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生きづらさの犯人は生産性?
以下は、作業が捗らなかった時の私の思考である
思うようにまとまらない。
書けない。
目的とするものまで辿り着けなかった自分に嫌気がさす。
タスク管理の下手さも関係しているが、背景には「生産性がない自分=価値がない」という思考がある気がする
もちろん、便利さを求めたからインターネットも時短家電も発達したし、私もその恩恵を受けているので否定するつもりはない
けれども、本当に生産性が善なのかということには疑問を抱かざるを得ない
社会問題って生産性が生み出してるんじゃないか?
例えば、社会不適合者とされる人々が、世間的には問題にされている
不登校児やひきこもり、ニートなど
だが、これは今に始まったことではなく、「働かざる者食うべからず」という言葉がある通り、脈々と続いてきた社会通俗みたいなものだ
それが、具体的に政策や事業をやったりして、より見えやすくなっただけのことだし、社会に適応してくれなくてやきもきしてるだけだと思う
例えば、私が研究対象にしている「こどもの居場所」については2016年に教育機会均等法が公布された
「個々に応じた教育」みたいな良いことを言いつつ、学校が嫌でフリースクールやフリースペースに来てるのに、単位認定など学校的な空気を持ち込もうとしている時点で矛盾している気がする
(2023年末に「こどもの居場所づくりに関する指針」みたいなものが発表されたのでそれに期待しているけれど…)
「社会に適応してほしい」という下心が見え隠れしている気がしてならない
競争や効率とか生産性を追い求める社会じゃなければ、自分のことに必死になって他人に構う余裕がない状態に陥ることもないし、社会や環境問題、政治について考える余裕を持って生きやすい社会になっていたんじゃないか?
余暇からも人間は学び・気づきを得る
最近だと、「職業訓練」や「リスキリング」など、空白の時間を有効に活用しようという動きも見られる
もはや、生産性に侵されているとしか言えない
でも、空白の時間や遊びは無駄なものなのだろうか?
例えば、私は高校卒業してから1年間無職だったが、読書を通じて色んなことを知ることができた上に、大学に入学後もその知的好奇心は生きた
子ども向けに行われる「プレイパーク」では、子どもが自分で責任を持って普段ならできない火遊びなどをする
子どもに限らず、最近だと「プレイフルラーニング」という考え方もあり、遊びから気づきや学びを得るということが言われている
つまり、生産性なんて求めなくても人は勝手に学ぶし、何か生み出す
それに、誰かが生み出した作品、楽しんでいる人の姿自体が誰かを勇気づけることだってある
そもそも生産性って何?
ここまで考えてみて、社会の言う生産性って労働・お金を生み出すことなんじゃないかと思った
当然、そこからはみ出す遊びやアーティスティックな活動は切り捨てられる
子どもや高齢者、マイノリティ、働かない人たちも軽んじられる
本当に、生産性ってそういう定義でいいのだろうか?
だって、日本より休暇が多いはずなのに何かを生み出す国があるのである
それに、私の経験上、子どもは大人より豊かな発想力を持っているし(プレイパークでは大人が思いつかない遊びを思いつく)、おばあちゃん・おじいちゃんは安心できる相談相手だし、例外はあれど子どものよき遊び相手だ
なので、最低でも「生活を豊かにすること」と変えた方がいいと思う
おわりに:生産性・効率が全てではない
以上の考えを踏まえて、冒頭の思考をもう一度見てみる
思うようにまとまらない。
書けない。
目的とするものまで辿り着けなかった自分に嫌気がさす。
この日、私は作業が進まなかった自分を責めていた
「やっぱり、自分はダメな奴なのかもしれない」と
しかし、ギョーザを作りすぎてお向かいさんにあげる、友人に言葉を送る、ゆっくりと食事を味わうなど、誰かや自分の心を満たすこともしてきた
これは、「生活を豊かにすること」ではないだろうか?
「生産性だけが、速いだけが人間の価値ではない」
そうやって、自分や誰かを励ましながら、生きづらさを軽減していきたい