アイデンティティ、オリジナリティ、クリエイティビティの相関、みたいな話
オリジナリティ?
この時代にオリジナリティってなんでしょうね?
結論の一部先取りで言うと、オリジナリティ無用論みたいな話ではありません。
よく、冒頭で、偉人の名言や知見を「借りてくる」と僕は書きます。
敢えて言うのですが、人類の叡智、普遍性を用いているだけで、それは、パクリとは違いますよ?
自分も文系人間なので、自戒を込めて言うんです。
真っ当そうで邪悪な呪詛というのに騙されそうになる時があるんですね。
いや、呪詛ですから、悪いほうの言霊であって、日本人全般に効いちゃうもので、文理を分離しようはないのかもしれませんが。
創作や芸事に限らず仕事も含めて、何事もオリジナリティが大事だって言いますよね?僕にとっての呪詛とはこれです。
だけど、SFの大家で、映画化も多数、本来は科学者っていうアイザック・アシモフも援用している古い言葉に、巨人の肩に乗っただけだよという謙遜があります。
※ ヘッダー画像は、流行りの生成をしてみました。肩に乗ってみるか坊主?みたいな…(余談1)。ちなみにロックバンドのオアシスのアルバム名にもなっています(余談2)。
それは科学者なりの謙遜ですが、ほかの学問等にも開かれていると思うんです。
どういうことかというと、科学はラボで、再現性があって初めて客観性が担保されます。それがないものをオカルトというとします。
この二択で言えば、スタップ細胞はあったのかもしれないけど、世間的にはオカルトです。実証できなかったので。
その実験に使われている様々の原理原則、公理定理というもの(自然法則自体ではなく、それらの存在を立証した書物、記録や記載のこと)は、ポンと自然発生したものですか?というと、誰か先賢が書き留めておいたものですよね?いや、口伝もあるかもしれないけど。
知のアーカイブ化がされているから、後世の科学者はいきなり偉人と同じ地平に立てるわけですよ。
それをパクリというだろうか?
オリジナリティないって貶すでしょうかね。
むしろ有効活用した科学者には、新発見で理論を先に進めてくれてありがとう、とすら言います。
反対に、冒頭に書いたんですけど、呪詛に憑かれた着想(オリジナリティ幻想?)っていうのは、芸術にもコラージュとかコラボレーションで成り立つものが多数あるというのに、いきなり天啓のように頭上から降ってくるものだけがオリジナルだ、とでも言わんばかりの振る舞いで、他者を貶すことがあるんですよね。
先進国とか文明国を自称するならば、そのように貶すことはゆめゆめ為すべからずと、自戒すべきことなんじゃないのかなあと。
(もちろん、ホントのホントに丸ごとパクリで商売している人はありうるがここでは論外に置いています)
客観的に見える科学でさえ、先賢の肩に乗っかっている。
創発的でオリジナルに見えるアートでさえ、デッサンや模写で徹底的に真似てから守破離する。
どこに完全な独創性なんてありますか。
あるのは、既存の事物の認識し、咀嚼・消化して取り込んだうえで、昇華したアウトプットじゃないかと。
最初に訳した奴が悪いのかもしれないが。
独りって訳語、あてているし。
単独で創り出さないといけないみたいでしょ。
そんなものはない。
既存の事物と関わらざるを得ないのだから、もじって言えば、多創性とか、重創性とか、複創性とか言わざるを得ないのではないか。
そんな単語もないけど…。
その場においては、故人のものであれ、創作者のものであれ、アイデンティティが複数個掛け合わさって、一つのクリエイティビティを発揮しているわけですよね。
そういうことを、文芸でも話芸でも工芸でもいいが、芸事に触れる文系人間の間でさえ、共有できないくらいほどの格差と分断が進まないことを祈念するものです。記念じゃなくね…。
※ 上記までは、人間のみの議題設定。
昨今の創作上の問題は、人格で濾過していれば、科学や芸術になると仮定しても、人格がないのに、生成AIは作りだせてしまうってことですよね。
ネットの膨大なリソースを「学んだ」うえで。
「」で括ったのは、そこに昇華はあるんだろうかということなんですよ。問題意識として。彼らに人格はないわけで。
とにかくごった煮にして、組み合わせてはいるんだろうけど、一段階高める作業があるんだろうか。
漢字で敢えて書き分けると、それは創っているのか…不明だけど。
オリジナリティの最後の砦は、脳に宿る人格(アイデンティティ)だけかも。
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