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【 説教11 】「主は心を見る」
私たちの教会では、2023年の夏に『ヨナ書』をテーマにしてイベントを行いました。そのとき、7月の4週をかけて、『ヨナ書』の各章を礼拝説教の中でとりあげてお話ししました。これは2023.7.23に、私が3章を担当したときに、礼拝でお話したものです。
【 聖書箇所 】
主の言葉が再びヨナに臨んだ。 「さあ、立って、あの大いなる都ニネベに行き、私があなたに語る宣告を告げよ。」 ヨナは立って、主の言葉に従い、ニネベへと向かった。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに3日かかった。 ヨナはまず都に入り、1日かけて歩き、「あと40日で、ニネベは滅びる」と告げた。 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、大きな者から小さな者に至るまで粗布をまとった。
このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がり、王衣を脱ぎ、粗布を身にまとい、灰の上に座った。 王はニネベに王と大臣たちによる布告を出した。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ口にしてはならない。食べることも、水を飲むこともしてはならない。 人も家畜も粗布を身にまとい、ひたすら神に向かって叫び求めなさい。おのおの悪の道とその手の暴虐から離れなさい。 そうすれば、神は思い直され、その燃える怒りを収めて、我々は滅びを免れるかもしれない。」
神は、人々が悪の道を離れたことを御覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった。
【 説教 】 約19分00秒
まずは、『ヨナ書』2章までの振り返りです。
ヨナは、二ネべに神の言葉を告げ知らせるように言われましたが、「嫌だ」と、船でまったく逆方向に逃げ出しましたね。すると、嵐に見舞われ、原因がヨナ自身にあったため、海に投げ込まれ、魚のお腹の中で悔い改める時間を過ごしたのでしたね。
さぁ、今日のお話は、ヨナがニネベの町に神の言葉を届けると、あれよあれよという間に人々が悔い改め、神も災いをくだすことを思い直されました。
今日は、「3章の出来事がどういうことなのか」ということを、順を追って、御心を深めていきたいと思います。
ヨナは、「1日分の距離を歩きながら」、神の言葉を届けています。
けれども、2日分の距離は、何をしていたかは書いていません。
もしかしたら、人々の口コミで広がっていって、ヨナはそれを眺めていただけだったのではないのかもしれませんね。そうでなかったとしても、一人の人が呼びかけただけで、人が悔い改めて神のもとに立ち帰ることがあるのでしょうか。
もし、あなたが神の言葉を得たいのであれば、「これは私自身については、どのような出来事があてはまるでしょうか」と、常に『聖書』の言葉を思い巡らせながら生活することです。
初めは出てこないこともあると思います。
けれども、一度つながり出すと、本の中から聖書の物語が生活の中にあふれてくるようになります。
たとえば、「これは、どういう心境の変化なのだろうか」と、わからない出来事があったりしませんか。
私が小学生のとき、野菜を絶対食べない友達がいたのです。
どれくらい食べないかというと、雑学が流行ってて、畑で実るのは野菜、木に実るのは果物とか、雑な定義があったのです。それだけで、スイカやメロンは絶対食べないといった感じです。
あるとき、お友だちの家でスイカが出たのです。みんなが「あの子が不機嫌になる」と思っていたら、「わーい」と言って食べるのです。
だからみんなが、「野菜を食べられるようになったの」と尋ねると、「スイカは野菜かもしれないけど、甘いからフルーツだよ」と言うんです。
でも、翌週になると、「スイカは野菜だから食べない」とか言っているのです。
これとは逆に、絶対受け入れない話です。
大好きな漫画があって、発売日の前日の夕方に入荷されてたりするから、「あったらいいな」と思って見に行ったのです。そしたら、店員さんに聞いても、「まだ届いていないから明日来てね」と言われたのです。
