ドア(文学的スケッチ)
「ドアの夢をよく見る」とアヤカは言った。
「ドアが浮かんでいる空間に、私はいる。そこには、ドアと私以外には何も無い。何も無いっていうのも——表現は難しいけれど——全く無い。そこには何も無いし、何も無いということを意識することすらもできない。夢から覚めた後に思い返すと、そういえば何も無かったなって気づくだけ。ドアと私以外の何かが存在しうるという、潜在的な可能性すら、全く無い」
「全く無い」と僕は繰り返した。「無いことを認識できないほど、無い」
アヤカは「そう」と言った。
「まぁ、そんな風に、私とドア以外には何も生じ得ないような空間に浮かんでいる夢をよく見る。そのドアは、重厚な木でできている。表面は亀の甲羅みたいにゴツゴツとしている。とにかく、すごく重たそうなドアなのよ。重たげで、分厚いドア。高級料理店のステーキみたいにね。
ちょうど、顔の高さに、モザイク模様のステンド・グラスがはめ込まれている。向こう側は見えない。美しいけれど、歪んだグラスなの。私は佇んであちら側を覗いている。他にすることもないしね。
そうするうちに、向こう側で影がチラつく。はっきりとは見えないけれど、そこに何かがいることは分かるのね。それから、向こう側にいる誰かがドアをノックし始める。特徴的なリズムよ。まるで三点バーストの自動小銃みたいに『ドドドン、ドドドン』って。その音はどんどん大きくなっていって、なんというか、切羽詰まってくる。『大変な魔物か何かに追いかけられていて、命からがら逃げているのです』って訴えかけてくるような、尋常ではない感じにね。
私はドアを開けようかどうか迷う。ドアの外にいる誰かを迎え入れてあげなきゃって思う。そこにいるのは、たぶん、そんなに悪い人じゃないんだ。ただ、切羽詰まって焦っているだけ。そういうのがね、歪んだステンド・グラスを通じて伝わってくる。それでも私は躊躇する。だって、外には善良な誰かを追いかけまわす邪悪な何かもいるってことでしょう?
そうするうちに、ノックの音は、どんどん切羽詰まって、大きくなってくる。『ドドドン、ドドドン』ってリズムのままね。その時、ふと、私は、ドアの外にいるのが私自身だって気づく。こんなふうにドアを叩くのは私くらいだし、そうでなくても、ステンド・グラスの向こうの歪んだ人影は、私だと思ってみれば、確実に私なの。それで、立ち尽くしたまま茫然とする。ドアを開けるわけにはいかないけれど、その音から逃れるわけにもいかない。繰り返すけど、その空間には私とドアしか存在し得ない。そうするうちにノックの音がぱったりと止む。
私は恐る恐るステンド・グラスに顔を近づけていく。やっぱり、向こう側には私がいるのね。その人はどういうわけかノックをぱったりとやめてしまっている。
私は、その人に何かメッセージでも送るつもりで軽くノックしてみる。トトトンってね。そのドアは、触れてみれば想像よりも遥かに固くて、荒れている。ささくれが手の甲をちくりと刺して、そこから血が出る。その瞬間、ドアの内側と外側が、そっくり綺麗に入れ替わる。入れ替わるっていうのはふさわしい表現じゃないかも。急に、私は、自分が外側にいるんだってことに気がつくの。そして、背後に何かが迫っていると直観する。それで、ドアを強くノックする。何度も、何度も、何度も。拳は血だらけになる。それでも、向こうにいる私は決してドアを開かない。おそらくは、私がさっきドアを開かなかったのと同じ理由でね」
僕は毛布から頭を出してアヤカの方を見た。アヤカはドリッパーからペーパーフィルターを指先で慎重に剥がし、シンクに捨てると僕の方をちらりと見て「ふん」と笑った。それから蛇口を捻って水を流し、指先を冷まし、湯気の立つマグカップを二つ手にしてリビングに持って来た。
「そんな風に横になっていると、いつの間にか眠ってしまって、朝の点呼を逃しちゃったりして」とアヤカは言った。
「そしたら、そのまま寮出してここに住みたい」と僕は言った。
「いいけど」とアヤカは言った。それから顔を上げて天井を睨んだ。
「いいんだけれど、そのためには置き物にでもなってもらわなきゃね」
僕はベッドから這い出して彼女の黒い髪に顔を埋め、薄い耳たぶにそっと歯を立てた。
