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「人はどう老いるのか」
「人はどう老いるのか」(久坂部羊 講談社現代新書)
医師で小説家の著者による、老いや死にどう向き合うかについての本。主な主張は、長生きを肯定する近年の風潮へのアンチテーゼであり、長生きすると身体的・精神的機能が衰えてくるのは当然であり、無理な医療処置をせず、「ある種の達観を抱く」(6ページ)ことを勧めている。老いや死について、改めて考える上でいい本であると思う。
杖歩行ができる先の女性と、車椅子の男性を比べれば、男性のほうが症状が重いのは明らかです。しかし、悩みや嘆きの深さは、症状が軽い女性のほうが重い。ふつうは病気の症状が重ければ悩みや心配も大きいはずです。それが必ずしも通用しないのが、高齢者の世界だと気づきました。(17-18ページ)
まだ長生きをしておらず、命が惜しいと思っている人には、理解しがたいかもしれませんが、いつまでも死なないというのは、実際、つらくて苦しいものです。高齢者医療やがんの終末期医療の現場で、過酷で悲惨な延命治療を目の当たりにすると、そのことを実感します。
だったら、適当なところで上手に死ぬことが望ましいはずですが、いつまでも生きていたいと思っている人は、なかなかそちらに気持ちが向かないようです。
死ぬことの準備は不愉快かもしれませんが、それをせずに安穏と暮らし、いざ死が目の前に迫ってから下手な選択をして、悔いの残る死に方をした人を多く目にした私としては、もったいないとしか思えません。(34ページ)
痛みや不如意があっても、心の準備のある人は、ある程度、うつ病にならずに受け止められるようです。心の準備のない人、すなわちいつまでも元気でいられると思っていた人は、「なんでこんなことに」とか「こんなことになるとは」と、よけいな嘆きを抱えるので、反応性のうつ病になる危険が高まります。世にあふれるきれい事情報や、無責任なお気楽情報は、ほんとうに罪深いと思います。(36ページ)
認知症にもいろいろなタイプがあって、まわりの状況がわからなくても、いつもニコニコして機嫌のいい"多幸型"や、逆にイライラして怒鳴ったり、ときには暴力を振るったりする"不機嫌型"があります。傾向として、前者はアルツハイマー型の認知症に多く、後者は脳血管性の認知症に多いと言われます。同じ認知症になるなら"多幸型"を望む人も多いでしょうが、どのタイプになるかは自分で選べないのがつらいところです。(54ページ)
しかし、認知症にはほかの難病などとは決定的にちがう側面があります。それは病気になったあと、病気であることを認識できないということです。わからなければ、恐れる必要も悔やむ心配もありません。(89ページ)
先に紹介した両マニュアルは、どちらも十年以上も前のもので、最新のものは見当たりません。その理由は厚労省のマニュアルにこう書かれています。
「認知症予防については、予防の根拠が明確になっていないこと、対象がはっきりしないこと、その方法が明確でないこと、また、認知症予防の知識や技術を持った人材が不十分なこと、そして、効果評価の方法が確立されていないことなどの理由を挙げることができる」
さすがは厚労省。正直な記述ですね。
認知症という病気の本態は、未だ明確にはわかっていないのです。(93ページ)
それでもやっぱり認知症にだけはなりたくないと、頑なに思い続ける人は少なくないでしょう。それは悪い先入観に洗脳されて、思考停止に陥っているからだと思います。
その頭を解きほぐすため、逆のことを考えてみましょう。すなわち、認知症にならずに長生きをしたらどうなるのか。
実際、恐ろしいことですが、現実から目を背けずに考えるなら、過酷な状況が思い浮かびます。先にも書いた通り、長生きをするというのは年を取るということですから、どんどん老化が進み、あちこちに不具合が生じます。(96-97ページ)
病気と死を恐れていたときには、不機嫌で不安そうだったのが、認知症になったあとは悟りを開いたように穏やかな表情になりました。H'さんにとってどちらが好ましいか、明らかでしょう。
