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加藤のファミリーヒストリー19 老いる

1970年 清の身体はいよいよ不自由になります。長年の銭湯通いもままならなくなり、子供達は清に家風呂をプレゼントします。それは、シンプルに風呂桶が置いてあるだけという感じだったように記憶していますが、それでも70歳を過ぎるまで家に風呂がなかった清はとても喜びました。訪問介護なんて想像もつかなかった70年代。いつも清潔できっちりしていた清が大好きなお風呂に入れなかったことは本当に辛かったのだと思います。
医者が「垢に食われて死んだ人はいないし」って今では考えられない発言ですね。
素人大工と書いてありますが、事情を聞いて急ピッチで仕上げてくれるところがいかにも下町の心意気を感じます。
元気が出た清は、床屋にも行きます。そして病院や薬屋にも行くことを思い描きます。
自分の老いを感じながら、いつも通りがかりに会っていた人を見かけなくなったり、お墓のことが気になったり、少しずつ人生の寂しさを思う時「感謝の辞」としてこの文章を書いた清の気持ちが切なくなります。

1970年4、5月号

感謝の辞 加藤清

私は、なんとお礼を申し上げていいのかわからない。一週間ほど前に君枝が兄弟4人から集めた内風呂の費用の残金を持ってきた。風呂に行けなくなってからまる1ヶ月あまり。足の皮が剥がれてぼろぼろ落ちる。表皮の奥にはボツボツまだらな斑点が見える。風呂に入れば血液の循環が良くなってきっと治ると確信しているが、ワイフは風呂行きを危惧する。主治医も垢に食われて死んだ人はいないし、浴場行きはまあ、見合わせるんですね、きっと元どおり健康になることを保証するという。

かかる際の内風呂はなんと表現して良いかわからない。出入りの素人大工もそんな事なら私も力いっぱいに勉強して作りましょうと5日間で入れるように急ピッチでこしらえてくれた。続けて3日間毎日入ったいかにも体が軽くなったような気がする

老いてよく耳にする親子の紛争の耐えない世相に思い合わせて嬉しくなる。昨日理髪屋に行った。この前は寝ながら刈ってもらったが、この度は1人で行った帰りはちょっと疲れたが、少しも危険を感じない。
家内も内心良かったという顔で迎えてくれた。
次には、久田主治医のもとに行く、次は近藤薬局、歯医者へと構想を練る。一気にやろうというのではなく、病気になり、明日の命がわからなくなると自然、あなた任せ主義場当たり生活になるのはやむを得ない。長泉寺はとうとう65年目の父の命日に初めてお参りに行けなかった。

坊主から本堂、書院の新築費の案内も来ている。亡父と同形の自己の墓を考える、あの坊主め、未だすぐ隣の墓地は空いているか、他の墓所はところ狭しと立ち並ぶのにどうして、私の父の隣は空けておくのだろう。瀬木、川村の墓もある。伊勢の親類が側にあるのは大変心丈夫と同時に、また両家とも後継者がいないのが後ろめたくもある。
そろばんの川村寛治さん近頃は往来しない淋しい。
川村さんも85、6才かになったろう。
未だ加藤翠松堂が本業の売薬に勤しんでいるのが慰めだ老いぬるかな我
大正5年に卒業した塾の同窓生、私が2度も例会に欠席しているが、4月20日の会。最近4年間の物故した18名の追悼会に出席したら皆は喜んでくれるであろう

楽しみにして驚かせてやろう

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