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【 説教05 】「私は荒れ野で叫ぶ声である」

  これは2022.6.12に、 ” 聖霊 ” について、子供と大人が参加する礼拝で、私がお話したものです。

  人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。」

ルカによる福音書 12章10-12節(新約聖書 129p)


【 説教 】 約17分00秒

  今回の聖書箇所では、ポイントがいろいろあって話が尽きません。そこで、「『聖霊を冒瀆する者は赦されない』とは、どういうことか」について、的を絞ってお話をしていきたいと思っています。

  そして、このことから主が私たちに何を望んでおられるのか、そのことについて御心を深めて行きたいと思います。

  まずは、「『赦されない』とは、どういうことか」について確認します。

  『ルカによる福音書』に「金持ちとラザロ(ルカ16:19-26)」というたとえ話があります。もし、御国が地上に降りてくる前に、私たちが死を迎えてしまったら、聖書は、このお話で、”待合室” があるんだと言います。

  主の前に正しく生きたアブラハムたちのいる天国と、ゲヘナに投げ込まれる人たちのいる陰府です。

  ここで自分の楽しみのために生活を送っていた金持ちは、炎で苦しみ、アブラハムに憐れみを求めます。しかしアブラハムは、「私とあなたの間には大きな淵があって、こちらからも渡ることができない」と言います。

  主は、「生きているときの善悪によって分けられ、それはもう変更することができない(ヨハネ5:28-29)」と言われます。

  私たちの最も大きな苦しみは、神から引き離されるということ。それは、助けを求めても神であってもくることができないということです。

  赦されないとは、神から永遠に離されてしまうということです。

  ここで『マタイによる福音書』に注目します。そこでは、「聖霊に言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない(12:32b)」と言っています。

  あれ、これおかしくないですか?

  「来るべき世」はわかりますよね。悪が決定したら滅ぼされてしまうのですから。けれども「この世」は、裁きがくだされる前ですよ。

  ペトロは尋ねてましたのよね、「何度赦せばいいですか。7回ですか。」、「7の70倍赦しなさい」と言われてましたよね。これは、主ご自身が御言葉に背いているということですか。

  聖書は、こういうところがあるのです。

  なぜなら、イエスはつまずきの石だからです。

  聖書は、信じる者にしか読めないようになっていることを覚えておいてください。聖書の言葉は、まず正確に読んでいかないといけません。けれども、言葉を正確に読むようになってきたら、その言葉の言っていることに目を向けて行く必要があるのです。

  その見方は、主は言葉で語られるんですけれど、あるビジョンを見て、シーンを想定して、その一部について話しておられるのです。だから、主が言われている意味を受け取るには、言葉ではなくて、「それは、どういった状況の、何についてのことですか」と、シチュエーションを思い描いていくことです。

  これは、手に入れると便利ですよ。

  たとえば、私の母親がスーパーで商品を探していたんです。すると、お店の人は、誰にでもわかるように丁寧に教えてくれますよね。

  「この通路を真っ直ぐ進んで、突き当りの一本手前の通路を右に折れて、突き当りを今度は左に折れていただくと、冷蔵棚が3つ並んでいます。その真ん中の…棚が5段あって、上から4段目だったかな…」と言ってると、

  母親が、「あっ」と何かに気づきました。
  お店の人も、「どうされました」と驚いて尋ねました。

  母親「大根の横」
  店員「そのとおり」

  これで会話が終わったんです。

  これが映像の力ですよ。
  映像は、一度手に入れると一瞬で終わります。

  たとえば、童話『桃太郎』と聞くと、倒れた鬼の上に桃が乗っているといった勢いとスピード感で、物語が終わりませんか。

  聖書も、よく読めば誰にでもわかるように物語で書いてありますよね。けれども、主が知って欲しいと思っておられるのは、「このシーンのここのメッセージ」みたいに話しておられます。

  ですから、聖書の中で言ってることは、思うほど多くないし、映像で捉えると簡単なんで安心してください。

  それでは、「どのように赦されない」のか?

  たとえば、私の中学校のときにこういう友達がいたんです。その子は、いつも宿題をやってこない。それで、毎回毎回、授業の始まりの5分がその子が怒られる時間なんです。

  自分が怒られてなくても、その現場にいるの嫌じゃないですか。だから、ほかの友達が「宿題やろうよ。手伝うから」と声をかけるけれども、「絶対嫌だ」と言うんです。「何で」と尋ねると、「俺はあの先生が嫌いなんだ。だからあの先生が喜ぶことはしない」というんです。

  どうですか、これ?

