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【短編小説】あさがくる

「朝が来る」と、私を励ますのはやめて欲しい。
「夜が明ける」ならまだしも。

朝が憂鬱な人間は多くいるが、「朝」という言葉そのものを嫌悪する人間は少ないだろうと思う。
私はいつだって朝から逃げている。
不眠症の私にとって、朝は迎えるものではなく、後から追ってくるものなのだ。
しかし、朝は否応なく私の目の前に立ちはだかる。

午前三時半。
そんな戯言を頭の中で並べていたのは、友人の河本から自主制作の楽曲が送られてきたからであった。曲名は『あさがくる』。
私が重い腰を上げて床に就いた時だった。壁に据えつけられたライトを消して、部屋が完全な暗がりになるよう施した。いつからか洗わなくなったタオルケットを身に纏って、なるべく瞼に力が入らぬように目を閉じていると、僅かな光が網膜に届いた。LINEの通知が来ていた。河本が「感想が欲しい。」と一言添えて、約2分のwavファイルを送ってきた。私は既読を付けずに、画面の方を下向きにしてスマホを置いた。直ぐに曲を聴く気にはなれなかった。1秒でも顔にブルーライトを浴びせられたことが、腹立たしかったからだ。私は再び目を瞑ったが、眠れる気配は無かった。

天井からベッドの軋む音と微かな女の喘ぎ声が聞こえている。
私の部屋の真上には、同じ大学の渡部という女が住んでいる。学部が違うので、キャンパス内で見かけることは少ない。
私がこのアパートに引っ越した1週間後に、彼女もまた入居してきた。同じ大学かつ同学年であることを知り、軽く言葉を交わしたことがある。経済学部であること、映画制作サークルに所属していたこと、「わたなべ」ではなく「わたべ」であることは憶えていたが、下の名前は憶えていなかった。それから私たちは、目が合えば会釈する程度の距離感を保っていた。
ある日を境に、渡部は自室に男を連れ込むようになった。それが恋人なのかは、私には分からなかった。いつも深夜2時を過ぎるとギシギシと籠った音が一階に届く。その音が聞こえると私は、ある時は欲情し、ある時は憤った。
今日もまた、彼女は恥じらいのないリズムで天井を揺らしている。そのリズムには、まるで父親が日曜大工に励む時のような妙な快活さがあった。心地が良かった。その音に身を委ねれば、このまま眠れそうだった。
そう感じたところで、音は止んだ。

また目が冴えてしまった。
スマホをひっくり返して、時刻を確認した。暗闇を掻き分けるようにしてスマホが光った。
4:03という文字が視界に入った。
目を閉じると、時間は嘘みたいにじっくりと流れ始める。私はもう五時になったものだと思い込んでいた。目を閉じてから三十分しか経過していないと知って、焦燥と安堵が入り交じった。
カーテンの隙間から寒色の光が、わずかに漏れ出ている。九月に入ったが残暑は厳しく、エアコンは付けたままだった。一睡もしていないはずが、Tシャツが寝汗で少し湿っている。それが暑さのせいではないと知りながら、私はエアコンの設定温度を一度下げた。部屋が人工的な冷気で満たされていくのが分かった。

ゴミ袋から音がしたような気がした。
その音が、私が忌み嫌っている侵略者による音なのか、あるいはエアコンが吐き出した微風に袋が揺れた音なのかは、分からなかった。そもそも音なんて鳴っていないような気がした。しかし、私はベッドから起き上がり、卓上のデスクランプを点けた。殺虫剤を片手にゴミ袋を持ち上げたが、何もいなかった。埃と糸くずが、ただ惨めに放置されているだけだった。
このような「気のせい」から始まる連想ゲームによって、私の睡眠時間は蝕まれている。焦げた匂いを感じて煙草の不始末を疑ったり、顔に水滴が落ちたような気がして、雨漏りを疑ったりもした。私の部屋は一階にあるというのにだ。
不意に生まれた悩みの種は解決することなく、いつも「気のせい」へと帰結した。その思考に費やした時間が、本来睡眠に充てるべき時間であったと気づいては、自己嫌悪に陥った。
デスクランプを消すと、先ほどよりも外が明るくなっていることに気が付いた。瞳孔が薄闇に慣れていくと、睡眠欲も薄れていく。完全な暗闇でなければ、私は眠ることができなかった。
時刻は五時を過ぎていた。