そのことを次の日に友達に話したら、「その漫画の発売日はもっと先だよ」というのです。だから、「店員さんも今日が発売日だと言ってたし、雑誌にも今日だというのを確認している」と言っても、「絶対違う。お前おかしい」と言われるのです。
このことを受け入れることにメリットもデメリットもないはずなのに、いったい何にこだわっているのでしょう。
私自身の身に起こった話だと、イエスさまを信じたときのことを思い出すのです。
私のお友だちが「キリスト教に改宗した」と、話をしに来たのです。それを私は、「西洋的な見解は、こんな感じか」と教養として聞いていたのです。それで何気なく気になったことを、そのお友だちに聞いてみたのです。
「モーセ、ダビデ、パウロ、ペトロとか人がいるよね。あの人たちをモーセさま、ダビデさまとは言わないよね。何でイエスだけ、『イエスさま』なの」と。
すると、そのお友だちは、「イエスさまは、神が肉体をもってこの地にお生まれになった方だからだよ」と言ったのです。
その瞬間に、「あ、僕の神さま見つけた」と思ったのです。
それで、私が「改宗する」と言ったら、お友だちからは「えっ、何で?そんなつもりで話していたわけではないんだけど」と言われました。
そのとき、まだ聖書も読んだことはなく、どこにも、イエスさまを信じる要素がないのに、私は信じました。今思い返しても、「神が私の目を開いてくださった」としか言いようがありません。
2章で、ヨナが魚の中で祈っています、「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた(2:4)」と。
けれども、実際に海に投げ込んだのは、誰ですか?
船乗りたちですよね。
しかしヨナは、船乗りたちを用いて神が働かれたことを知っているのです。
私が尋ねて、私のお友だちは答えてくれました。けれどもその友達の言葉は、イエスさまの言葉だったということです。神は、このように生活の中で語られます。
イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」
私は、自分自身を通して神の業が働いたことを見たのです(Ⅱペトロ3:18-19)。今でも思ってます、「何で私は信じたんだろう」と。
だから、「ヨナのちょっとした声かけによって、ニネベの人々が次々と悔い改めていくことも当然あっただろうな」と知っています。
あなたも、こういったことを知っているのではありませんか。
ニネベの人々が悔い改めたことによって、神は災いをくだされることを思い直されました。
主は、何を見ておられるのでしょうか。
「スイカはフルーツだよ」と言っていた私のお友だちは、翌週には「スイカは野菜だ」と言っていたのですよ。
神は、どこで判断されているのでしょうか。
『サムエル記』の中で御心を離れてしまったサウル王に代わり、サムエルは、ダビデに油を注ぎに行きました。そのとき容姿と背丈を見て、ダビデの兄たちのことを「次の王だ」と思いました。
けれども主は、サムエルに言います。
「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」
主は私たちの心の姿を見ておられるのです。
『旧約聖書』の神に従う忠実な民の姿は、「主は私の羊飼い(詩23章)」と言われるように、羊に見えているのです。
羊そのものではなくて、羊の性質が見えているのです。
聖書の中には、いろんな動物が出てきますね。気になった動物の性質を調べてみるといいですよ。すると、「なぜこのお話では、この動物なのか」という意味がわかります。
羊の性質は、どんな性質ですか。
羊は、群れで生活します。けれどもリーダーがいないのです。だから草を食べていて、1匹が群れから離れ出すと、「そっちなんですね」と、それについていくのです。
また、別の1匹が群れから離れ出すと、「今度はそっちなんですね」と、それについていくのです。
だから、羊飼いが群れを率いていく生活スタイルになっているのです。
『創世記』に出てくるノアは、神に従う無垢な人でした(創世6:9)。
これが羊の性質です。
たとえば、具体的に生活の中でどういうイメージかというと、自分が話していたけれども、ほかの人が話し始めると、黙って話を聞いてしまう。
何か提案をしたのだけれど、ほかの提案が出てきてみんなもそっちの提案の方が乗り気だったりすると、譲ってしまう。
何か自分がやっていたことがあるんだけれど、「これやって」とちょっと強気にやられると、「わかりました」と手伝ってしまう。
いろんな人からは、「自分をしっかりもたないとダメだよ」とか、「優柔不断で信用ならない人」とか、言われたりすることもあるかもしれません。
けれどもそれは、「善悪とは、正しさとは、何だろうか」ということを探している最中だからです。
それは主を尋ね求めている状態です。
『聖書』の中には、不可解な表現がたくさんあります。無垢な人には、その言葉と向き合うときに、「これってどういう意味なんだろうな」と、聖書の言葉に寄り添う心の姿勢が自然とあるのです。
それは、主があなたの心を守っているしるしなのです。
今日の聖書箇所でも、王さまの布告の中で「人も家畜も、牛、羊に至るまで粗布をまとって、断食をしなさい」と言っていますよね。
羊にも粗布をまとわせるのですか。
これを一般的な読み方をすると、「『断食を徹底しなさい』ということかな」と受け取ることができます。けれども、聖書が神の霊感された言葉であるなら、霊の人は霊の言葉を話される。
私は口を開いてたとえを語り / いにしえから隠されていたことを告げよう。
布告を出したのは、悪の親玉アッシリアの王なのです。けれども、その口から出た言葉は、霊感されたイエスさまの言葉なのです。
先ほど、旧約聖書の神に忠実な人々の姿は、羊のように見えていると言いました。
今日の『暗証聖句』では、「人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ(ヨナ3:8a)」という御言葉を選んでいます。
その意味とは、だいたい次のような意味です。
人の目に映る人の姿であるその身に粗布をまといなさい。また、神の目には従順な羊のように見える姿、その心にも粗布をまとい、心の内側から神の言葉を求めなさい。
このような心の内側と外側に対する呼びかけは、いろいろな聖書箇所で見つけることができます。
次の聖句は、ほとんど同じことを言っています。
主は言われる。「今こそ、心から私に立ち帰れ / 断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく / お前たちの心を引き裂け。
わたしが喜ぶのは / 愛であっていけにえではなく / 神を知ることであって / 焼き尽くす献げ物ではない。
ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
人の支持を集めたり、ご機嫌取りのパフォーマンスをやめなさい。
律法を守ることは、手続ではない、「これにどういう意味があるんだろうか」、そのことに心を留めて、愛の実践を心がけなさい。
その行いの動機は、何ですか。そのことを見つめ直すために、施しをするときには、祈るときには、断食をするときには、人目を避けなさい。
『聖書』は、これだけ厚い本ですけれども、ずっと同じことを繰り返し、繰り返し言っています。
神はすべてを見通しておられますよ。人に喜ばれるためではなく、心を吟味される神に喜んでいただく生き方をしましょう(Ⅰテサ2:4)。それが永遠の命に至る道、知恵の実を避けて命の実を得ることですよ。
最期に、このまとっている粗布とはなんですか。
あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
同じことは、パウロが書いた手紙の中でも言っています。
これは、目に見える古い時代を生きている人たちに対して「今ある習慣を守り行うことによって、従順という姿勢を学びなさい」ということを言っているのです。
けれども、霊に従う新しい時代を生きる人たちにとっては、この男とか、女がたとえ話になっています。
私たちは、男も女も、お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、みんなイエスさまとの関係は、花嫁、女なのです。
だから、「イエスさまと向き合うときに、この姿勢を守るのですよ」ということを「女はこうしなさい」という天の国の隠された教えを話しているのです。
なぜなら、イエスはつまずきの石だからです。こういう神さまからのお試しに引っかからないようにしてくださいね(申命8:2)。
私は子どもの頃に勉強をやらずに相当怒られてきました。「次こそやります」といって、全然やらなかった。さんざん怖い目に遭いましたけれど、一番怖かったのが、何も言ってくれなかったときです。
お母さんから「もう知らん。勝手にやれ」と言われて、初めは、「やった好きにできる」と漫画を読んだり、ゲームをやったりやっていたのです。
