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「ハイパーインフレの悪夢」

「ハイパーインフレの悪夢」(アダム・ファーガソン 黒輪篤嗣 桐谷知未 新潮社)

第一次世界大戦後のドイツが、紙幣の濫発により通貨の価値が下落し、誘発されたハイパーインフレによって社会が崩壊していく過程を、スコットランド生まれのジャーナリストが描いた本。以下の本で紹介されていたので、読んでみた。

世界史(特にヨーロッパ近代史)に詳しい人が読めばもっと深く理解できるのであろうが、残念ながら理解の追いつかない部分も少なくなかった。ただ、「ハイパーインフレの状況下で何が起こるか」を予習するという観点だけでも、いろいろと得る部分の多い本であった。

  • 一見、消費が増える(減価するお金を持ちたくない)

  • 物が買えなくなる(価格設定困難、売り惜しみ)

  • 社会秩序が崩壊する(ストライキ、暗殺)

  • 遵法精神や道徳が喪失する(脱税、汚職、違法取引)

  • 多様な通貨が発生する(外貨や、物々交換を根拠にしたもの)

  • 異分子への憎悪が広がる(成金、外国人、都市vs農村など)

  • 変な法律ができる(大食い禁止、預金引き出し禁止など)

  • 社会の混乱に乗じた騒乱が起こる(国内、国外から)

  • 都市よりは農村の状況は良い(ただし生産物を出荷できない)

  • 労働力が国外に流出し、生産力が低下する(高い賃金を求めて)

以下は本からの引用である。

「または真の悪役はいなかったとも言える。経済的、政治的なきっかけを与えられれば、舞台の袖にいた役者たちは、誰でも、状況に促されるままにその役割を演じただろうと言えるかもしれない。確かに主役を演じた人物以外にも、非難されて然るべき者や、無責任だった者はおおぜいいた。犠牲者はドイツ国民だった。体験者の証言によれば、苦闘のなかで正気を失い、インフレに呆然となったという。なぜそういう事態になったのかや、自分たちをこんな目に遭わせている敵は誰なのかは、わからなかったという。」(21ページ)

「本書のインフレの物語は、訓話として読めるはずだ。国を打ち倒したかったら、まずは通貨を破壊せよという革命家の格言がそこでは立証されている。ならば、健全な通貨こそ、社会を守る上での第一の砦になるにちがいない。」(25ページ)

「新たな食糧の割当量はきびしく定められていて、価格も以前の公定価格の4倍に跳ね上がっていた。それ以外の食べ物は金ではなかなか変えず、物々交換が原則だった。1919年1月1日の日記には「パニックがあらゆる法律を無視せよと言っている」とある。とうとう、まっとうな人たちまで法律を破るようになった。飢え死にしてもかまわないという覚悟がなかったら、法律は守れない。」(48-49ページ)

「民間の店はすでにお金を受け取ってくれなくなった。現物との交換でないと、貴重な商品を売ってくれない。」(49ページ)

「市民はもはや政府の通貨管理を信じられなかった。政府はたえず紙幣を発行し、額面の数字を上げることで、わたしたちを欺いていた。(中略)通貨価値の急落に愕然とした経験のない主婦には、通貨の安定がどんなにありがたいのかは、わからないだろう。買おうと思っていた商品を、買おうと思っていた値段で、財布のなかにある紙幣で買えることが、どんなに幸せかわからないだろう。」(51ページ)

「多くの人々がかつて経験したことのない窮乏に見舞われる一方、インフレで儲けた者のなかには、贅沢三昧の派手な暮らしをする者も目立つ。新しいナイトクラブも次々と開店している。そういうクラブが、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの階級的な憎悪をいっそう募らせている。」(52ページ)

「ドイツでは1919年から22年にかけて400件の政治的な暗殺が発生したが、その多くが未解決で、犯人のほとんどが処罰されていなかった。(中略)ただ、このころの暴力の噴出は、敗戦の恨みやつらみだけでなく、政府が招いた経済的な混乱のせいでもあった。確かに連合国による掠奪、特にフランスによる掠奪は、暴力の引き金になった。ヒトラーがミュンヘンで急速に影響力を高めたのは、1918年に国を裏切ったと思われている者たちに、攻撃をしかけたからだった。また左派も、機会のあるごとに終戦時の教訓を持ち出して、騒乱をあおっていた。しかしヒトラー台頭の土壌を築いたのは、1921年までの5年間のインフレだった。多くの階級で経済状態が悪化の一途をたどったことが、その後の社会や政治の流れを決定づけた。」(57ページ)