いつまでも明晰だと、老いのつらさ、惨めさが如実に意識され、不快な過去と不安な未来に苦しめられるのに対し、認知症になるといっさいが消えて、"今"だけの存在になるのです。(102ページ)
O'さんはもともと仕事人間で、努力と工夫が好きな人だったので、トイレ誘導もきっちり記録を取り、奥さんのようすからタイミングを見極めるコツや、便の状態によって間隔を工夫するなどして、メキメキと上達しました。
それまではほったらかしでロクに世話をしなかった食事も、トーストを十六分割にして与えるとか、パン粥にするとか工夫し、奥さんの好みがシナモンシュガーであると発見したときには、私にも嬉しそうに報告してくれました。そういう達成感を得られると、介護もある種の仕事感覚になり、ワーカホリックの男性には向いているのかもしれません。(107ページ)
O'さんのように介護に達成感を抱くようになるとか、罪滅ぼしのつもりでやるなど、精神面での支えがあると、認知症の人が起こすさまざまなトラブルにも、比較的穏やかに対処できるようになります。(108ページ)
いくら精神的な支えがあっても、想定外のトラブルを起こされるとつい感情的になるのが人間です。つまり、こんなことにまでなるとは思わなかったという怒りや嘆きです。であれば、前もって想定の範囲を思い切り広げて、何があっても想定内という状態にしておきば、少しは楽に受け止められるのではないでしょうか。いわゆる心の準備です。
O'さんの場合も、はじめは布団の上で排尿するなんてあり得ないと思っていたから奥さんに激怒したのです。認知症ならそれくらいのことはあると思っていれば、排泄を失敗しても虐待につながるほど腹は立たないでしょうし、あらかじめ予防策を講じることもできるでしょう。
ですから、認知症の介護をはじめるなら、認知症の人が起こすトラブルをできるだけたくさん、できるだけ最悪なものを想定内にして、心の準備をすることが肝要です。すなわち、認知症の予習です。(109ページ)
ほかにも認知症の介護を失敗するパターンで多いのは、家族が認知症を治したいとか、これ以上悪くしたくないと思っている場合です。これってごく当たり前の感情と思われるでしょう。だから、多くの家庭が似たような形で介護状況を悪化させてしまうのです。
なぜ、そう思うことがよくないかというと、認知症の当人によけいなストレスを与え、精神的に疲弊させるからです。認知症の人は、自分が病気であることを認識していませんし、自分がおかしなことをしているという自覚もありません。それなのに、トラブルの原因のように見られたり、怒られたり、怒鳴られたりすると、とてもイヤな気分になります。自分は悪くないのに、責められ、叱られ、非難の目を向けられることは、つらいことです。その不愉快さ、つらさが本人を混乱させ、認知機能をさらに悪化させて、いっそうトラブルを増やしてしまい、家族はそれでまた怒り、困り果てるという悪循環に陥ります。(110-111ページ)
認知症を治したいとか、これ以上悪くしたくないという思いが、介護の失敗につながるのであれば、どうすればいいのか。
それは認知症を否定せずに受け入れることです。以前は認知症は老人ボケとかモウロクとか言われ、年を取ったらある程度は仕方ないと思われてきました。自然な老化現象のひとつなのだから、治したいと思う人も少なかったはずです。今は認知症は病気という認識で、病気なら予防も治療もできるだろうと思う人が増えています。(112ページ)
年を取れば人格者になるというのは、まちがいではありませんが、せいぜい七十歳前後まででしょう。それくらいの年齢だと、さまざまな人生経験から無駄なこと、無用なことを知り、精神的な余裕と自制心が培われて、若者からすると人格者のように見えることもあります。むかしはそれくらいでだいたいの人が死んでいたので、年を取れば人格者にといわれたのです。しかし、今はその先に二十年ほども生きてしまうので、心身ともに衰え、若い世代の尊敬を集められなくなっています。そんなダメになった高齢者を敬えと言っても、無理な注文です。
ほんとうに敬老精神を養うには、まず高齢者自身が尊敬に値する存在にならなければなりません。その方法はあります。自らの老い、苦痛、不如意を泰然と受け入れ、栄誉や利得を捨て、怒らず、威張らず、自慢せず、若者に道を譲り、己の運命に逆らわない心の余裕を持つことです。むずかしい注文ですが、むずかしいからこそ敬意を呼び覚ますのではないでしょうか。(117ページ)