そのまま僕らはぽつり、ぽつりと話しながらコーヒーを飲み、合間にペッティングをし、静かにセックスをし、眠ってしまわないように気をつけながら身を寄せ合った。まるで冬山の遭難者みたいだと思った。「おい、起きろ。起きるんだ。眠ったら死ぬぞ」
それはそれで素敵なのかもしれない、と僕は思った。
「あと数ヶ月で僕は大学生になると思うんだ。そうしたら、もっと普通に付き合えるかな?」
「無理に決まってるでしょ」とアヤカは言った。
「どうして?」
アヤカは僕の胸に埋めていた顔を上げた。
「どうして?あなた、だって、東京に行くのよ」
「どうして東京に行ったら付き合えないんだろう?」
「東京でいろんな人に出会うから。私よりもずっとまともで、おまけにかわいい女の子とも知り合う。そしたらもう、私なんかと付き合っている自分がバカらしく思える」
「そんなことないと思うけれど」
「そうかしら」
「そうだよ。君は特別なんだ」
「私が特別だなんて、どうして分かるの?ユウイチは男子校の男子寮に閉じ込められていて、私以外の女の子なんてろくに知らないじゃない」
僕は反論らしい反論を思い付けなかった。
「それに、私たち、遠距離恋愛なんてできるタチじゃないでしょう?」
「それも試さないと分からないんじゃないかな」
「少なくとも私は過去に経験済みってわけ」
「じゃあ東京には行かない」
「バカなの?地元に残ったところで、元先生と生徒みたいな関係の私たちが堂々と付き合えるわけないじゃない。今まで通り内緒の関係が続くだけ。それにね、ユウイチは東大に行かなきゃいけないの。そうでもしなきゃ、親や学校の先生たちがとち狂っちゃうでしょう?」
「じゃあ、どうすればいいんだろう?」
「どうにもできない」
アヤカはそう言って僕を抱きしめた。僕は彼女の冷え切った足先をふくらはぎで温めながら、「なんとかならないかな」と呟いた。「なんともならない」とアヤカは言った。
そのまま僕らは取り留めもない話をした。僕は寮で最近起こった事件について話した。夢チケが使えなくなってしまったことや、そのついでにゴローの自転車が紛失したこと。給湯室が施錠されてしまったこと。
アヤカは塾のことや大学のことについて話した。校舎長のナルシストっぷりを笑い、人体を構成する骨の数があまりにも多すぎることに対して真剣に腹を立てた。
ふと、時計に目をやると六時前になっていた。僕は「そろそろ帰らなきゃ」と言った。「楽しい楽しい朝点呼が待っているんだ」
「その点呼って、どんな風にするの?」
「寮の廊下にインポが現れて『整列!』と号令をかける。部屋の前に寮生が『気をつけ』の姿勢で並ぶ。『おはようございます』とインポが言う。寮生も同じことを言う。それから、インポは順番に寮生の名前を呼ぶ。寮生は皆、『はい』という無個性な返事をする」
本当に刑務所そっくりなのね、とアヤカは呟いた。
「ねぇ、インポって、どうして『インポ』って呼ばれるようになったの?誰かが、その……ふさわしい状況で観察してみたの?それとも自己申告?あるいは神様の掲示?」
「そのことは次に会った時に話すよ。話せば長くなる。天地創造と同じくらい、古くて壮大で、複雑な話があるんだ。そこには対立する仮説もあるし、受け入れがたい真実だってある」
「ダース・ベイダーがルーク・スカイウォーカーの父であるように」
「そうだね。とにかく話せば長くなる。もう行かなきゃ」
そう言って僕はベッドからするりと抜け出し、服を身につけた。十二月の朝の六時はとても寒かった。全身の立毛筋が一斉に硬直し、鳥肌を立てるのだが、そのわずかな隙間から寒気が染み入ってきた。それは、なぜか霧雨を連想させた。山奥の村に音もなく降り注いでいる。屋根や板戸の隙間から内部に滲み入り、だれにも気付かれぬまま全てをぐっしょりと濡らす。
アヤカは僕を背後から抱きしめ、「好き」と言った。彼女がここまでストレートに気持ちを表現するのは珍しいことだった。もしかしたら冬のつとめての寒気が、彼女をしてそう言わせたのかもしれない。「僕はそうでもないかな」と言った。アヤカは僕のズボンのポケットにお札を押し込んだ。
その時、僕は違和感を覚えた。いつもより分厚い。僕はアヤカの手首を掴み、そこから引っ張り抜いた。
