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他人の金で食う飯はうまい

「他人の金で食う飯はうまいか?」
美味いに決まってるだろう、と私は思った。お前はこの年まで育つあいだ、親の金で飯を食らってきたのではないのか?それは他人の金で飯を食っていることに他ならないじゃないか。

え?親はノーカンだって?いやいや、親だって究極他人じゃないか。ヒモになって彼女に飯を食わしてもらってる情けない男も、パパ活をして年上のおじさんにフレンチを奢られる女も、親に養われる子供と同じだ。他人の金で飯を食らっているという点においては。

「自分で稼いだ金で食う飯のほうがうまいに決まっている」
それはそうかもしれないが、私が思うに、それは飯がうまいと思える程度の恵まれた仕事だからだ。定時に出勤してほどほどに忙しくて、定時帰りにアツアツのラーメンをすする。あー美味いなぁ!

そりゃうまかろう。だが日が変わる寸前まで残業をして、帰りに冷蔵庫に押し込んだスーパーののり弁を食らうのでは、それほどうまくは感じないだろう。それなら親に食べさせられたり、ヒモになって養われる方が気楽で飯もうまい。

結局は程度問題なのだ。自分が納得できて、いい感じにご褒美感のある飯、それが自分で稼いだ金で食う飯の正体だ。クタクタになって食う乾燥した飯ではない。それを勘違いすると、ありきたりな慣用句に騙されて人生を棒に振ることになるし、その洗脳からいつまでたっても醒められないのだ。

自分の人生の価値は自分で決めていかなければならない。たとえそれが人から笑われるような生き様でも。自分が納得しなければ、自分の人生を生きているとは言えない。

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