「学問の徒たちもほかの階層と同じように、マルクの下落で深刻な打撃を受けていた。(同時代人の言葉を引用するなら)「学者が本を書いても、本の1行から得られる収入は、街路清掃員の箒2振りから得られる収入に及ばない」という状況に耐えなくてはならなかった。」(71ページ)

「ドイツの企業は外国に世界の相場よりもはるかに安い値段で商品を販売できた。またドイツへ来た外国人は、ばかげたほど安い料金で旅行をしたり、食事をしたり、家を借りられたりした。「外国人に、移動可能な資本や、中古の家具や、ピアノなどが徐々に買い占められ、持ち去られるということが、ドイツの国益を損ねながら進行している」」(86ページ)

「ケルン駐在のイギリス総領事、パジェット・サースタンは1921年11月23日、ケルンでは毎日、おおぜいの客が商店に押し寄せていて、店の多くが自己防衛のため営業時間を大幅に短縮していると、書いている。」(87ページ)

「クローネ相場が1ポンド=2000クローネを超えると、オーストリアはふたたび無気力状態に逆戻りした。ウィーン大学はその冬、寒さのせいで閉校になった。証券取引所では、職員への課税を理由にストライキが行われた。鉄道の乗車券は300パーセント値上がりした。成金たちの夜の遊びがますます派手になる一方、退職した弁護士や元将校などはいつドナウ川のほとりで一文無しで発見されてもおかしくなかった。」(90ページ)

「社会不安はまちがいなくインフレの"症状"のひとつだった。インフレという"病気"そのものは、国際社会の善意と、講和条約で課された義務の大幅な軽減がなければ防げないと、オーストリアでも、ドイツでも、金融界は考えているようだった。そこでドイツの為政者は症状をできるかぎり抑えようとした。最も力を入れたのは、不当利得の問題に取り組む姿勢を民衆に示せる対策だった。バイエルン州の首相は国に、大食いを刑法で罰するための法案すら提出した。
その法案では、大食者の定義は「常習的に飲食の快楽にふけり、その程度が、惨状に置かれた国民の観点からは、不満を抱かせる恐れのある者」とされた。この定義に該当したものは、「初犯の場合、禁固と最高10万マルク(約75ポンド)の罰金の両方もしくはどちらかの刑に処する」とされ、再犯の場合は最高5年の懲役刑と最高20万マルクの罰金刑を科し、市民権を剥奪すると定められた。」(91ページ)

「今の情勢で最も気がかりなのは、国家に対する国民の信頼や忠誠が大きく失われている点だと強調した。戦争中、戦時公債を買って政府を支えた人々が、マルクの減価で大損をさせられた。今、国民はこぞって課税を逃れ、利得のためにカーペットや証券を夢中で買っている。」(94ページ)

「深刻なインフレに直面した人々が、責任を負うべき人間を探そうとするのは、自然な反応だった。誰もがほかの階層や、ほかの人種や、ほかの政党や、ほかの国に責任を帰そうとした。強欲な外国人観光客と農民や、賃上げを求める労働者や、狡猾なユダヤ人や、為替市場で荒稼ぎした投機家のせいにすることで、大半の者がインフレの原因ではなく、症状に目を向けていた。」(100-101ページ)

「ドルの価格は世界的な議論の対象になっていたが、ほとんどのドイツ人はドルが値上がりしているのであって、マルクが値下がりしているのではないと思っていた。食べ物や衣服の値段が上がっているのであって、通貨の価値が下がっているのではないと受け止めていた。紙幣マルクの大量発行のせいで、紙幣の購買力がとめどなく下がり続けているとは考えなかった。」(101ページ)

「収入の上昇が商品の値上がりに追いつかない者の生活は、逼迫した。連合国による経済封鎖によって打撃を受けていた若い世代は、インフレのもたらした窮乏によって、さらに追い打ちをかけられた。1922年2月にフランクフルトで実施された調査によると、全階層のすべての子どもに、心身両面で2年の発達の遅れが見られたという。それらの子どもたちに発達の遅れを早く取り戻させてやることは、むずかしかった。冬のあいだは、牛乳を購入できるのは病人に限られ、パンの値段は日ごとに上がっていたからだ。購入住宅街では、子どもを思う母親たちが私邸内に入り込んで、残飯目当てにごみ箱をあさっている姿がよく見かけられた。」(103ページ)