その手には5枚の一万円札が握られていた。
「こんなにいらないよ」と僕は言った。
「いいの。先週、たまたま気前のいい客に会ったのね。二十万もポンってくれたんだ。誕生日プレゼントだと思って、受け取ってよ。ユウイチの寮、禁止物が多過ぎて何をプレゼントしていいのか正直、分からない」
「受け取りたくない」と僕は言った。
「僕はね、君ともっとまともな関係になりたいんだよ。それが無理でも、せめてそうした方向を目指して努力していきたいんだ」
アヤカは僕を背後から抱いたまま固まっていた。僕は再び口を開いた。
「君と僕との間には、色々な面倒事が挟まり過ぎている。同じ塾の先生と生徒だとか、金銭の授受だとか、厳しい寮則とか、周囲からの期待とか、将来の方向性とか、そういう、くだらないゴタゴタがね。それらを少しずつでいいから、解きほぐしていきたいんだよ」
「難しく考えないで」とアヤカは言った。十二月の早朝に負けないほど冷たい声だった。
「お金を受け取ってもらえると、私はすごおく楽になるの」
「僕は苦しくなる」
「でも、そういった苦しみに、ユウイチは私よりも上手に対処できる」
「そうかもしれないけれど、これ以上は嫌だ。ねぇ、アヤカ。君はもっと、まともであるべきなんだ。人には二面性がある。それは僕にもよく分かる。大抵の人間は善と悪が入り混じった存在だし、光と闇がシーソー遊びをしている状態にある。僕だってそうだし、君だってそうだろう。でもね、君は、ちょっとばかし、バランスを欠いていると思うんだ」
「随分と流暢に言葉が出るのね。もしかして普段からそういうことを考えていた?」
僕は少し迷ってから「そうだよ」と認めた。「考えないわけにはいかなかったんだ」
「私について、他にも何か我慢ならないところがある?例えば『私がお金をもらってどこかの男とセックスをしている』とか」
「もちろん、少しばかりそのことで胸を痛めている。でも、我慢できないほどではない。あのさ、僕は、君を、好きになった。僕がそのように言う時、それは、本当に好きになったという意味なんだ。そうなったからには、君を理解し、受け入れないといけないということも分かる。君を、自分好みにカスタムするわけにはいかない。分かってる。
それでも、僕が一つだけなんとかして欲しいと思うのは、君が、素の君自身を、徹底的に無価値だと確信しているところなんだ。そこからいろいろな面倒ごとが持ち上がっていると僕は思うし、これから先、何か、致命的な物事を引き起こしてしまいそうな気がする」
「私は根本的に無価値な人間よ。知らなかったの?それとも、『そんなことはない』って、安っぽいメロドラマかなにかみたいに否定してくれるってわけ?」
「君が無価値なら、僕だって無価値だ。少なくともそこには、金銭の授受による埋め合わせなんて必要ない」
「本当は、そう思っていない。でしょう?」
「とりあえず、今回は受け取らない」
僕はそう言って振り返り、アヤカの手を押し戻した。先ほどまでアヤカが温めてくれていた背中が、突然冷たくなった。
「ユウイチも案外、ナイーブなのね。どうしてもっとこう、強か(したたか)に考えることができないの?いいじゃない。これは、ただの、紙切れ。受け取ってくれたら私は楽になる。ユウイチはこの紙切れで新しい自転車でも買って、古い自転車を友達に譲ったらいいじゃん」
「それは、ただの紙切れなんかじゃない。いろいろな意味が込められている。もし、君がそれをただの紙切れだと本当に思っているなら、どうしてそんなに熱心に僕に渡そうとするんだろう?」
「いいから受け取ってよ」とアヤカは言った。
「これを拒絶するということは、私のあり方そのものを拒絶するということ」
「受け取らない」と僕は言ってドアノブに手をかけた。アヤカは「そう」と短く言った。
僕は彼女の方を振り返った。僕の目頭は少しばかり熱くなっていたのだが、アヤカはそうでもないようだった。その目は、これまで見たこともないほど平板で、無感動だった。そこには涙の予感などかけらもない。その一対の円盤は「私の方がこういう種類の重荷については背負い慣れていますからね」と無言で語りかけていた。僕は冷え切ったドアノブをひねり、外に出た。背後から「カタン、カチッ」とドアの閉まる音が聞こえた。