  これは、一番困るのはこの子ですよね。力をつけられるときにつけられないんだから。けれども、その子は気づかないのです。なんで、『ガラテヤの信徒への手紙』の肉の業にありましたよね。敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心このたぐいのもの(ガラテヤ5:19-21)。

  これらがその人の目を見えなくしたのです。こういった状況を、主はこのように言っています。

  光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それがもう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。

ヨハネによる福音書 3章19-20節

  この人は、宿題をやってこなかったから怒られているんです。けれども、「宿題をやってこなかったことが悪いことだ」、「自分が自分のためにならないことをしている」ということを認めたくないんです。

  それを指摘してきた先生が嫌いとすり替えているんです。

  この先生が、毎回毎回、根気よく叱るように、主も常に叫んでおられます。「悪いことをやめ、善いことをしなさい」と。それに従わないのは、その人なんです。

  主は、決して私たちを見捨てることはなさいません。けれども、自分の中に働く悪を認めない人は、「何で自分ばっかりこんな目に遭うんだ」と文句ばかり言います。

  これが神に引き離されている状態です。

  神は「聖霊を冒瀆するものは赦さない」と言っておられるけれども、実際は、「自分を崇め木や石の像を拝んで主を捨て去った」ということを言っておられるのです。

  そして、あなたに尋ねたいことは、「この先生の言葉が、神の言葉、見える形で働きかけている聖霊さまの声だということを信じることができますか?」ということです。

  先生が神ということではなくて、「神が、聖霊さまが先生の口を通してメッセージを送っておられる」ということ、そのことを信じたいと思いますか?

  私がこのようにお話しするのは、預言者エリヤの「サレプタのやもめ」のお話で、このように言われているからです。

  『列王記』では、主はエリヤの視点で、「やもめに命じて、あなたを養わせる(列王上17:9)」と言われます。

  けれども、『ルカによる福音書』でイエスさまはやもめの視点から、「サレプタのやもめのところにだけエリヤは遣わされた(ルカ4:26)」と言っています。

  エリヤもやもめも人間です。

  けれども聖書は、エリヤとやもめは、お互いの信仰を高めるために、互いに送られた神の御使い、メッセンジャーだと言っているのです。

  たとえば、あなたが「おやすみ」って寝ようとしたら、不意にお父さん、お母さんから「宿題やったの」と言われたとします。「あ、忘れてた」と気づく。

  お菓子を食べようと、ビニールの包を解いたらビュッと風が吹いて、捨てる気じゃなかったのにゴミが飛んで行っちゃった。すると、知らないおじさんから「ごみなんか捨ててんじゃねぇよ」って急に怒鳴って去って行く。

  いつも遅れてくる人との待ち合わせに、「2,3分くらいいいか」と思って遅れて行ったら、その日は早く来てて大激怒される。

  これらが、神があなたに送られるメッセージ、この出来事の裏で神があなたに働きかけておられるということを信じたいと思いますか?

  お父さん、お母さんは、なんとなく言っただけかもしれないですよ。おじさんだって、ストレスがたまって誰これかまわず怒鳴りつけてやろうとしてただけかもしれないです。

  だいたいそうです。

  いつも遅れてくるのに自分はよくて人はダメっていう人たくさんいるんです。けれども、そんなことはどうでもよくて、結果的に、あなたに「悪いことをやめて、善いことをしなさい。それが不注意であっても気をつけなさい」と働きかけたことには変わりはありませんよね。

  それを、あなたと見えるその人との関係で見るのではなくて、「あなたと天の見えないお父さんとの関係で見ることができますか?」、「見たいと思いますか?」。

  私は、そのことを言っているのです。

  イエスさまは、二コデモに言われます、「私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう(ヨハネ3:12)」。

  あなたがアブラハム、イサク、ヤコブのヤコブのように、「私に祝福をください」と主にすがりついて求めるなら、あなたは見えない天の働きを信じることができるようになります。

  今度は、あなたの内側の話です。

  「宿題あるけれども、忘れてたことにして寝ちゃえ」と寝ようとする。けれども、眠れないのです。

  こういったことは、ありませんか。

  「いっぱい町中にごみが落ちてるし、これくらいならいいかな」と思うけれども、「いいや、ダメだもって帰ろう」と捨てられない。

  こういったことも、ありませんか。

  「待ち合わせに遅れるけども、怒る子じゃないからいいよね」と思いつつも、「いいや、約束は守らないと」とちょっと小走り。

  心が働いてしまいませんか。

  福音書にこういった話はありません。

  けれども、イエス様だったらどうするだろう。宿題はやるし、ごみは持ち帰るし、待ち合わせにもちゃんと行くんです。

  なぜなら、福音を宣べ伝えることのほかに、あなたが人からの信用を失ってはとなってはならないからです。だから、「この世のルールに従いなさい」と言われます。

  イエスさまは、「聖霊がすべてのことを教え、イエス様の話を思い起こさせる」と言われます(ヨハネ14:26)。そのあなたの思いに「悪いことをやめて、正しいことをしなさい」と働きかける、あなたのものではないその思い、それが聖霊さまの声ですよ。

  一般的にオーソドックスに感じる聖霊の声は、思いに働きかけてきます。なぜならあなたの心には、御言葉が記されているからです。

  私がこう言うのは、その声がしない人がいっぱいいるからなのです。さっきの宿題をやってこない私の友達もそうですけれど、ごみのポイ捨て犯もいっぱいいますよね。

  なぜ、あの人たちは平気でごみを捨てるんですか。

  心の声がしないからです。

  待ち合わせであったり、物の貸し借り、人の話を聞く態度とか、その人が相手に求めていることとやってることが全然違うことありますよね。しかも怒ってくる人、いっぱいいます。

  なぜですか?