「「戦争中に始まった道徳の衰えは、インフレで極まりました」エルナ・フォン・プスタウはパール・バックにそう語った。(中略)プスタウ夫人によれば、ある家を売った理由は、そこに住んでいた夫婦がガス自殺を遂げたからだったという。その夫婦は戦争でふたりの息子に先立たれ、身寄りのない状態だったが、生活のために蓄えておいた金の価値が下がると、生きられなくなり、自殺に追い込まれた。「時代のせいで、人の心がすさんでいました。パイはしだいにちいさくなり、パイのかけらにもありつけない人がだんだんとふえました。"隣人とは仲良く"なんていう昔の雰囲気はもう残っていませんでした。みんなが互いを敵だと思っていました」とプスタウ夫人は続けた。」(109-110ページ)

「ラーテナウ暗殺後のマルク崩壊の直前、製造業者のあいだから、生産コストが世界と同水準に達し、国際競争力が失われたという声が続々と上がった。当然、この訴えには首をかしげるものが少なくなかった。ドイツの人件費は他国より安かったし、産業界への補助金は以前と同じように続いていたからだ。失業者が増えるどころか、むしろ労働力が大幅に足りない状態である点も指摘された。理由はひとつには、ドイツ人労働者の多くが高い賃金を求めて、ベルギーやオランダや、場合によってはフランスとの国境地帯に流れ出ていることにあった。」(112ページ)

「オーストリアの悪夢が容赦なくドイツでも再現されていた。高学歴階級は、ふつうの生活を営む権利も、所帯を持つ権利も奪われて、ますます共和国への憎しみを強め、反動勢力に感化されやすくなった。フランクフルト駐在の領事は反ユダヤ主義がウイルスのように広がっていると報告した。社会的地位が高く、教養も豊かなドイツ人の男女が、合法的な防衛手段として、ユダヤ人の政治的な抹殺を公然と要求している。そういっても過言ではない状況だ。」(116ページ)

「ストラスブールではマルクを入手できなかった。為替相場の上昇のせいで、数日前から、銀行にはマルク紙幣がなくなっていた。」(119ページ)

「フランス人がここへ来ても、安い品物の買い占めはできない。ただし、食事はできる。(中略)奇跡的な為替相場のせいで、ストラスブールの若者たちが意地汚さをさらけ出している。彼らは大挙してやってきて、ドイツの菓子店で気分が悪くなるまで食べる。クリームたっぷりのふわふわのケーキを、ひと切れ5マルクだというので、がつがつ食べる。30分後には、店の商品はきれいに食べつくされている。(中略)ケーキが完売しても、店の主人や店員はとげとげしく、うれしそうではなかった。マルクはケーキの焼き上がりより速く下落していた。」(120-121ページ)

「あしたになったらワインが高くなってしまうと言って、湯水のようにお金を使う者もいた。ドルが値上がりした日には、客が店に詰めかけた。ものの値段は1時間ごとに上昇した。社会全体が買い物熱に浮かされた状態だった。年老いた独り身の男が赤ん坊の服を買っていったなどという噂も聞かれる。その店にはもうほかに商品が残っていなかったのだという。(中略)商店は店を守るため、病気やら、家庭の事情やら、棚卸しやら、ありとあらゆる理由を付けて、店を閉めようとした。」(127ページ)

「しかし、1922年のヨーロッパという荒れ狂った海で、かろうじて国としての沈没を免れていたオーストリア(海のたとえは当時のオーストリアの状況にぴったり合う)は、突然、窮地を脱した。ザイペル首相がついに、座して破滅を待つのを止め、国の生き残りと引き換えに、国土の一部を取り引きに差し出す決意を固めたからだった。当時の批評家は次のように述べている。「オーストリアの首相がヨーロッパを回って、最高入札者に国を売ろうとしている。こんな話はかつて聞いたためしがない」」(130ページ)

