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「ウンコはどこから来て、どこへ行くのか」

「ウンコはどこから来て、どこへ行くのか」(湯澤規子 ちくま新書)

大学教授の著者による、「人糞地理学」についての本。糞尿の扱いについて、地理学、歴史学、経済学の観点から幅広く考察を行っている。「汚い」という言葉の背景の考察(18-19ページ)、ケニアの「フライング・トイレット」(32ページ)、イギリスでの「Night Soil」(47ページ)、古典での糞尿観(49ページ)、西欧の見方(63ページ)、近世の記録(67ページ)、愛知県の織物工場史料(79ページ)、都市化・伝染病(104-105ページ)、沖縄の「フール」(134ページ)、清浄野菜(146ページ)、国鉄のトイレ(161ページ)、トイレットペーパー騒動(169ページ)、落し紙以前のお尻拭き(172ページ)、パリの糞尿(202ページ)、ゴーギャン(204ページ)、などなど、本当に幅広い話題に及んでいて、読んでいて驚かされた。

 だから、こんな風に言えるかもしれない。ウンコは汚物に生まれるのではない、汚物になるのだ、と。そして現代、もはやウンコは汚物とさえ意識される間もなく一瞬で水に流され、次の瞬間には目の前から見えなくなり、その存在はまるで無かったかのように、忘れさられてしまう。
 では、ウンコがそのような状況に至ったのは、具体的にはいったいどのようなプロセスだったのだろうか。そして、私たちはそのプロセスの中で、ウンコに対する認識を、生きることの意味を、世界への理解を、どのように変化させてきたのだろうか。
 ウンコはどこから来て、どこへ行くのか。
 本書ではその歴史をひもときながら、「自分」であり「他者」でもあるウンコに向き合い、「身近さ」と「得体の知れなさ」が織りなす、ウンコと私たちの関係世界を考えてみたい。(11-12ページ)

 しかし、よくよく考えてみると、「汚い」という言葉がもつ意味はいずれも、「触れたくない」、「不快」、「下品」、「いやしい」、「けち」など、汚いと言われる対象物(客体)そのものがもつ特徴というよりは、それに向き合っている人(主体)の価値判断から生まれるある種の「評価」であることがわかる。つまり、「汚い」と名づけられるものは、それ自体が汚いのではなく、「汚いと思われている」ものである、というほうが正確な説明ということになる。(19ページ)

 では、あらためて、ウンコとは何だろうか。
 辞書を引いてみると、「大便をいう幼児語」、うんちとも言う、とある。「ウン」はいきばる声、「コ」は接尾語である。しかし、これだけでは説明に深みがない。そこでウンコを漢字で書いてみよう。すると、「大便」のほかに、「便」、「糞」、「下」、「屎」などがあることに気づく。そして、ウンコには、じつに様々な表記があることに驚かされる。ひとつのモノに対する表現の豊かさは、そのモノがもつ意味の多様性や、多面性、人間との関わり方が複雑かつ変幻自在であることなどを表している。(25ページ)

 西欧の農業では、家畜の糞尿を肥料に使ってきたため、人糞尿を同様の資源と見なす発想自体がなく、思いがけないものだった。(63ページ)

 都市化と伝染病の流行が相まった時代状況の中で、ウンコはいよいよ「汚物」として、人びとに広く認識され始めた。昭和初期に大阪市衛生研究所は、下肥を施された野菜を「汚染野菜」と称し、人糞尿を肥料として用いないことと、汚染水によって洗浄しないことによって伝染病を解決することができるという見解を発表した。(120ページ)

 ここに登場するフールとは、「豚便所」のことである。
 戦前の沖縄では、石積みの便所と豚小屋が一緒になったフールがごく普通にどこでも見られた。人間のウンコは豚の飼料になっていたのである。沖縄では、この豚を食用とするだけでなく、豚の糞尿を敷き藁と一緒に発酵させて有機肥料とし、作物を育て、それを食用とするという循環が成り立っていた。(134ページ)

 今日の日本で、ウンコがかつてのように農地に還ることは困難になった。しかし、それはウンコが汚いからなのではなく、むしろ、私たちの食べものや下水道に流すものが変化した結果であった。だから、物質的な豊かさ、時間を節約する便利さ、衛生的な暮らしを求め続ける私たち自身にもその責任があるということを、あらためて考えてみる必要は、やはりあるのだと思う。(194ページ)

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