ザ・バットマン:本来の芸術としてのバットマン
待ちに待った『ザ・バットマン』が公開されました!!
ロバート・パティンソンはもちろんのこと、リドラーを演じるポール・ダノの演技も強烈で重くのしかかる一作になりました。
ご覧になっていない方は、こちらを閉じてもらってぜひ劇場に足を運んでもらえらればと思います。
私はIMAXで観ましたが、音の振動が凄まじく、カーチェイスシーンには釘付けでした!
3時間と短い時間ではないので、後から家で観ようとしてもなかなか集中力も続かないと思うので、ぜひ劇場に行ってもらえればと思います。
ではこれからネタバレありで考察を書いていくので注意してください。
ヒーローの芸術という可能性
鑑賞後にこのような感想を書きました。
ネタバレしてはいけないので、飛躍した書き方をしましたが、この意味について語らせてください。
政治の対義語としての芸術
その前に、ここで使っている芸術的という言葉が何を指すかをはっきりさせておきます。
シェイクスピア作品の翻訳家であり論客として知られる福田恆存は「一匹と九十九匹と」(1947年)で次のようなことを主張しています。
政治には限界があり、100匹の羊のうち99匹までしか救うことができない。そして救えなかった1匹である、迷える子羊を救うのは文学である。
従って、政治を行う者はその限界を理解し、文学を行う者は迷える子羊を救えるようにするべきである。
これを拡大し、現代では文学だけでなく、映画や音楽を含めた芸術でも同様のことが言えると考えます。
政治で救えなかった人々を芸術によって救う。
このように芸術に救われた経験がある方も多いのではないのでしょうか。競争、恋愛、成功と挫折など、現代社会では私たちは99匹の羊と1匹の羊の両方の立場に、場合に準じてなるでしょう。
そして、競争や恋愛、成功と挫折などにおいては政治は無力であることが多いです。
だからこそ、芸術は誰にとっても大切なものであり続けるのです。
政治的の対義語としての芸術的とは、救われなかった、取りこぼされてしまった誰か一人を助けるような存在であるということができるでしょう。
求められるものと本来の姿
芸術は先ほど述べたように、救われなかった誰か一人を救うのが本来の姿と考えます。しかし、世間的に芸術に求められるのはそのような存在でしょうか。私の主観にはなってしまいますが、芸術は全ての人を救うことを求められてしまっているのではないでしょうか。
多くの人が嫌い・気に入らないと言われた作品は、その作品によって救われた人を無視して、悪口・悪評を言われる。
また、多くの人に好かれる作品が善とされ、「好き」と「救われる」の区別が曖昧になる。
このように芸術は求められるものと本来の姿に乖離が起きていると思うのです。
これはヒーローにも言えるのではないのか、と『ザ・バットマン』を観て思いました。
これまでのヒーローは全ての人を救うことが善とされてきました。もちろん、それが可能ならばそれ以上のことはないでしょう。
しかし、現実的ではないのでしょう。
それでも、私たちはヒーローは全ての人を救うものだと思っており、ヒーローの限界に気づけていないのではないのでしょうか。
そのヒーローの限界にぶち当たったのが今回のバットマンになります。
ヒーローとしての限界とリドラーのオリジン
バットマンとして2年目のブルース・ウェインはとにかく悪を根絶やしにしようと奮闘していました。
今回、敵になるのはリドラーと街の腐敗でした。
リドラーに辿り着こうとするほど街の腐敗という真実を知るようになり、何が敵なのかわからなくなったのです。
悪を根絶やしにしようとしてきたのに、一向に良くならない街の原因を突き止めた彼は自分の限界を知ります。
どんなに彼が奮闘しようとも悪は蔓延り、恐怖の正義で制御することはできないと。
リドラーのオリジンにも注目です。彼のオリジンは政治から見捨てられたことです。ウェイン家を中心に、全ての人々を救うとされていた再開発計画でしたが、その計画が裏切られたことを受けて彼は変貌し、リドラーとなりました。
このようなヒーローの限界とリドラーのオリジンを知った彼はどのような選択をしたのでしょうか。
芸術的なヒーローの確立
リドラーとの戦いが人々に多大な被害を与える段階まで来てしまったと感じたバットマンはリドラーの策略を止めることに専念します。
そして、リドラーとリドラーの崇拝者を倒した後に、芸術的なヒーローとして確立するのです。
戦いの後、彼はすぐに帰ることなく、瓦礫の中の人々を助けます。その描写では、暗闇の中で光を灯すことにより、バットマンと瓦礫の数人という閉鎖的な空間を作り出しています。これは彼が全てを救うのではなく、目の前の人を救うということの表れではないのでしょうか。
さらに、彼はヘリで怪我人を運ぶ際にも献身的に協力をしています。担架に乗っているただ一人と向き合っているのです。
リドラーは救われなかった一人です。そのような彼をみたバットマンは自らの限界を理解するとともに、自らを芸術として、救われなかった一人を救おうと決心したのではないのでしょうか。
(追記:冒頭の駅での集団暴行のシーンを見てみると、暴行していた若者たちを撃退した後、襲われた男性の方を見ましたが、特に何かをするわけでもなく、むしろ恐怖を与えてしまっていました。リドラー事件前のバットマンは誰かを救うことが目的なのではなく、悪を倒すことが目的だったことが表れているシーンなのでしょう。)
このようなヒーローは今まで見たことがありません。自分の限界と本来のあるべき姿を理解し、それを目指していこうとするバットマンの姿は新鮮でありながらも、暗いゴッサムシティに希望を与えてくれるような存在ではないのでしょうか。完璧でなく、脆さがあるけれども、私を救ってくれた存在として誰かに希望を与える。
芸術的なヒーローとしてのオリジンが今作品で描かれたのです。
以上になります。ここまで読んでくださりありがとうございました。
『ザ・バットマン』ではバットマンの無力さと街の腐敗が極限までダークに描かれ、それを知ってしまった彼がどのような道を進んでいくのかを私たちも地道に体感していくのが今作品だと思っています。
バットマン誕生は描かれていませんが、新たなヒーローとしてのバットマン誕生が鮮烈に描かれているのでしょう。
まだ捉えきれていない部分もたくさんあるので『ザ・バットマン』の考察を続けていきたいと思いますが、続編をもうすでに楽しみにしている自分もいるので、考察しながら気長に待ちたいと思います!
というのはリドラーは退場する気配が全くないですし、ジョーカーと思われる囚人も出てきているのでゴッサムシティは絶望です・・・
楽しみというか、恐怖です・・・
今作もおそらく次作も一種の鬱映画にもなりかねないと思われますので、すぐれない時は一度忘れてもらって自分自身のメンタルヘルスに気を遣ってもらえればと思います。