「国民に心理的な悪影響を及ぼしたのは、銀行預金を20パーセント以上引き出すことを禁じた措置だった。そのせいで農民をはじめ、多くの国民が金融機関への預金を控え、自宅で現金を保管するようになり、通貨の不足が生じた。」(135ページ)

「ドイツでいくらかでも快適な暮らしをしているのは、農村の人間だけだった。農民はほかの国民に比べ、実質的な価値のあるものを手に入れやすかった。農民たちが以前の生活水準を保てる程度に農産物の販売から利益を得ようとするだけでも、都市部の人間からは暴利をむさぼっていると批判された。ましてや、できるだけ高い値段で売れるよう、故意に出荷を遅らせれば、なおさら反発は強まった。」(143ページ)

「ドイツでは、国民のあいだで物々交換が行われ、しだいに唯一の信頼できる決済の手段として、外貨が用いられるようになってきていた。」(149ページ)

「巷では、ダイムラー車327台の値段で、ダイムラーの工場と、土地と、在庫と、資本と、組織を丸ごと買い取れるという冗談がよく口にされた。」(154ページ)

「ルール侵攻の表向きの目的は、当時よく言われた表現を使えば「ドイツを正気に返らせ」て、賠償金を全額支払わせることだった。(中略)しかし直後の影響は、荒々しく壊滅的なものだった。国内は騒然となった。報復措置を取れるほどの軍事力を持たなかったドイツは、唯一考えついた手段である占領地域での消極的抵抗政策で、対抗した。その結果、このいわゆるルール紛争は悲劇的な形で、経済の教訓を示すことになった。ドイツ産業の心臓部は事実上、活動を停止した。ほとんど誰も働かず、ほとんどすべての機械が止められた。」(159ページ)

「しだいに期待の星ヒトラーの輝きが、ルーデンドルフの勲章の輝きに勝り始めた、とシーズ総領事は書いている。大多数の国民が早急に必要としていたのは、経済的な救済だった。国民の関心はもはや政治にはなく、物価や賃金に向けられていた。そんななか、ヒトラーだけが、どんな風にも巧みに帆の向きを変えられ、やがて中産階級をナチスになびかせた。」(164ページ)

「「インフレーションとは、いろいろな意味でドラッグのようなものだ」ダバーノン卿は言った。「最後には命取りになるとわかっていても、多くの困難に襲われたとき、人はその信奉者になってしまう」」(172ページ)

「内務大臣は、増えつつある貧困者の葬儀を特に考慮し、木製の棺の代わりにボール紙の棺を使うことを許可した。」(177ページ)

「市町村が、じゃがいもやライ麦のような商品を裏付けにした独自のお金を発行していました。靴工場は、パン屋でパンに、肉屋で肉に交換できる靴債権で工員たちにお給料を払いました。」(178ページ)

「買い物客が金を入れて運んでいたかごやスーツケースを泥棒に盗まれたが、中身の金は地面にほうり出されていたという話」「1杯5000マルクのコーヒーが、飲み終わったときには8000マルクになっているのだ」「こういうインフレの逸話は、振り返ってみれば滑稽だが、その裏にある現実は恐ろしくきびしかった。」(179ページ)

「人間というこの世の小さな神様は、いつになっても変わりなく
天地創造のその日から、奇妙なことばかりやっている」(181ページ)

「毎日1000万金マルクという水準で介入を続けていれば、60日以内に破綻してしまう。金準備はすでに限界まで引き出されていた。その一方で、もし介入をやめれば、1ドルが100万マルク、1ポンドが400万マルクにまで上がるだろうことは、各方面で予測された---そして7月末には、その予測が的中した。」(185ページ)

「そのころには、街での日常生活はひどく複雑になり、どうにか生きていくだけのためにも、高度な数学の知識を必要とするほどだった。毎朝、新聞にはその日の物価リストが掲載された。
路面電車の運賃        5万
路面電車の1か月定期券
       1路線     400万
       全路線    1200万
タクシー   通常料金×   60万
辻馬車    通常料金×   40万
本屋     通常料金×   30万
公衆浴場   通常料金×   11万5000
医療     通常料金×   8万
あらゆる取り引きとあらゆる種類の商品に、売買ごとに異なる指数と乗数があった。小売店でのごくふつうの買い物にも3分から4分の計算時間が必要で、価格が確認されたあと、支払いのため紙幣を数えるのにさらに数分を要した。待ち行列は長くなるばかりだった。」(206ページ)

