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「世間とズレちゃうのはしょうがない」

東大名誉教授と元落語家の二人による、世間とのズレについての対談の本。ズレると言っても、世間の外にいるのと、世間の中に踏みとどまっているのとの違い(22ページ)という表現はなかなか面白かった。いろいろな話を通じて、世間からズレることを穏やかに勧めている本だった。

伊集院:先生の話がおもしろいのは、世間の外にいることを自覚している先生が、外から冷静に中を見て、逆に「中の人ってこういうことしないんだ」ってスタンスで世間とのズレを書くからなんですね。
養老:逆にね。
伊集院:僕のほうは、世間の中になんとか踏みとどまりながら「自分はこう修正している」「これ以上行ったらはみ出る」「はみ出そうになった」「今出ちゃったから戻らないと」という話かも。
養老:こちらはむしろ「どこから世間に入れてもらえるか」みたいな感じでね。
伊集院:なるほど。「ここだけは、そんなにズレてないや」と言って、ちょっと入れてもらう。(22ページ)

養老:人間は言葉で線を引いていますよね。解剖をやると、そのことが嫌っていうほど分かりますよ。まず、どこからどこまでが手か、という問題が起こるし、足ってどこからどこまでだ? 例えば肛門なんて、みんな本に書いてある通りあると思っているんだけど、あれは名詞じゃないんですよね。
 というのも、じゃあ「手を切って持ってこい」と言ったら、まだ「どこからどこまでが手か境が分かりません」という程度だけど、「肛門を切って持ってこい」と言って持ってきたら、「おまえ、これは肛門じゃなくて皮膚だよ」となる。同じように「口」ってないんだよ。切ってきたら「唇」だもん。
伊集院:「ドーナツの穴を持ってこい」みたいな話。
養老:まさにそう。解剖の本によっては「口は消化管の入り口」と書いてある。これは定義になっていないんです。「口」という言葉をまた使っているんだから。だから「口」は機能なんですよ、働きです。(26-27ページ)

伊集院:親父に「戦争が終わったとき、うれしかったの?」と聞いたら「うれしくなかったことはないんだけれど、うれしいとかいう感情じゃなくて、もっとすごいことなんだ」と言うんです。そのとき言われたのは「おまえ、今まで習ってきた教科書が全部ウソだと言われたらどう思う?」
養老:そうです。ウソだと言われる以上に、自分で墨をすって、教科書の戦争に関係あるところを全部黒く塗らされたわけだからね。みんなで声を揃えて何度も読んだところですよ。だから理屈じゃないんだよね。感覚ですよ。肉体感覚。
伊集院:そのガラガラポン体験が生きているから、先生には「何かしらそういうことは起こるよ」という覚悟があるんですね。(41ページ)

養老:一九九六年に"The End of Science"(邦訳「科学の終焉」竹内薫訳、徳間書店)という本が出たんだけれど、ジョン・ホーガンというジャーナリストがノーベル賞をもらった世界中の有名な科学者たちに会って、「科学は世界を解明するか」という簡単な質問をしているんです。結局、答えの九割九分「解明するわけねえだろ」(笑)。
「科学が進歩すれば、世界がだんだん解明されていく」ことが一応建前じゃないですか。でもやっている本人たちは信用していないことが分かるわけ。要するに科学が完全に煮詰まっている。だから「科学の終焉」なんですよ。(53ページ)

養老:見事なもので、そこから先(死後)は別のものとなるわけです。ずいぶん前に、脳死後の臓器移植が議論になったころ、「人は死ねばゴミになる」というタイトルの本が出ました(伊藤栄樹著、小学館文庫)。脳死を人の死と認めた「脳死臨調」の少数意見にも、それに近い考えが出ました。脳死臨調の報告書は珍しく多数意見と少数意見との両論を併記したんですよ。(70ページ)

