【エッセー】「自分で選んだんだろ、なんとかしろ」が、なぜ続いているのか?
どうも、クロモジです
やっと、2月らしい寒さになってきましたね
寒すぎて、考えだけが捗り、作業はあまり進みません…笑
加えて、「考え」とは言っても、明るいものではなかったりします
今回は、個人に過剰に責任を押しつける社会のあり方について考えたことを書き連ねたいと思います
自己責任論で解決するのやめませんか?
これは、友人から聞いた話なのですが
「こないだ、久々に会った友達に『ハブられてもしょうがないくらい自信なさげだったよね』って言われたんだよね。なんかモヤモヤしたんだよね。」
いや、ダメなもんはダメだろ…
…とは言いつつ、いじめてる側、周囲の人間はこうも言うだろうと思います「なんとなく」「そんなだから狙われるんだよ」
「あなたにも原因があるんじゃないの?」
SとMという言葉があるように、いじる/いじられる側があるのはしゃーない
でも、学校生活が辛くなるくらいやるのって違うし
全部、いじめられる側の責任にするのはやめてって話で
こういう話聞くと、子ども時代から植え付けられてるんだろうなと思います
「うまくいかなければ全て本人の責任だ」ってことを
努力すれば全てなんとかなるってウソですよね?
次は私が昔に体験したこと
小学生の時、ホームレスのおっちゃんを見かけることがありました
学校の先生も、親も言うことは同じ
「近づいちゃダメ」
多少の疑問は持ちつつ、そこは良い子だった私
「道端で寝てるおっちゃん達に近づいたらいけないんだ」
時は経ち、大人になった私は『BIG ISSUE』や書籍で「ホームレス」という単語を知ります
そして、努力不足でホームレスになったのではないことも
「将来のために頑張れ!あんな風になるな!」
私は順調に、教育機関とメディアによって、洗脳されていたんです
でも、経験や様々な人との出会い、書籍によって、なんとなく気づいていきました
生まれ落ちる環境を選べず、貧富の差が学力につながる傾向があり
経済状況によって雇用状態・賃金はいとも簡単に変わり
そもそも、努力が全て報われることはないということを
なのに、どうしてなんだろう
「努力すればなんとかなる」「もっと頑張れ」
「努力しなかったお前が悪い」
誰のためにもならない考えをまき散らしている
皆、自分/他人にウソをついて傷つきまくってるのに
自己責任論やめてつながりなおしてポカポカしようよ
最近、居場所づくり、福祉関係の活動団体、場づくりの技術関係の情報を漁っていて
「無関心とかつながりのなさが、人を追い詰めていくのかな」
って思うようになって
なら、「自分は関係ないから」って思わなくていい関係性ができればいいじゃんって
そしたら、『認定NPO法人ほうぼくチャンネル』というポッドキャストで、
「家族=一緒にご飯を食べたい存在なのでは?」という話があって
「血のつながりがなくても、食卓を共にした人がいれば心があったまるかもな」
と思ったんです
「食べる」という行為は、「生きること」につながる
それを共にできるということは、一緒に生きていきたい/生きていける存在がいるということ
つまり関心を持ちあえる、つながりのある存在がいるということ
心がポカポカしませんか?
ポカポカできるつながりがあれば、お互い「助けたい」って思い合えるかもしれない
「今日はご飯の時間にいないな/食欲がないな?どうしたんだろう?」
こんな風に、気にかけあえるかもしれない
「うまくいってないのは、お前がやってこなかったからだ」
そんな冷たい言葉を掛けあうのやめませんか?
そんなお話でした
では、また