私はボロボロになったワーキングチェアに腰掛けた。レザー製の座面はひび割れて、徐々に捲れてきている。それは、私の姿勢の悪さ、つまり懈怠な心を象徴していた。
LINEを開いて、河本とのトークを開いた。
「感想が欲しい。」
河本はLINEでも文章の末尾に句点を付ける。
会話をするときもそうだ。必ず語尾に句点が付くような話し方をする。

河本は変な奴だったが、なぜか頭は良かったし、容姿端麗であった。早稲田大学の法学部生である。このまま弁護士にでもなるのだと思っていた。
だから一年前、居酒屋で「ミュージシャンになる。」と打ち明けられた時は、思わずレモンサワーを吹き出した。河本曰く、バーで弾き語りを披露した際の拍手喝采が忘れられなかったのだそうだ。理由があまりに俗っぽくて、今度はハイボールを吹き出しそうになったのを憶えている。
河本は歌が上手かった。しかし、歌声に魅力がなかった。所詮、カラオケでチヤホヤされる程度の歌声であった。4分も聞けば味がしなくなる、ガムみたいな歌声だった。
私はそんな河本の歌が好きだった。

音声ファイルを開いた。
軽く咳払いをした後に、「あさがくる。」と少ししわがれた声がした。長い時間使われていない声帯から無理やり絞り出したような声だった。
それから美しいギターのアルペジオが流れる。
上階では二回戦が始まっていた。

「あー、朝が来る
 おひさまがかおりをのせて

 あー、朝が来る
 乾いた服に顔をうずめて

 あー、今日が終わる
 希望はいつだって夢の中に

 今は暗いままで
 君をゆらして
 羊をころして
 明日を迎える

 朝が来るから僕はいくよ
 今からいくよ」

天井のバックノイズと歌詞が相まって、要らぬ妄想をしてしまう。私がこの曲に正当な評価を下せる環境にいるとは思えなかった。なんと陰鬱で不埒な曲だと思った。だから率直に「最低だと思う」と一言送った。
直ぐに既読が付いた。きっと河本も寝ていなかった。

「君ならそう言うと思った。」

私の意地の悪い返信に河本は憤ることはなく、予想外の反応を示した。
河本は感情の少ない男であったが、音楽のことにおいては、普段よりも多くの感情表現を私に見せた。だから、河本といえども自作の曲を「最低」と評されれば、多少の怒りを宿した言葉を投げつけてくるものだと期待していた。ロボットのような彼の心に動きが見られると、私は嬉しかった。

「実はセックスの曲なんだよ。」
「純潔なメロディーに乗せて、官能的な意味を孕んだ歌詞を歌ってみたかったんだ。」
「かっこいいと思わないか。」

それぞれ2分ほどの間隔をあけて、河本は続けた。
私には何がかっこいいのか分からなかったが、

「なるほど」
「かっこいいと思う」

と、送った。
またすぐに既読が付いたが、河本から返信が来ることは無かった。

午前六時。
陽の光は温かみを帯びて、ベージュのカーテンをこんがり照らしている。外の朗らかな景色が、私の中にこびり付いた憂鬱を際立たせた。
ふと煙草を吸いたくなったが、箱が空になっていたことを思い出して、私はこのアパートの真裏に位置するコンビニへ行くことに決めた。
外に出る前にシャワーを浴びた。外面を清潔に保っていても、睡眠を経ていない私の精神はいつも不潔に感じる。
シャワーが終わると、軽装に着替えた。医者に飲みすぎると死んでしまうと言われた薬を、お守りのようにポケットに忍ばせて外に出た。少し湿った髪が朝風に撫でられると心地が良かった。駐輪場で渡部と知らない男が会話をしていた。その会話の淡泊さから、二人が恋人同士ではないことが何となく感じられた。

