加藤のファミリーヒストリー10 安保闘争と家宅捜索
60年安保闘争
安保闘争(あんぽとうそう)は、1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり日本で行われた日米新安全保障条約(安保改定)締結に反対する国会議員、労働者や学生、市民及び批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動である。
Wikipediaより
加藤家の次男尚武は、東大生として1960年このデモ隊のただ中にいました。
二度と戦争をしてはいけない、それに関わってもいけないと多くの日本人が同じ気持ちでいる時代に、あまりにも都合よく締結してしまった新安全保障条約。
それに対する怒りを爆発させたそれぞれの立場の人間が組織化していきます。尚武もその反政府組織を疑われ、家宅捜索を受けることになります。
私には計り知れない出来事なので、叔父尚武と母の記憶に基づいた文を載せます
60年安保闘争
父が私の23歳の誕生日に買ってくれたブルーグレイの靴を履いて、6月15日、国会南通用門に私はデモ隊を指揮して出かけた左の腕にきつくタオルを巻き、その上にシャツの袖を被せていった。
警棒の乱打を浴びた時、頭だけはそれで守ることができる。
「女子学生一名が死亡した」というニュースを聞いた時、私は自分の指揮下の各班の女子学生の安否を調べた。
そのうち樺美智子さんだという知らせが入った。感傷的な気持ちは何もなかった。樺さんの、どこか恐いほど思いつめたようなところ、細い体の印象が浮かんできた。彼女がブント(共産主義者同盟)の一員であることが、私にとってのかすかな救いだった。
中略
指揮者として私は何もできなかった。警官の一斉攻撃に追われて日劇前まで逃げてきたとき最榴弾で目をやられた学生に「ともかく水で洗え」と指示し終えた時、最首悟が新聞記者に貰ったという弁当を一包み持ってきて、私に「食べてください」と言ったのを覚えている。
誰もがひどく腹をすかせていた。最首氏が私を指揮者とみなして、そのたった一つの弁当を食べろと言っているのだとわかった時、私は初めて指揮者としての責任を負わされているのだと知った。肩車に乗って行動の指示らしきものをした。私の「内なる大衆」よりももっと大きなものが私を乗り越えて行った
トポスとしての家より 尚武
家宅捜索 君枝
60年安保の騒動の中、たまたま実家に泊まっていた私は、ある朝早く「家宅捜索」ということを経験した。朝、四時半か五時ごろけたたましく玄関の戸が叩かれて、母が出てゆくと、4、5人の男がいきなり入ってきて、一人が素早く勝手口へ回った。
それが家宅捜索だと後になってわかったが、その時はただ驚くばかりだった。玄関を入ってすぐ弟の部屋がある。何日も帰っていないので机の上にはいろいろな人からの連絡メモや名刺が何枚も置かれていたが、母は、サッとその部屋に入ると、その名刺やメモをすばやくエプロンで包み込んで台所に引っ込んだ。男たちが部屋に入ってきた時には机上は何もなく、弟がいないとわかって帰ろうとする彼らを父が引き止めた。
父は強い口調で「お座りください」と言うと、母にお茶を出すよう促し、男たちに向かって語り始めた。母は小声で近くに住む兄を呼んでくるよう私に言った。兄はすぐに飛んできたが、お茶を前に父の演説を聞いている彼らを見て「こんな奴らにお茶なんか出すなよ!」と大声で言った。
しかし父は平然と「演説」を続けた。息子たちには息子たちの、自分には自分の考えがある。それぞれの人間の考えを尊重する社会にならなくてはいけない
というようなことだったと思う。兄は彼らの行為を強く批判したが最後は、お役目御苦労さん!という雰囲気で男たちを見送った。
嵐がさった家の裏口に見つけた黄色い印が蛍光塗料だと知った。
あの時、何事もなかったようにさりげなくお茶を入れた母、自分の考えを堂々と語った父、そして強烈な兄の言動を私は忘れていない
つくづくと加藤清の貫いた姿勢には脱帽します。
家宅捜索に来た人にお茶を出す?さらには「それぞれの人間の考えを尊重する社会にならなくてはいけない」と説く?
普通はできないことだと思うけれど、清の遺伝子をもらった私にわかることは
「自分が正しければ恐れるものはない」こと。
清の中にもそうとうの怒りがあったと思うのです。いや加藤家の意見は一致していました。だからこそまだ血気盛んだった尚文は気持ちを抑えきれず噛みついたのです。
でも清の態度は父として先人としてもっと強かった。息子のしていることは正義であり、その息子を育てたのは自分だという誇りがありました。
清は彼のやり方で警察官(捜索員)の前に立ちはだかり息子を守ったのだと思います。そして妻みつもまたその機転と冷静さで息子を守りました。
私の中には常に正義感があります。社会に納得できないことがあれば怒りを覚えることも度々。
それを感じる時、あ〜これは加藤の血だなと思います。自由民権運動に始まった加藤の正義に生きる血だと