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人の教訓真に受けるべからず

例えば「人付き合いの下地になるから飲み会は参加した方がいい」という教訓を人から聞いたとする。私は会社の上司と飲むのが苦手なのでにわかには受け入れがたいのだが、場合によって、あるいは人によってはこの教訓が響くことがあるだろう。

今回話したいのは、その中でも人によっての部分である。だがまずは場合によってのところをざっと触れておこう。

体育会系の会社なら飲み会は参加すべきだろう。飲みニケーションを重視していることが多いからだ。新迎会も参加すべきだろう。こういうのは最初だけは参加して過去参加したというアリバイを得たり、その会社の飲み会の雰囲気を知る機会になる。あとは集まるメンツによっては行ってもいいだろう。同期となら楽しいかもしれないし、同僚となら楽しいかもしれない。嫌ならいかなければいい。場合によりけりだ。

さて、これが私の抱いている飲み会の大体のイメージだ。次は本題の人によるのところにフォーカスしていこう。話しやすいように、私のような人間がどうすべきなのかを軸に想像してみる。

まず、私の場合は新迎会には必ず参加する。会社に入ってもなんだか同僚からの覚えが悪かったり、私自身も同僚の事を何も知らなかったりするからだ。私は影が薄いのか、積極的に自発的なコミュニケーションを取ろうとしないからなのか、どうもなかなか互いの距離が縮まらない。だから新迎会に参加して、ある程度距離感をつかんでおいたり、腹を割って話すことで仕事中の結束感を強めたりするのだ。

これが必要ない人もいるだろう。新迎会には行きたくなくて、かつ既に同僚との人間関係が出来上がっているなら、断ってもさほど渋い顔をされない。そういううまく立ち回れる人間なら、嫌な飲み会には参加しなくていいし、最初の飲み会にすら参加しなくても割を食わないだろう。私にはできない芸当だ。羨ましい。まあ、私の周りでそういう人間は見かけたことがないから、そんな器用な人間はいないということなのか、私のような人間の周りには同類が集まるのか。

あとは、大きなプロジェクトを完了させた後の飲み会とかは積極的に参加すると思う。そういう達成感は同僚と共有したいし、そうやって発散しないとプロジェクト遂行中の鬱憤が行き場を失って心の中で暴走してしまう。精神衛生的にも、私のやる気的にも、そんな飲み会は参加したい。

ここまで読んだあなたなら、私の場合は違うなとか、これは共感できるなとか、様々思うだろう。その様々な感想こそが、人の教訓真に受けるべからずの真髄なのだ。その教訓を喧伝した当人はそれに当てはまるかもしれないが、各々に当てはまるとは限らない。

だというのに、どうしてか人の教え、特に目上の者の教えは後生大事に守っていかなければと思い込む人が多い。日本はそういう教育をする国なので教育の賜物と言っても過言ではないのだが、それは成熟するにつれ捨てなければならない呪いだ。右も左もわからない幼いころなら確かに役立つが、分別がついた大人なら、守る教訓は自分で選ぶべきだろう。そうしなければ、自分が辛くなるだけだ。

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