  周りの働きかける声に「うるさい」と退けるからなんです。

  町中でごみを捨てる人に、「ごみ箱はあそこですよ。何で道に捨てるのですか?」と、一人一人に聞いていくと、信じられないほど、すごい答えが返ってきますよ。今日は時間がないので、そのうち紹介します。

  子どものときは、周りの大きな大人の人に囲まれているから、「とりあえず大人のいうこと聞いておこう」みたいな感じでいる大人しくしている人が多いのです。

  けれども、大人が見ていないところとか、大学生とかになって一人暮らしをはじめると、しがらみがなくなります。すると、自分なりの正しさがむくむくむくと出てくるのです。

  私にもありますよ。

  だから、イエスさまがファリサイ派に言った言葉を憶えておいてください、「あなたがたは父のお言葉を自分の内にとどめていない(ヨハネ5:38a)」と。

  天のお父さんの声は、あなたの内側でも、外側でも働きかけておられます。その声に逆らうと、声はだんだんだんだん小さくなっていき、そしていつしかまったく聞こえなくなります。

  その声に従っていると、声はだんだんだんだん大きくなってきます。イエスさまは、「私の体を食べなさい。私の血を飲みなさい」と言って、民衆は、「馬鹿馬鹿しい」と言って離れ去って行きました。

  けれども、福音書全体をよく読んでみると気づくことがあります。主は、不思議な言い方をしていることに。

 「私の言葉を聞いて行う者は…(ルカ6:47)」、「私と私の言葉を恥じる者は…(ルカ9:26)」、「この言葉を耳に収めておきなさい(ルカ9:44)」、「私の言葉は決して滅びない(ルカ21:33)」、「私の言葉にとどまるなら…(ヨハネ8:31)」、「私の言葉を守るなら…(ヨハネ8:51)」、「私が語った言葉によって…(ヨハネ15:3)」、「私が言った言葉を思い出しなさい(ヨハネ15:20)」などと言われています。民衆も、イエス様が悪霊を追い出されたときに「何だこの言葉は」と言い(ルカ4:36)、ペトロも、「永遠の命の言葉をもっているのはあなただけです」と答え、ユダヤ人たちも「言葉をめぐって対立が生じた(ヨハネ10:19)」と書いてあります。

  福音書は、言葉、言葉、言葉と、しつこいくらい言葉と言う言葉にこだわっています。そして、「あなたは、自分の言葉で義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる(マタイ12:37)」。

  主が、「食べなさい」と言っている体は、「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である(ヨハネ6:63b)」と言われます。

  私たちは食べ物を食べれば大きくなり、大人になります。けれども、心は、霊はどうですか?

  主は、「御言葉を聞き、思い巡らし、生活で生かしていかなければ成長しない」と言われます。
  逆に、体の成長や年齢にかかわらず、それを求めればいくらでも主の前に心も、霊も成長します」と言われます。
命の実とは、イエス様の言葉のことです。

  主は祈りの力で、その人の心を変えることもできます。けれども、無理やりはやらないんです。

  なぜなら、主は友を求めておられるからです。

  一方的に思いを押しつけて、力でねじ伏せて、何かもので、利益で釣って言うことを聞かせる人を友達と言いますか。

  言いませんよね。

  だから、主もできるけれども、そういうことはやられないのです。主は、一人ひとりの意志をもって主を選んでもらいたいと思っておられます。

  また、主は、御心に従う者たちの僕ですから、「その主人が御心を求めていないのであれば、私は余計なことはいたしません」と控えておられます。

  このことから、「この世であっても赦されない」、「主であっても救うことはできない」と言っておられるのです。

  固い食物は、習慣によって善悪を見分ける感覚を鍛えられた、大人のためのものです。

ヘブライ人への手紙 5章14節

  私があなたに与える言葉は、固い食べ物です。主を通してあなたの経験・体験に聞いてください。生きてきた長さは問題ではないのです。

  イエスさまは、エルサレムに入城して、神殿の境内から邪魔なものを全部追い出して言われます、「あなたは祈りの家と呼ばれる(マタイ21:13)」。

  あなたの体は神の住まわれる神殿、あなたの心は御言葉を供える祭壇、あなたの周りは主を知りたいと願う人たちの集まる敷地。

  主があなたのことを、主の喜びのパンあふれる泉としてくださいますように。

  お祈りをします。


【 お祈り 】

  天の愛するお父さん。あなたの言葉を守り、あなたの言葉を心に収めます。いつでもそれを取り出して、私と交わる人々に分け与えることができますように。

  そして、あなたが今も生きて働いておられることを日々見ることができるように、あなたの言葉を私に与えてください。

  あなたと共に生きる喜びを私が知り、私と交わる人々があなたを知ることができますように。

  私たちのこの祈りを私たちの救い主であり、主であるイエス様の御名によってお捧げいたします。アーメン。




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