コンビニの中は具合が悪くなるほど涼しかった。私が番号を言うと、前髪の長い男が口をパクパク動かしながら、煙草を差し出した。この男も寝ていないのだと思うと、少し親近感が湧いた。
喫煙スペースで、先ほど購入した煙草を吸った。ほのかに甘い煙が肺を満たし、私の中の憂鬱を殺してくれるように感じた。煙草は私にとって、燻煙殺虫剤のようなものであった。
人工木のフェンス越しに私の部屋のベランダが見える。二階には、座りながら煙草を吸っている渡部がいた。オーバーサイズのTシャツの裾から生えた両足を柵の間から出して、ブラブラと動かしている。
渡部はこちらを見ていた。私も同じように渡部を見ていた。彼女の無防備な姿に、私の中でふつふつと湧いてくるものがあったが、彼女は訝しがる様子もなく、ただこちらを見ている。そもそも、私の視線が届いていないようにも思えた。私と彼女の間には、マジックミラーのような隔たりがあり、彼女は私を見ているようで見ていないような、そんな気がした。

私は小説家になりたかった。
高校生の時、鬱病を発症した私は、学校へは行かず、ただひたすら言葉に埋もれていた。文学作品や哲学の本を読み漁っては、真似事のような文章を原稿用紙に書き殴った。文章を書くことで、少しでも憂鬱な気分を紛らすことができた。
しかし、私は文才に恵まれていなかった。私は大学に入ってからも、文章を書き続けた。自分のために書いていた文章を、コンクールに提出するようになったが、それらが認められることは無かった。時間が経つにつれて、漠然としていた不安は具体性を帯びていった。そして、不眠症が再発した。

あの時、私に向かって「夢があるなんて羨ましい」などと宣っていた同輩は、今ではリクルートスーツを身に纏い、溌剌と就職活動に勤しんでいる。すでに彼らは私よりも社会的に上の地位に属しており、数年後に再会した頃には、いつまでもフリーターを続ける私に、「まあ今の時代そういう生き方もあるか」と言い放つことは想像に難くないと思った。私に就職活動を行う活力は残されていなかった。いつまでたっても気分が乗らなかった。いい加減にしなければならない。という思いはあるが、成人式の時以来着ていないスーツをクローゼットから取り出す気力さえ、残されていなかった。

二本目の煙草に火をつけた。
渡部は依然として、私の付近を眺めていた。彼女の吸っている煙草の銘柄が気になった。甘味の少ない煙草を想像した。
彼女は私と同じように、昨日に取り残されている。昨日芽生えた不安や欲求を今日に持ち込むが、どうすることもできないから煙草で気を紛らしている。
私は彼女に興味が湧いてきた。彼女の生理的欲求はいかにして壊れてしまったのか、気になった。そしてそれをもとに、小説を書きたいと思った。

ふと、スマホを確認すると、河本からLINEが来ていた。ロック画面に冒頭の一文が表示される。

「お先真っ暗。」

LINEを開くと、大きな吹き出しが二つ並んでいた。将来に対する不安を長々と綴っている。ミュージシャンにしては、あまりに堅い文章だった。
河本が弱音を吐くのは珍しかった。
音楽の才があるとは思えなかったが、それでも河本は泥臭く藻掻いていた。何でもそつなくこなしてきた河本のそんな姿を見て、私は素直にかっこいいと思えた。だから、弱音を吐いて欲しくなかった。

「寝ろよ」


と、私は河本に最大限のエールを送った後、渡部がいる203号室へと向かった。

~完~

※この物語はフィクションです


ご覧いただきありがとうございました。

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