専門家の意見はあくまで参考材料であって、確かなものではありません。正しいかどうかわからないという冷静な判断をする人が多ければ、自粛警察などは発生しなかったでしょうし、マスクを忘れて電車に乗っても、犯罪者のような目で見られることはなかったはずです。(123ページ)
出口氏はただがむしゃらに頑張ったのではなく、専門的かつ先進的な理論の裏付けによるプログラムに取り組んだのでした。まさしく新しい発想によるリハビリです。さらに出口氏は毎日三時間のリハビリのあと、麻痺のない左手で古典を鉛筆でなぞるドリルや、家族の名前を書く「宿題」をこなし、家族に声を出して話しかける「自主トレ」を一日あたり六、七時間も行ったといいますから、まったく頭が下がります。前向きな姿勢と言っても口先だけではなく、実際に猛烈な努力の裏打ちがあったのです。
今も言語障害に悩む人は多いと思いますが、出口氏の成功例は大きな励みとなるでしょう。ただし、回復には相応の準備と努力が必要なこと、そして同じ努力をしても、だれもが必ず回復するわけではないということを、あらかじめ心しておく必要があります。(131ページ)
今から思えば、研修医やヒラの医員だったころは、私もずいぶんと気楽でした。医学的に正しい治療をしていればよかったのですから。
しかし、多くの医者は年次が進み、部長とか副院長とか院長になると、病院の経営ということを考えなくてはならなくなります。私はそんな肩書とは無縁でしたが、老人デイケアのクリニックに勤務したときは、実質的にある医療法人の雇われ院長の立場でした。当然、はじめは医学的な判断だけで診察をしていました。ところが、月末になると医療法人から派遣された事務長がやってきて、「超音波診断をもう少し増やしてもらえませんか。血液検査も倍ほどしてもらわないと」と言うのです。(135ページ)
まだ四十代だった私がそう気色ばむと、ベテランの事務長は深々とため息とつき、苦渋の表情で説明しました。
「超音波診断機はリースですから、毎月四十三回以上使ってもらわないと赤字になります。使用期限の切れた薬は廃棄せざるを得ませんから、特に高額の抗生剤が廃棄になると大きな損失になります。クリニックの収益は、先生がされる検査と治療からしか発生しないので、先生にお願いする以外にないんです。このままだと、職員の給料も払えません。先生の診療に看護師さんや看護助手さん、事務職員の生活がかかってるんです」
そこまで言われて、はたと気づきました。自分の正義感だけでまっとうな医療をすることは、独善にすぎないということです。クリニックが廃業になったら、医者の私はまた次をさがせばいいけれど、何の資格もない看護助手や事務職員は、簡単には転職できないでしょう。
そう悟り、患者さんの身体に実害のない範囲で、検査や処方を調整するようになりまいsた。もちろん忸怩たる思いを胸に秘めてです。薬も余った在庫を製薬会社か政府が引き取ってくれるならいいですが、クリニックの損失になるなら、やはr使用期限を気にせざるを得ません。(136-137ページ)
正しい医療を施してもよくならないことがあると、現実を受け入れていれば、結果が悪くても「なぜだ」と感情的にならずにすみます。
また、逆に病気が治ったときに、医者を救い主のように思う人もいますが、これも幻想です。医者が治したように見えても、実際は患者さん自身の力で直った場合が少なくないからです。(143ページ)
病気治療や健康に関して、医者が特別な能力を持っていないことは、医者ならだれでも知っています。多くの同僚や先輩、後輩が、がんになり、脳梗塞になり、パーキンソン病になり、心筋梗塞になり、認知症にもなっているからです。配偶者や子どもを早くに亡くした医者も少なくありません。自分や自分にとって大切な人の病気を治せなくて、どうして他人の病気をすべて治せるでしょう。職業別の平均寿命でも、医者のそれはほかの職業の人より短いといいます。
それでも医者に頼ろうとする人は少なくありません。なぜなのでしょう。
それは、専門家に頼れば安心という幻想があるからではないでしょうか。(144ページ)
