どんな話してる?キリスト教会:妊娠中絶の話だけど…大丈夫?
もう、7年以上も前のことになる。その時に生まれた子どもは就学している年齢かな。2015年9月、アメリカ、テネシー州で妊娠24週目を迎えた女性が、自らハンガーの金具を利用して妊娠の中止を試みた。彼女は途中でこの「セルフケア」をストップせざるを得なくなるほど状態が悪くなり、病院で帝王切開術による24週目での出産をさせられた。生まれた子どもは里親のもとで成長しているらしい。彼女は妊娠を継続することができなく、人工中絶を望んでいた。彼女の住んでいる地域ではそれが許されず、ハンガーを用いて流産しようとした。
それ以後、女性の身体はその女性自身のものであることを主張する象徴としてハンガーが掲げられるようになった。「ロウ対ウェイド裁判」の判決(女性が妊娠の継続、中絶の選択をすることは合憲である)は、昨年6月にアメリカ連邦最高裁判所で覆された。女性の妊娠中絶は「神から与えられた命を蔑ろにする罪」として、妊娠中絶に反対してきた一大勢力が、保守的でかつ正統を標榜するキリスト教教派団体だ。
妊娠の中断は女のワガママと思いますか?
妊娠中絶は「障害者」への差別であり、「優生思想」に基づくものという意見は無視できない。一方で女性の身体へのケアと障害者の生存権が並置されて議論されることはトリックがあるのではないかと思う。
胎児が「障害」を持って出生することが予測されるために妊娠中絶を希望する女性がいるとしたら、それはなぜか?「障害」を持って生きる子の養育、生活を援助していくことが、著しく困難にされていることも一因なのに。まるで女性が差別的で、殺人者として論われてしまう構造になっている。
「障害」を有する子の出産が予想されたとき、何ら妊婦にとって妊娠継続の不安、負担にならない仕組みがあればこれは全く違うテーマの話のはず。女性が出産を希望しても、逆にそれを憂慮し、出産を中断するように促す力すら働くことがある。妊婦がその力に対抗することまで要求されるとしたら、中絶の自由のみならず、出産の自由も奪われてしまう。
「女性はいかなる事情があったにせよ、妊娠継続に従事し、出産に臨むのが望ましい」という考えには、明らかに女性の身体への自己ケアを否定する外圧があると思う。妊婦になった(ならされた)途端に、女性の身体が管理対象にされていたことがはっきりと見えてくる。さらには、女が妊娠しない選択ができないような言説がそこらじゅうに転がっている。
産め産め会話はキリスト教会の中に、掃いて捨てるほどある。「年頃」の女を巡って「こどもを持った方がいい」「その経験がないとわからないことがある」…数えきれないほどの鬱陶しい武勇伝が、弓矢のように飛び続ける女性サークル。
妊娠、出産はその当事者の自由だというのはわがままだと心底思われているようだ。
つまり自分たちもわがまま言わずに忍耐してきたんだから〜あなたも忍耐するとその見返りがある〜これは忍耐の言葉づかいの大間違いではないか。忍耐するなら、あなたが言いたいその言葉を待つ後ろに下げて、「私とあなたの考え方は違うんだ」に戻ってからにしてください、と思ってしまう。忍耐というのは忍耐する価値があることを自らが選択してやることであって、強いられるものではない。
保守的、かつ正統派だと自認する根本主義的なキリスト教教派団体がなぜ妊娠中絶に反対するのか〜マジで、子どもは神から与えられたたからものだから「殺してはならない」と考えられているのではない。
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