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「論理的思考とは何か」

「論理的思考とは何か」(渡邉雅子 岩波新書)

大学教授の著者による、世界各国で論理的と考えられている四つの思考法(経済・政治・法技術・社会)を比較し考察した本。論理というよりは各国でのレトリックの違いを客観的・主観的と、形式合理性・実質合理性の二つの軸で分けられる四つの領域(経済領域、政治領域、法技術領域、社会領域)に分けて(58ページ)、それぞれをアメリカ、イギリス、イラン、日本の学校で教えている作文の「型」を通して論じている。論述のやり方が国によって全く異なっていることがわかって、面白かった。

 筆者が論理的であること、そして論理的思考が「ひとつ」ではないことに気づいたのは、アメリカの大学に留学して、エッセイと呼ばれる小論文を提出した時だった。「評点不可能」と赤ペンで書かれ突き返された時の衝撃は今でも忘れられない。それ以上に衝撃的だったのは、どんなに丁寧に書き直しても同じコメントが繰り返された一方で、いったんアメリカ式エッセイの構造を知って書き直すと、評価が三段跳びで良くなったことである。英語が急に上達したわけでも知識が格段に増えたわけでもない。しかしアメリカ式のエッセイの型で書くと、それまで自分が重要だと思っていたことが必要なくなり、エッセイのポイントである主張すらも変わってくる。すると必然的に結論も変わってくるという不思議を体験した。それは論文の構造に導かれた論理と思考法の日米の違いという、まさに「見えない文化衝突」の体験だった。(iiページ)

 とはいえ、こうした論理的思考の方法は「無限に」あるわけではなく、いくつかのタイプを「型」として提示することが可能である。本書では「経済」(アメリカ)、「政治」(フランス)、「法技術」(イラン)、「社会」(日本)の四つの領域に固有の論理と思考法を、各領域で書いたり話したりする時の「型(構造)」に注目して提示する。(ivページ)

 日本の子どもの作文は、この例のように出来事を起こった順番に連鎖して「......して、......して」と一文で述べる「時系列型」と、出来事を起こった順番で述べた後に教訓を付け加えて「教訓のお話」にするタイプが九割以上を占めるのに対して、アメリカは、最初に結論となる主張を述べて、その根拠として出来事を述べる、つまり、エッセイの型を絵の説明の枠組みとする作文が三分の一以上を占めた。(viiページ)

 こうして四つの領域の思考法を明らかにしたところで本書がすすめるのは、目的と場面によって、四つの型を使い分けられるようになることである。それこそが、科学技術と資本主義に支えられ、一つの論理で押し通してきた近代の次の時代の論理となり、また力となると考える。論理的思考から、多元的思考へのシフトである。(ixページ)

 レトリックの目的は、人を説得することである。人を説得するための証拠立ての方法と議論の型を考え、「説得のための言語技術を体系化したもの」がレトリックである。(17ページ)

 説得するとは、受け手の心からの同意を引き出し、言論によって受け手の考えや行動を変えることである。人に理解させ、人を信じさせ、人を動かすのが説得である。この時、圧力や権威によって強制的に同意を引き出すのは説得とはいわず、あくまで話し手/書き手の「言葉」によって受け手が自発的に賛同して考えを変えることを指す。(19ページ)

 したがって、レトリックで扱う議論は、論争を避けられない議論であり、その結論は必然的性質を持つものではない。必然的性質を持つ論証にするには、用語を正確にして、あらゆる曖昧を排除して多様な解釈の可能性を一切取り除かなければならないが、日常で使用する言語でそれを行うのは至難の業であり、ほとんど不可能である。レトリックは、そのような学問的に厳密な議論へ向かわず、むしろ他人を言葉で動かす技に力を注ぐ。(22-23ページ)

 レトリックにおける<論理的>な思考とは、「説得」という目的を達成するための戦略的な思考といえる。時と場合によって、つまり話し手/書き手の目的に応じてどのような手段がありえるのか、どのような操作を行ったらよいのかの実践的な効力を持つ論拠と論法の集大成がレトリックだからである。(26-27ページ)

 この文化による論理展開の違いをいち早く指摘したのは、アメリカの応用言語学者カプランである。カプランは、大学で留学生の小論文指導を行うなかで、英語が上達してもなかなか小論文が上達しない留学生が多いことに長年疑問を持っていた。そこでカプランは世界三〇カ国以上から来た留学生の小論文を分析し、図1-1のように言語圏別に論理の展開の特徴を視覚的に分類してみせた。
 カプランの分類によれば、英語圏は「直線的」な展開、ヘブライ語やアラブ語などのセム語圏は類似することがらを詩の対句のように「平行」させて進む展開、東洋は渦巻きのように主題から遠いところより始めて「間接的に主題に近づいていく」展開、フランス語に代表されるロマンス語圏は余談を交えて「紆余曲折」しながら進む展開と分析されている。そして五つめのロシア語圏は、パラグラフ(段落)の間のつながりがパターン化できないとされている。(48-49ページ)