がんになったら「標準治療」を受ける。これがもっとも安全な選択です。標準治療は多くのデータの積み重ねで検証され、医学的にもっとも効果が高いと推奨されるものだからです。
ところが、「標準」という言葉を、スタンダードクラスと誤解して、標準ではいやだ、スーペリアとか、エグゼクティブなどもっとランクの高い治療を受けたいと望む人がいますが、そういう治療は存在しません。(158ページ)
さらには検査被爆の問題もあります。胸部X線撮影はまだしも、マンモグラフィーや胃のバリウム検査などは、かなりの放射線を浴びます。それによってがんが発生するリスクもあって、日本人のがん患者さんのうち、三十人に一人は検査による被爆が原因と言われています。
私自身はがん検診は受けたことがありませんし、妻も同様です。医者の友だちにも、がん検診を毎年受けている者はほとんどいません。医者は立場上、がん検診を受けるよう勧めますが、自分は受けていない人が多いのです。(163ページ)
医療が進歩したと言っても、やはりがんで亡くなる患者さんも少なくありません。
大事な人が亡くなるのはとてもつらいことですが、しっかりと事前に情報を集め、心の準備をしておかないと、いたずらに死にゆく人を苦しめ、あとで己の行為を悔やむことになります。
特にがんの患者さんが亡くなるときは、たいてい悪液質になっていますから、状況を理解しない家族は、無理に食事を摂らせようとしたり、点滴や注射や酸素マスクを求めたりして、患者さんを苦しめます。何かせずにはいられない気持ちはわかりますが、悪液質になった患者さんには、静かに見守ることがもっとも楽な方法です。しかし、前もってしっかりと心の準備をしておかないと、なかなかむずかしいでしょう。
医療は死に対しては無力です。それどころか、よけいな医療は死にゆく患者さんを苦しめるばかりです。よけいな医療というのは、死を遠ざけようとする処置です。
こういうイヤだけれどほんとうのことを、医療者がなかなか口にしないのは、患者さんや家族から「見捨てるのか」「あきらめろと言うのか」と非難されかねないからです。(166-167ページ)
近代までは口から食べられなくなれば、穏やかに最期を迎えていましたが、今は多くの家族が無理にでも食べさせようとします。日本では家族愛と捉えられていますが、欧米では虐待と見なされます。
しかし、医者から「胃ろうかCVポートをしなければ、このまま亡くなります」と言われれば、つい「お願いします」と言ってしまうのも人情でしょう。「わかりました。それでけっこうです」とは、よほどふだんから心の準備ができていないと言えません。(178ページ)
ただ言えることは、あまり死に抵抗すると、無用の苦しみを強いられる危険性が高いということです。
だれしも若いうちは死にたくないので、死を受け入れられず、医療の力で死を免れたいと思うでしょう。治る病気はもちろん治してもらえばいいし、治らなくても延命できるなら命を延ばしてもらえばいい。しかし、いったん死が避けられない状況になったら、よけいな医療はせずに、自然に任せるのがもっとも穏やかな最期を迎えられます。(181-182ページ)
ところが、家族はちがいます。大切な身内に死んでほしくないという思いは当然のことですが、それは見方を変えれば、家族の切なる願い、強い要望であると同時に、酷な言い方かもしれませんが、欲望と執着、すなわちエゴです。心から身内を思う気持ちを、エゴだなどと言われたくない。そう思う人も多いでしょうが、果たして死にゆく本人はそれを喜んでいるでしょうか。(182ページ)
老いに関しても、現実から目を背けていると、実際の老いに嘆き、悩み、苦しむばかりです。快適な老いを実現するために必要なものは、一にも二にも現状の受容、すなわち足るを知る精神です。(192ページ)
老いるということは、失うことだとも言われます。体力を失い、能力を失い、美貌を失い、余裕を失い、仕事を失い、出番を失い、地位と役割を失い、居場所を失い、楽しみを失い、生きている意味を失う。
そんな過酷な老いを受け入れ、落ち着いた気持ちですごすためには、相当な心の準備が必要です。
