令和6年石川県能登半島地震のボランティアに参加して
本記事は、能登半島地震ボランティア参加記録です
ボランティア時の注意事項により、現地の写真はありません
しかし、人々の関心が薄れていく中、覚えていて欲しくて文章にしました
※以降、震災による記憶がフラッシュバックしてしまう方は、読むのを控えていただければと思います
たまたま空いたスケジュールとボランティア枠
能登半島地震の後、ボランティア募集への申込を続けていたが、なかなか申し込めない日が続いていた
石川県ボランティアセンターには登録していたので、ボランティア募集情報は届いていたものの、卒業研究や就活でスケジュール帳はほとんど埋まっていた
そんな中、奇跡的にスケジュール帳にまっさらな日が3日連続あるのを発見し、その日程でボランディアに参加できることがわかった
「これはもう行くしかない」
そう確信した
ボランティアで行ったこと
珠洲市の災害ボランティアセンターには、金沢駅からバスで2時間半かかる
家からの時間も合わせると、ゆうに5時間は超える
慣れない土地と初ボランティアで緊張していた
それでも、家屋の片付けなどが割り振られ作業し始めると、徐々に要領がつかめてきた
ボランティアは、依頼があった家・建物にチームで向かう形式だった
全員初対面だったので、気づけば出身地やボランティア歴などの話になった
「月に2連休が1回なんやけど、東北の時とかは毎月のように行っとったね」
「今回が初めてで」
「九州は毎月のように水害があるから、ボランティア行って」
フタを開けてみると、経験者ばかりだったので、初めてのボランティアでも安心して活動ができた
ボランティアで現地に行かないとわからない
ベテランの中でも、消防団の服を着たお兄さんの話はひときわ興味深かった
「東日本の時は一帯が水に浸かったから、一括でがれきの撤去とかが進んだ。けど、今回の能登地震は地区によって被害は違うし、そもそも輪島の方はボランティアが請け負えるレベルじゃないから…。」
「能登のボランティアセンターも人手不足で1年も開設してないと思う。今でも、京都、名古屋、高知、全国から応援きてもらってやってるから。」
防災士の資格を趣味程度で取り、ボランティアにも比較的軽い気持ちで参加した心持ちの人間には知りえない情報だった
現地に行った人間ですら(?)こんな状況なので、たぶん現地に行かない人間は知ることもないんじゃないかと思った
特に、被災された方の気持ちはテレビからは全くわからないなと、片付けをしながら感じていた
特に、一軒目の片付けに伺った際のこと
「どこまでのものを片付けて・処分してほしいですか?」
グループの班長さんが尋ねると
「ここにあるものは全て捨ててください」
「次に入る方がいるので、カーテンレールなども撤去してください」
中には賞状など思い出の品もあった
それを全て捨てるって…本当にいいのか…?
私だけでなく、他のボランティアの方も驚いていた
依頼した方はどんなことを思っているのだろう…
心情を推し量ることしかできないが、とても心が痛かった
ボランティアの心持ち
金沢駅に戻ってきて宿に帰る道中、後ろから見覚えのある人が歩いてきたので声をかける
「ボランティアの人ですか?」「うん、そう」
「いや~お疲れさまでした。いつ帰るんですか?」
「今日、夜行で帰るわ。その前に飲んでいこうかな。」
「そうなんですね…。どうしようかな。(飲みに行こうかな)」
「よかったら一緒に行く?」
ということで、ご一緒することになった
東日本大震災で被災し、同じく大地震を経験した自分にできることはないかと石川まで飛んできたという
半壊、全壊の認定基準が東日本大震災から厳しくなっていることなど
当時のことも交えながらお話してくれた
震災を経験したことがない私には見えないものが見えていた
「今、やりたいことやらないと」
いつ何があるかわからないこそ、今を生きるというのが印象的だった
まとめ
本職だろうが、片手間だろうが、ボランティアに来る人がまだこれだけいるなら、日本も捨てたもんじゃない
微力でも、自分にできることをするって大事だな
そう思った
加えて、自然の前では人間の営みって無力だと思う
けど、無力じゃない
ボランティアの人をはじめ、その土地やその土地の人々を思う存在がいる限り、大丈夫なんじゃないか
そうも思った
では、また