けれども、本当に何も言ってくれなくなったのです。
ただ、朝に学校に行くとき、「いってらっしゃい」、帰って来たら、「お風呂入りなさい」、「ご飯できてるよ」、寝るときに、「おやすみ」とは言ってくれます。
けれども、そっけない。「ほら、お母さん、悪いことしてるよ」と、わざわざ見えるところで漫画を読んだりしても、「ふん」と見ないんです。
だんだん、居心地が悪くなってきて、「しょうがない勉強やるか」と勉強を始めました。
それでも、何にも言わないのです。
3日経っても、4日経っても何も言わないのです。
2週間過ぎたくらいに、カチャッと部屋のドアが開いて、お母さんが満面の笑みで入って来て、「最近がんばってるね、勉強が好きになったの」と言ったのです。
正直、「おまえのせいだよ。居心地が悪かったからやらざるを得なかったんだよ」と言いたかったです。
けれども、すごく嬉しそうにしているから、「やってみると知ることって楽しいんだなって思った」と言ったのです。
「あなたが勉強をしっかりしてくれるとお母さんも安心だわ。今日は何食べたい」。
「ひじき」
私は「何食べたい」と言われたら、“ひじき”としか言わないのです。
なぜなら、お母さん自身が「ひじきが大好きで、手間もかからなくて楽」と言っていたからです。
「あなたは本当にひじきが好きね」と言われて、確かに好きなんです。けれども、「ひじき」をリクエストすると、お母さんが一番うれしそうに楽しそうにするから、「ひじき」というのです。
私が勉強だけでなく、「いろんなことをちゃんとやろう」と思ったのは、将来のためでも、人のためでも、楽しいからでもありません。「お父さん、お母さんは笑っている方がいいな」と思ったからです。
それを思って、「やっぱり、この人が僕の親なんだな」と思いました。
それは、「イエスさまが僕の神なんだな」と気づいたときと、同じ思いなのです。
親は、ずっと子どもの様子を見ているのです。
2週間、声をかけてこなかったのは、「嫌々やっているんじゃないかな、真剣にやってるかな、どうかな」というのを、ずっと見ていたんです。そして、真剣に勉強している雰囲気、慎みという装いが見えたから、声をかけてきたのです。
ヨナがニネベの人々に告げ知らせますよね、「あと40日すれば、ニネベの町は滅びる(3:4)」。
主も同じように、40日の間、ずっと見ているのです、「嫌々やっているんじゃないかな、喜びをもって私と生きたいと思っているかな、どうかな」ということを。
それは完璧でなくてもいいのです。
心の姿勢は清められていきますから。
私たちは、目を開きながら、閉じることはできません。
息を吸いながら、吐くことはできません。
食べ物を食べながら、話すことはできません。
同じように、神の義を学び、イエスさまに問いかけながら、自分の正しさを主張することはできません。
私は、「この人が僕の親なんだな」、「イエスさまが僕の神なんだな」と、あのとき芽生えた小さな思いにずっと問いかけて、聖書を読んだり、生活をしています。
神は「聖なる動物は、“反すう”する生き物である」と言われます。
私たちが日々の生活の中で、「この聖句は、どういう意味だろう」、「この物語は、私の生活の中ではどういうことなんだろう」、「こういうときには、聖書的にどのように判断するのだろう」ということに思い巡らせます。
それが聖なる動物の行う“反すう”という聖なる性質なのです。
私は、常に御言葉を思い巡らせる“反すう”という生き方を、あなたにもおすすめします。そうして、聖書の言葉をあなたの生活の中に招いてください。すると、これまで以上に聖書の言葉が、あなたの命からあふれるようになります。
昨日よりも今日、今日よりも明日、主が私たちの目を開き、主の据えられた基をしっかりと歩む足、主の恵みを確かに受け取る腕を与えてくださいますように。
お祈りをします。
【 お祈り 】
天の愛するお父さん、あなたがどのように私たちに語っておられるのかを教えてください。散らされたあなたの言葉を集めて、私の心に記してください。
旧い文字に従う生き方ではなく、新しい霊に従う生き方を教えてください。あなたを身にまとい、あなたの思いを尋ね求めます。
すべては、あなたが私に与えてくださる子どもたちが、あなたと強く結びつくため、私が見て、聞いて、触れたものを伝えるためです。
アーメン。
(参考 創世2:16-17、ロマ5:12、エレミヤ30:10-11、ロマ7:6、Ⅰコリ11:31-32、申命30:11-14、Ⅰヨハネ1:1-4)