若いときから優秀だった人は、人生で得たものが多い分、失うつらさにも耐えなければなりません。仕事で高い地位についていた人は、リタイアしてふつうの人になることに抵抗があるでしょうし、頭がいいと言われていた人は、記憶力や計算力が衰え、言いまちがい、勘ちがいなどを指摘されると腹が立ち、逆にショックを受けたり、落ち込んだりします。
もともとさほど優秀でない人は、リタイアしても同じですし、記憶力の衰えなどもたいして気にはなりません。
健康に気をつけて、どこも悪いところがなかった人も、老化現象による不具合には耐えるのがたいへんです。若いときから具合の悪い人のほうが、慣れている分、年を取ればこんなものだと受け入れやすいでしょう。(196-197ページ)
長寿はめでたいというのが多くの人の印象でしょうが、それは未だ長生きをしていない人の感覚です。実際に長生きしている人の苦しみは、本人にしかわかりません。これだけ平均寿命が延びた今、長生きしすぎることの苦しみ、不都合、悲惨さは、すでに目を背けられない状況になっています。
適当なところで死ぬ。これがもっとも楽で賢明で、当人にも家族にも社会にも有益なはずですが、死を肯定するような意見はとかく人気がありません。(203ページ)
私も自殺が好ましいとは思いませんが、もし自殺を企てている人を止めるなら、その人が抱えている問題や悩みを解決するか、少なくとも気持ちが楽になるような手立てを講じてからにすべきではないでしょうか。それをせずに単に「自殺するな」と言うのは、死ぬほど苦しい思いをしている当人に、「我慢しろ」と言っているのと同じで、それこそ人の気持ちのわからない冷たい態度だと思います。(203-204ページ)
仕事が途切れて不安になったとき、私はその状況を必死に受け入れようとしました。足掻いても仕方がないし、自分が状況を変えられるわけでもない。だったら、この状況と折り合いをつける以外にない。不安定になる自分をなんとか抑え、仕事のない状況のメリットを考えるようにしました。執筆の苦しみからの解放や、自由な時間が増えることなどです。しかし、ヒマになっても、することがなければ退屈するばかりでしょう。それでも、何事にもいい面と悪い面がある、仕事がないことにもいい面はあるはずだと、懸命に頭を絞りました。
そうやって、自分をコントロールしようと苦しんでいたとき、幸運にも新たな原稿の依頼があり、救われた気がしました。まるで不治の病におかされかけていたとき、特効薬に巡り合ったような気分でした。(210ページ)
それはとりも直さず、欲望と執着を捨て、老いや死を受け入れることの大切さを物語るものでしょう。よりよい介護を求めることも重要ですが、不足にばかり目を向けて、不平不満を募らせるより、与えられた状況に感謝し、足るを知るほうが、心安らかに決まっています。(216ページ)
「ねずみ男!! なんてことをいうのだ "老後"というのはおもったよりいいものなんだ(略)「人生の夕日」これがまた意外にいいもんなんだヨ 若いときは成功しようとかなんとか欲があるが すべてが過ぎ去って年をとり 自分が決まって欲がなくなるというのか 今まで気づかなかったいろいろなものが見えてくるのだよ 人間とか 人生とか いや さまざまなことが 今までにない姿で見えてくるのだヨ 若い時のようにくだらぬ邪心が消えているというのか 正に人生は六十からだよ」(224-225ページ)
「今から思うと、あのころがいちばん幸せだった、気づかなかったけれど」
その言葉が胸に響き、私は自分も今がいちばん幸せなのに、気づいていないのかもしれないと思うようになりました。もちろん、いろいろ不平不満はあるけれど、大きな不幸がないならそれは感謝すべき状況ではないか。
そう思うと肩の力が抜け、一気に楽になりました。日野原重明氏は、著書で「人はえてして自分の不幸には敏感なものです」と書いています。逆に言えば「幸福には鈍感」ということでしょう。
不平や不満を言う人は不幸な人です。幸福な人は文句を言いません。幸福かどうかは自分が感じることですし、すべては比較の問題ですから、どんな状況でも人は幸福にも不幸にもなれるわけです。
実は今がいちばん幸福なんだと気づけば、これからどう老いるべきかということも考えずにすむでしょう。
幸福に浸っているときには、人はあれこれ考えないものですから。(229ページ)