「街は飢えていた。田舎には収穫物がたっぷりあったが、農民たちが値段にかかわらず頑として紙幣の受け取りを拒否したので、その場に残されたままだった。それらを移動させるために策を講じる必要があった。9月18日、のちにレンテンバンクとして知られるようになる新しい土地信用銀行の設立計画が発表された。金で裏付けられているのではなく(それには遅すぎた)、農地と産業の両方を担保とした銀行だ。」(226ページ)

「物乞いでさえ小額紙幣はろくに受け取らない状況」(232ページ)

「人は経済的な困難に見舞われると、現状から救い出してくれる唯一の希望として、ふだんよりずっと権威に追従しやすくなる。失業が民主主義の魅力をはぎ取りつつあり、労働者階級はストライキをしても無益だと気づいている。経営者にとってそれ以上好都合なことはないと知ったからだ。」(232ページ)

「ここで考察すべき重要な点は、ヒトラーとナチスがインフレにつきものの窮状をあっさりと臆面もなく利用して、権力に対する民衆の敵意を呼び起こし、何千もの人々に訴えかけて、明らかに無関係な多くの者たちに罪と責任を負わせることができたという点だ。それは休戦協定に署名した人たちや、フランスや、ユダヤ人や、ボリシュヴィストだった。インフレはヒトラーに都合よく働いた。共産党もインフレが起こした社会の混乱を利用してはいたが、それを発明したのはヒトラーとナチスでもなければ、共産党でもなかった。インフレは政治的な過激主義と同類で、秩序の対極に位置するものだ。」(247ページ)

「実際のところ、信用詐欺はうまくいった。1923年に農作物を分配するために設計された一時しのぎのレンテンマルクが、1年後にライヒスマルクが導入されるまで1兆マルク札の地歩を守る武器となった。ブレッシアーニ・トゥローニはこう述べた。「新しい紙幣には古い紙幣とはちがう名前が付いているという単純な事実をもとに、国民はそれが紙幣マルクとはちがうものだと考えた。(中略)兌換できない紙幣であるという事実にも関わらず、新しい通貨は受け入れられた。それは保有され、すぐには使われなかった」」(255ページ)

「2か月前と比較した人々の気持ちのちがいは[と、クチンスキーはイギリス大使に話した]、まったく驚くほどです。当時は、あらゆる人が意気消沈し、破滅が迫っていると考えていました。ところが現在は、みんなが自身にあふれています。そのことについて、物質的、経済的な理由は特にありません---変化はおもに、心理的なものです。レンテンマルクを根拠に挙げることもできますが、あれは多かれ少なかれ、まやかしにすぎません。それよりも、紙幣の増発を単に停止したことによる倫理的な効果のおかげというほうが正しいでしょう。あるいは、増発がついに停止されたと国民が信じたおかげというのがもっと正しいかもしれません。人々は大きな自信を得て、ポケットや引き出しに通貨を貯めておくようになりました---昨年の9月には500万ポンドでしたが、現在ではそこに1億2500万ポンドも入っています。」(263ページ)

「ドイツ人の名誉も、インフレに対する耐性を持たなかった。1924年、ダバーノン卿は役人のあいだに広がる汚職について、「あきれるほど」だと報告した。大戦前、贈収賄はほとんど知られておらず、商取引ではそうとは限らないとしても、公的・私的な生活の両方で汚職の少なさは際立っていた。しかし今や、どの社会階級に属していても、資本や収入の絶え間ない目減りや将来の不確かさがもたらす悪影響に染まらないでいる人、あるいはそれを利用しないでいる人はほとんどいなかった。脱税から、食料のため込み、通貨投機、違法な為替取引まで---個人にとっては多かれ少なかれ生き残りの手段となっていた、国に対するあらゆる犯罪---それは、モーセの十戒のどれかを破る第一歩だった。」(284-285ページ)

「貨幣はただの交換手段にすぎない。ひとり以上の人に価値を認識されて初めて、使われるようになる。認識が広まれば広まるほど、それは便利になる。誰も認識しなければ、ドイツ人が学んだように、その紙幣にはなんの価値も用途もなくなる---壁紙や投げ矢として使う以外は。」(306ページ)

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