています。そして、弟子として受ける恵みと使命について伝えようとしています。

  この弟子のうち5人は、知り合いに招かれた人たちでした。

  私たちも、主イエスからそれぞれ異なる招かれ方をされてきたことでしょう。そのうち兄弟や友人に招かれた方もいることかと思います。

  主イエスの最初の弟子は、洗礼者ヨハネの弟子でした。

  その翌日、また、ヨハネは2人の弟子と一緒にいた。  そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

ヨハネによる福音書 1章35-36節

  ここでヨハネが見つめたのは、『主イエスの歩み』を見つめたのです。そして弟子たちは、自分ではなく、イエスの弟子となっていくことを望んでいます。

  私たちは、すべて主イエスの弟子です。

  2人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った、  イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ―――『先生』という意味―――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、  イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるのかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後4時ごろのことである。

ヨハネによる福音書 1章37-39節

  この『泊まる』とは、ギリシャ語 ” メノウ(つながる) ” のことで、『ヨハネによる福音書 15章』で、主イエスが「わたしとつながりっていなさい」と言われた言葉と同じです。

  わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

ヨハネによる福音書 15章5節

  この5人の弟子たちは、主イエスと旅をし、寝食を共にすることで、「どこに泊まっているのか(つながっているのか)」を知っていくのです。

  最初の弟子となったアンデレは、兄弟のシモンをイエスのもとにつれて行きます。自分では難しいこともある家族伝道ですが、私たちも自分が信じていることを伝えるために教会につれて行くことはできます。その人は、主イエスが導いてくださいます。

  そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―――『岩』という意味―――と呼ぶことにする」と言われた。

ヨハネによる福音書 1章42節

  『ケファ』とはアラム語ですが、ギリシャ語で書かれた聖書では、それをギリシャ語で『ペトロ』と記しているのです。

  ペトロは、世界最初の教会の創立者となっていきます。このイエスの言葉は、ペトロの将来を見据えた名前だったのです。

  その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。  フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。

ヨハネによる福音書 1章43-44節

  このとき、フィリポはすぐに主イエスに従いましたが、それはペトロたちの町と出身が同じであったため、主イエスの教えを何度か耳にしていたのではないかと思われます。

  そして主イエスに従った後、フィリポはすぐにナタナエル(おそらくバルトロマイのこと)に伝道します。私たちも、イエスの弟子となったら、伝道者でもあるのです。

  フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」  するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。

ヨハネによる福音書 1章45-46節

  ナタナエルは、はじめフィリポの言葉を否定します。それは、ナタナエルが旧約聖書をよく読んでいたことを表しています。『ナザレ』という地名は、旧約聖書の中には出てこないのです。

  フィリポは断られましたが、あきらめずに「来て、見なさい」とフィリポを連れて行きます。

  ナタナエルを見ると、イエスは「まことのイスラエル人だ」と言いました。それにナタナエルは、「どうして私を知っておられるのですか」と答えます。

  普通、称賛を受けると人は、「いえいえ、私なんで…」と謙遜を表すものですが、このときナタナエルは、その謙遜を忘れてしまうほど、驚いて、普段から自分自身に対して思っていた本心が出てきたのです。

  主イエスは、ナタナエルがいちじくの木の下にいたことも見ておられました。イエスは、こうして常に私たちのことに目を向けておられるのです。

  それに対してナタナエルは、「あなたは神の子、イスラエルの王です」と最高の賛美を送りましたが、主イエスは、「もっと偉大なことを見る」と答えられました。

  王のイメージとは、人それぞれです。しかし、主イエスが答えられたのは、世の王ではなく、天の国の王の姿です。そのことを主イエスと旅をし、寝食を共にして知っていくことを言われているのです。

  更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

ヨハネによる福音書 1章51節

  これは、『創世記』に記されているヤコブの出来事について言っておられるのです。ヤコブは、兄エサウを欺き、長子の権利を奪い取りました。そのため、エサウに命を狙われ、母リベカの故郷に身を寄せる旅の途中で夢を見たのです。

  すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。  見よ、主が傍らに立って言われた。
  「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。  あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。  見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

創世記 28章12-15節

  ヤコブは、この夢に励ましを受けました。そしてイエスことがヤコブを祝福した神であることを表しています。

  『天の階段』とは、イエスのことです。天と地をつなぐ階段なのです。これは、十字架の死を表しています。しかし、死では終わりません。主イエスは、聖霊を送ってくださり、今も働いておられるのです。

  ナタナエルははじめ、イエスを信じませんでした。しかし、このヤコブの経験を、ナタナエルは自分の経験として知ることができました。

  神は、私たちの思いを超えて働かれています。そして、今も主イエスは、私たちを弟子として招いておられるのです。

  お祈りをしましょう。

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