進化心理学の誤解を解く -または、現象から接続されていない規範について-
初めに 本稿のめざすところ
現在、大衆に膾炙しつつある進化心理学だが、非常に危うい解釈のみが広く浸透しつつあるように思う。というのは、進化心理学が社会科学や倫理、道徳に与える影響は本来ambivalentであるにも関わらず、ネット上などではそのダークな側面(所謂、暗黒啓蒙)のみが受容されているということだ。これは、社会に対する危険な兆候であると共に、進化心理学という学問が誤解される要因にもなりえる。
この文章は、その誤解を解く。または、少なくとも私は進化心理学に文字通りのenlightenment、光の啓蒙を導く力があると信じているため、このnoteではそれを主張したい。
1. なぜ進化心理学は誤解されるのか
まず、進化心理学が誤解される理由を考えてみたい。様々な要因が挙げられるかもしれないが、私は「仮説と規範との混同」にあると考えている。
進化心理学は動物としての人間を鮮やかに描き、その現象と裏側にある遺伝子の戦略が単なる一つの科学的仮説を超え人々に大きな物語性を感じさせる。この、新たな神話とも呼べてしまうような物語性が進化心理学の仮説を人々に規範と混同させる。古来から、神話は単なる物語ではなく常に人々に規範や道徳を指し示すものであったので新たな神話としての進化心理学が人々に規範や道徳観を感じさせてしまうことは当然なのかもしれない。
こうして進化心理学の仮説、理論を規範論と混同し暗黒のフォースを受信した人々がネット上での暗黒啓蒙のムーブメントに一役買っているのである。(この現象は近年マルクスガブリエルが指摘する特権を与えられた自然科学におけるテクノクラシー問題とも通じる)
現代のスペンサー社会学とも言えるこのムーブメントは非常に危険であり同時に進化心理学に対する大きな誤解を産んでいる。その大きな誤解というのが冒頭にも述べたとおり、進化心理学には本来その暗黒の側面だけではなく文字通り人々をenlightenmentする側面があるにも関わらず、そちらの方が受容されていない、ということだ。では、進化心理学の光の側面とは何なのか、これについて論じる前に規範論について少し考えてみたい。
2.規範論について
先にも書いたが、進化心理学の両義性について論じる前に規範論について少し整理してみたい。また、あくまでこれは規範とは何かという問いに対しての一つのアプローチでしかないということはご留意いただきたい。
本来、社会科学や道徳・倫理が描く規範は現実をどうあるべきか規定するものであって実際の現象から独立していてなんの問題もない。にも関わらず進化心理学(等)が規範と混同されてしまうのは、道徳などの規範がアプリオリな存在であるという誤解のせいであるように思う。
ある種の超経験的な「物自体」としての道徳のような存在を仮定するからこそ、現象や理論から帰納法的に規範を導こうとしてしまう。この規範の概念についての誤解が進化心理学には、先述した強い物語性により強く現れるということである。規範は現象としての社会から接続されておらずアプリオリに存在もしていない。我々は規範を発見するのではなく、構築しなくてはならないのである。
このような規範についての立場はヒュームの法則に依拠しているといえばわかりやすいかもしれない。「~である」と「~べきである」という状態は全く違う状態を形容しているので、ある意味では当然の話である。また、より今回の規範の議論について接近させた形で表現するならば、事実から価値判断は導くことが出来ない、より正確に言えば、事実の総体の中から規範の基となる価値判断は独立している、というところであろうか。
一つの規範が存在する時、その規範を形作る価値判断が存在しなくてはならない。その規範を貫くものがヒューマニズムなのか、無知のヴェールのような仮定なのか、それは様々にあってしかるべきだが、少なくとも現実から帰納法的に導かれるものは現状の構造であって、あるべき規範やその基となる価値判断ではない、というのが私の立場だ。
本題から大きくはずれてしまうのでこれ以上紙幅を割くことはしないが、この問題は進化心理学に限らず様々なフィールドに存在する。上で少し触れたテクノクラシーの問題や倫理学、特にメタ倫理学の分野では自然主義的誤謬やロールズの正と善についての考察など挙げれば際限がない。このような規範についての考察はスペンサー社会学や功利主義、新自由主義など私たちの生活に身近なテーマとも関連するので改めてまた別に文章を書いてみたい。
3.進化心理学は最強の分析ツールである、そしてそれは光を導く
余談はこの程度にしておき話を本筋に戻す。先ほどまでも述べたように、進化心理学は本来ambivalentな存在であり暗黒の啓蒙をもたらすようなダークな側面だけではなく人類に希望をもたらす光としての側面も持つのだ。
では、それは一体どのようなものか、端的に表すなら「進化心理学は現実の社会を知る上で最強の分析ツールである」といった具合である。
上で長々と書いたように社会のあるべき姿である規範や、それを導く価値判断としての道徳・倫理そのものは、現実の社会、その現象やその構造、理論からは別個のものであるが、適切な価値判断を行う為には現実を正しく把握する事も重要である。また、その規範を現実に落とし込むためには現状の把握というのは必要不可欠である。そのための手法、つまり、現実の社会を知るためのツールとして進化心理学は、今最も重要な学問の一つだと私は考えている。
人間を自己複製子の繁栄のための遺伝子ヴィークルと仮定するようなアプローチは進化心理学に非常に特異なものであり同時に大きな論理的一貫性と説得力を持つ。社会が人間の総体としての側面を持つ以上、人間の行動をその背景から分析する進化心理学の視点が非常に重要なのは明らかである。
つまり、私の言いたいことをまとめるとこうなる。社会のあるべき姿やその実現の為には、現実の社会を分析する必要があり、そのためのツールとして進化心理学は非常に優れているということ。もっと言えば、進化心理学の知見なしには現在の複雑な社会を分析することなど出来ない、とも私は考えている。これこそが、私の考える進化心理学の光の側面である。
終わりに 当たり前のようだが…
ここで書かれていることは、人によっては当然のことで、今更改めて文章にするほどのことか?と感じた人も多いように思う。しかし、現実にTwitter上で、進化心理学は様々な界隈から眉唾ものの疑似科学扱いを受け、場合によっては陰謀論扱いやracism扱いされることも少なくない。進化心理学を規範と混同し暗黒啓蒙のムーブメントにのる現代のスペンサーのような人も多い。
この現状に対して、進化心理学の学問的価値と、その社会にもたらす光のフォースを少しでも知ってもらいたいと思いこの文章を書いた。また、ネット上の数少ない良識ある進化心理学啓蒙者達はもう少しだけ、その光の側面にも言及すべきではないだろうかという提言でもある。また、最後に一応言及しておくが私は進化心理学や規範論の専門家ではないため間違いがあれば謹んでお詫びさせて頂く(これは反応が欲しいの意)。
最後に、進化心理学の光の側面を表す一節を偉大なる Clinton Richard Dawkins から引用して終える。
私たちには、私たちを生み出した利己的遺伝子に反抗し、さらにもし必要なら私たちを教化した利己的ミームにも反抗する力がある。純粋で、私欲のない利他主義は、自然界には安住の地のない、そして世界の全史を通じてかつて存在したためしのないものだ。しかし私たちは、それを計画的に育成し、教育する方法を論じることさえできる。私たちは遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきた。しかし私たちには、これらの創造者に刃向かう力がある。この地上で、唯一私たちだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのだ。