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母とアクセサリートーク ナスの帯留

引き続き、母のアクセサリーボックスにある品を語りながら整理しています

その中から何か、紫色のくしゅくしゅしたものが出ていました。
よーく見ると小さな茄子。三つの茄子が並んでいる陶器です。
三つ並んでも5cmくらいの大きさ。でもその並び方が、左から二つは寄りかかるように、そして三つ目は頭が転がって下を向いています。
なんというか、静物画をそのままデザインしたような雰囲気
色は底の方が鮮やかな茄子紺で上に向かって白くなり、ヘタのグレーにつまみ上がるようにグラデーションしています。
謎のくしゅくしゅした物はよく見ると美しい、、のかも、、、?

なにこれ?とその茄子を手に取ると、

「あ、それ、昔お祖父ちゃんちの隣に住んでいた人の作品よ
おばあちゃんにくれた帯留
えーと、なんていう人だっけ?」

そういえば、ファミリーヒストリーを書いているときにその人の話が出てきたことを思い出し、スマホでメモを開きました

大森光彦!

「あ!そうそう、大森光彦さん 失敗したやつとか時々もらったりしてたけど、これは、なんでか、ちゃんとしたものくれたの」

以下大森光彦氏についてWikipediaより引用


大森光彦(おおもりみつひこ、1892年(明治25年)6月13日 - 1954年(昭和29年)5月19日)は、日本の陶芸家。長野県上伊那郡朝日村(現辰野町)出身。愛知県立瀬戸窯業学校(現愛知県立瀬戸窯業高等学校)卒業。

長野県庁に勤務する傍ら善光寺焼を手伝う。上京し川崎市で働いた後、1924年(大正13年)東京府中野町に東野窯を開き陶磁器制作に専念し、松屋銀座や日本橋白木屋で個展を開く。1933年からは日本美術協会の審査員。その後東京工芸学校の講師を務め、興亜院、大東亜省、文部省の委嘱で中国大陸に渡った。

真紅の鶏血釉や青磁に傾倒した。

弟子に辻輝子などがいる。


祖父母は一時期淀橋に住んでいました。大森氏は中野に窯を開いておられる。つまりここでお隣同士だったということなのでしょうか?

小市民な私は早速「大森光彦」を検索しその価値が数字で出てくる作品にびっくり!
そしてそれを知った途端に、くしゅくしゅした物体は神々しい芸術品に見えてきました。
ほらほら、やっぱり、優れた品だって感じがしたのよー
なんて調子のいいことを思います。

加藤家の歴史を語るこのなすび
母のアクセサリーボックスにはまだまだ何か発見がありそうです。

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