養老:さっきの僕の話からいうと、生きている人と死んでいる人、都市と自然、意識と無意識、秩序と無秩序、それが世間の内と外に対応するんです。僕は内側から外れちゃった。外側から世間の内側を見ているわけです。
伊集院:僕はたぶん、内側にいようとしているんです。芸能人なんかみんなそうでしょうね。世間の内側にいて、ちょっと変わってるくらいに見られたい。
養老:ギリギリ内側から見ているんですよ。
伊集院:そうですね。ギリギリから外を見ながら、中心部に見えたことを伝えると、内側で大事にされるというのがこの商売だから、世間の外側にいるわけじゃないですね。
養老:塀の上がいちばんなんですよ。塀の上を歩くのが芸。
伊集院:「塀の上を歩くのが芸」。すごく的を射てる! ただ、目をつぶって塀の上を歩けちゃうやつがいて(笑)。いつもビクビクしているこっちからするとうらやましいやら恐ろしいやらで(笑)。僕からしたら「あいつ外に落ちてないか?」って思ってるのに、すごく人気があったりして混乱します。逆に自分が塀の内だと思って言ったことで、炎上して外に追い出されそうになったり...。
養老:塀の位置は、ずらせるからね。(89-90ページ)

養老:それは動物的には当然で、若いうちは自分のテリトリーを作ろうとするから社会的認知が必要なんですよ。ある程度認知されるようになると、今度は逆に周りと協同するようになるでしょ。誰と仲良くしたら具合がいいかを考えるようになるんです。(103-104ページ)

伊集院:一度、今とは真逆のところに行ったり、できたことができなくなったりするのは大切かもしれませんね。強制的に外されない場所を見つけるためでもあり、戻ってくるためにいったん外れるということでもあるだろうし悪いことじゃない。もっと言えば「痛ければ外れろ」。このままでは耐えられないくらいの痛さだったら、一度外れたほうがいいのかも。
 外れたままでもいいし、外れたところが違うと思ったのなら戻ってきてもいい。そして、戻ってくるときには何か以前とは違うものが見えたり、得られたりしているかもしれません。一度外れることを勧めるのはそういう意味です。(116ページ)

伊集院:さっきの「今いるところから外れて真逆のところに行く。外れたところが違うと思ったら戻る。戻るときには以前とは違うものが見える」というのは、都会と田舎の関係にそのまま当てはまりますね。
養老:そうですよ。都会に住んでいる人は、少なくとも年に二、三カ月くらいは田舎に滞在するといいですね。僕は「現代の参勤交代」と表現していますけど。田舎で農業をしたり虫捕りや釣りをしたりして過ごすんですん。もちろん、歩き続けてもいい。東京一極集中対策になるし、首都直下型の地震が起きたときのセーフティネットにもなりますよ。(125ページ)

伊集院:四十五歳を超えてから、なんだか分かんないけどひどく嫌いなものにあえてチャレンジしてみたら、これが意外に楽しいことが多いんです。(130ページ)

伊集院:僕が思うに、結局行き着くところは、「やっていて楽しい」ということ、「食える」ということ、この二つだと思うんですよ。(156ページ)

養老:ただ、僕は二十八年勤めた大学を辞めた瞬間、世界が本当に明るく見えたんですよ。ということは、それまで我慢していたってことです。でも自分で我慢しているとは必ずしも思っていないんです。授業をするのも、教授会に出るのも、すべて「当然」だと思っていた。辞めて初めて「我慢していた」と気づいたんですね。(161-162ページ)

伊集院:急いで上ろうと思ってカーブで急に舵を切ると、振り落とされる人間がいますからね。急に「明日会社辞めてやろう」というよりも、まず二軸をつくることを考えるとか。たとえばそれが都会と田舎の二軸の暮らしなんだと思います。
 世間との関係で思いつめてしまったとき、二軸をつくることと、螺旋構造のイメージに当てはめて現状を眺めてみると、別の道が見えてくるかもしれませんね。(177ページ)

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