 カプランは、「それぞれの文化は文化に特徴的なパラグラフの順番を持ち、言語のこの部分の習得は、その文化の論理システムを学ぶことに他ならない」と述べている(Kaplan 1966:14)。(51ページ)

 目的の優先順位に価値観が現れる
 「私たちはある価値観を優先し、その価値観に紐づけられた各領域の論理を論理的だと考えている」=実質論理 (55ページ)

 図1-2 合理的行為の四類型と4つの領域
 経済領域:形式合理性・主観的
 政治領域:実質合理性・客観的
 法技術領域:形式合理性・客観的
 社会領域:実質合理性・主観的
(58ページ)

 なぜなら、エッセイの型で書くには、先に述べたように実際の思考過程を倒立させなければならないからである。そこで、アメリカでは小学校一年生から「私は......と考える。なぜならば......(I think... because...)」と定形化された言い方で意見を述べる訓練を行う。そしてこの意見表明の方法がそのまま書き方の型になっている。(70ページ)

 「ディセルタシオン」と呼ばれるフランス式小論文は、弁証法を基本構造とする。弁証法は、論ずべき主題に対する「一般的な見方」、「それに反する見方」、「それらを総合する見方」を<正-反-合>の構成に位置づけて、<正>と<反>の矛盾を<合>で相結する。(78ページ)

 ディセルタシオンにおいては「私がどう考えるか/感じるか」という書き手個人の意見や体験、感情は全く意味を持たないといわれる。実際にディセルタシオンにおいて「私は(Je)」という言葉は一度も出てこないし、書いてはならないのが規範である。(88ページ)

 エンシャーの特徴は、主題がいかなるものであっても、決まった結論、すなわち道徳的・宗教的に正しい結論に向かって落とし込まれていく展開をたどることである。作文教科書で書き方の多様な技術や形式を紹介してお手本を示しても、この特徴は保持される。イランにおける作文は様々な主題を扱いながらも、それぞれの主題の多様な側面を、すでに決まっている結論に向けて準備する「目的論的」な志向が作文を書く論理を作っている。(103ページ)

 社会領域のレトリックも論証の形を取らないが、ここで重視されるのは社会の構成員から「共感されるか否か」である。法技術領域に見られるような普遍的・絶対的な倫理ではなく、共同体を成り立たせる親切や慈悲、譲り合いといった「利他」の考えに基づく個々人の「善意」が社会領域の道徳を形成する。道徳形成の媒体となるのが「共感」である。(114ページ)

 日本の大学入試センター試験(一九九〇~二〇二〇年度)と大学入学共通テスト(二〇二一年度~)の「国語」で、毎年二割強の割合で出題されるのが「心情を問う」問題である。日本の国語の心情を問う問題の割合は、他の国の国語/文学の試験問題と比較しても突出している(渡邉 2023)。(122ページ)

 社会秩序の維持に多くの国が莫大な資金を注ぎ込み、対処的なプログラムが試行されながらもいずれも機能しない現状を考える時、感想文は社会秩序の形成・維持という点から再評価されるべきであろう。秩序が保たれ安心して暮らせる社会があってこそ、政治的な安定と経済活動が成り立ち、安全で文化的な生活が営める。
 しかしその強みは諸刃の剣となって、戦略的に振る舞ったり駆け引きしたりすることに心理的抵抗を感じ、好機を生かすことができにくい、すなわち決断力の欠如という形で重要な局面で弱みになると批判されてきた。(134ページ)

 論理的思考に関する書籍や情報が溢れる中で、本書の意義は何だろう。それは論理的思考に関する二つの常識の克服である。ひとつは論理的思考の方法は世界共通でも不変でもないこと、つまり論理的思考には価値観に紐づいた思考の型があること。もうひとつは思考の技術を使いこなすには、目的(そこに価値観が現れる)をまず特定してその目的に合った思考法を選ぶことである。この二点を踏まえて本書が目指したのは、目的ごとに異なる論理的思考を「方法」としてどのように実際に使いこなすかを示し、その効用と意義についても理解を深めることだった。こうして本書を読み終わる頃には、論理と論理的思考に対する読者の考え方が変わっていることに期待する。(175ページ)

 

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