現役ゲイ京大生ふりしゅんのプロフィール(ゲイであることに悩み自殺未遂を引き起こしてから、ゲイをオープンにして苦しみから解放され、ゲイ(バイ)向けの情報発信を始めるに至るまで)
こんにちは、初めましての方は初めまして!
現役京大生ゲイのふりしゅんと申します。
現在、主にTwitterを使って、ゲイ(バイ)であることに悩んでいる人のための情報発信を行っています。
(僕のアカウントはこちら。 ユーザー名 : @furishunforLGBT)
僕は、ゲイであることを完全にオープンにしており、家族・中高時代の同級生、大学のサークル仲間達には全員にカミングアウトしつつ、みんなと良好な関係を築きつつ毎日を生きています。
しかも、カミングアウトしたゲイだからこそできる、面白い経験も数多くしています。例えば…
女友達の恋愛相談に乗ったり、男との性交渉のあり方について深く語り合ったりする
VIO脱毛のことについて女友達とあるある話を繰り広げる
美人な彼女持ちの親友と、その彼女さんと3人でUSJに行ったりお泊り会したりする(親友曰く、『お前は絶対俺の彼女に色目使うことがないから安心できる』『それと男と女の目線を両方とも持ってるから彼女も色々相談しやすい』らしい笑)
こんな経験は、普通の男性じゃまず経験できないでしょう(笑)。
今の僕は、ゲイであることを素直に認め、かつゲイであることを活かして、毎日を楽しく生きています。
しかし、こんな風に毎日をエンジョイできるようになるまでには、本当に様々な葛藤がありました。
なんなら自殺未遂だって数回にわたって起こしています。
今回は僕ふりしゅんが、生を受けてからゲイを自覚し、ゲイであることに葛藤を繰り返しながら今に至るまでの生い立ちを書いていこうと思います。
『ゲイをオープンにしている人でも、昔はこんな悩みを抱えていたんだな…』
というのを感じ、少しでも僕のことを知っていただけたら幸いです。
なお、どうしてもゲイとしての生い立ちを書く上で必要不可欠だったので、オブラートに包んではいますが下ネタも含まれています。
その点だけご了承ください。m(__)m
創業300年越えの老舗調味料屋の一人息子として生を受ける
僕は、地元ではそこそこ有名な、老舗調味料屋の社長の一人息子として生まれました。(実は県内で、記録が残っているものの中で10番目に古い会社らしいです笑)
親としてはなかなか子供ができず、ようやくできた子供に大喜びだったそうです。
そんな僕は、一人っ子で他に兄弟がいなかったこと、そして毎日両親が実家の会社を働く姿を見ていたことから、「将来はここを継ぐことになるのかなぁ」と、幼いころから思っていました。
両親としては継ぐことを強制したつもりはないらしいのですが、両親の知り合いの方や会社の従業員さん達から
「よっ、おぼっちゃま!」
「かわいい未来の社長さんだこと!」
「将来大きくなった時にどんな風に会社を変えてくれるのか楽しみだよ!」
ということを言われ続けてました。
なので、自分の中で『僕は将来ここの会社を継ぐんだ。そのために色々と考えたり経験したりしよう!』という思いが勝手に刷り込まれていました。
(ただし、僕はその思いが刷り込まれたことに対し、嫌な思いは持っていませんでした。販売されている商品の味は大好きでしたし、何より創業300年越えの会社の跡取りであることに誇りがありました。)
女の子に囲まれて育った小学生時代
そんな僕は、小学校に上がると、母親の『自称』英才教育を受けることになりました。
その時やっていた習い事は
「中学受験のための進学塾」「英語塾1」「英語塾2(英語の劇)」「公文」「プール」「テニス」「ピアノ」「エレクトーン」「日本舞踊」
の9つ。今書き起こしてみて、改めてすごい量の習いものをやらされてたんだな、と思いました。(笑)
(母曰く、1人っ子だったのと、子供ができるまでに時間がかかり貯蓄がいっぱいあったからここまで通わせることができた、とのことです。だとしても通わせすぎ笑)
ただ、この中で将来的に役に立ったのは、『中学受験のための進学塾(県内有数の中高一貫校に進学できた)』『プール(泳げるようになった)』『ピアノ(絶対音感獲得して好きな曲を耳コピできるようになった)』くらいですね(笑)
とはいえ、このたくさんのが、僕の性的指向に関わる1つの大きなターニングポイントだったんじゃないのかな、と思っています。その理由は2つ。
1つめは、習い事で関わる人達が、女子の割合が多い、あるいは女子だけという環境ばかりだったから、というものです。
もちろん進学塾のように男子の割合が多い習い事もあったのですが、大半は女子の割合のほうが多かったです。
特に、ピアノ・エレクトーン・日本舞踊は、僕以外全員女の子。
そのような、周りに女子がいる環境がぼくにとって当たり前だったからか、本来男女の差を意識し始めるであろう小学校高学年になっても、女の子と一緒にいてドキドキする、という感情は生じませんでした。
そして2つめは、毎日のように習い事に通う代わりに、同級生の男子たちと放課後遊ぶ時間がほとんど取れなかった、というものです。
小学校時代の同級生はみんな、放課後になると近くの公園に集まって野球やサッカーを楽しんでました。(今は球技ができる公園ほとんどなくなっているみたいですね。悲しい)
そして、その中で親交を深めていたのでしょう。
対して僕は、毎日習い事があったため放課後のそういった遊びに参加することはほぼできませんでした。そのため、自然と仲間外れになり、最終的には4年間ほどいじめられてました。
そんなこともあり、今でも未だ交流のある小学校の時の友達は、いじめられてた時に影から僕を支えてくれた子1人だけです。
しかし、習い事で他の子達と交流ができたので、そこまでいじめや原因で苦しみ続けことはありませんでした。学校でも、影で支えてくれた友達が一人だけとはいてくれたのも大きかったかもしれません。
(それよりも、後にゲイであることに苦しみ自殺未遂を起こした時のほうが誰にも相談できずよっぽど辛かったです。)
初めての精通。それは男の人のエッチな動画でだった
小学校高学年になると、受験勉強が本格化しました。
とはいっても、テレビに出てくる中学受験のドキュメントみたいに死に物狂いで猛勉強していたわけではなく、自分が勉強したい時にやりたい科目をやっていただけなんですけどね。
(受験日当日、僕が過去問を1年分しかやっていないことがバレた時は、母親が腰を抜かしてました笑)
そして、人生の中で、僕の中では受験勉強と同じくらいのイベントがこの時期に起こりました。それが、性への目覚めと精通です。
小学校6年になった頃から、『エロい』『興奮する』という感情を抱くようになりました。
ただ、普通の人と違ったのは、女の人のグラビアとかセクシーな衣装ではエロさを感じることはなく、テレビに出てくる男性タレントの上半身裸の姿を見て、エロさを感じていた、ということです。
(異性愛者の方は少しイメージしにくいかもしれないですね。僕は女の人のセクシーな姿を見ても、「スタイル整ってるなぁ、ちゃんとボディメイク頑張ってるんだろうな」という印象以外は抱かない、って感じです。)
そして、陰部を触ると気持ちいいことに気づき、更にエロい画像や動画をみるとその部分が硬く、大きくなることを初めて知りました。
そして触り続けることで初めての射精(精通)が起こりました。
もちろん、女ではなく男の画像や動画で。
これが、僕の性的指向を決定づけたと考えています。
ゲイという言葉を知り、自分がそれなんだと自覚する中学前期
しかし、その当時は自分が他の人と違うということは自覚していませんでした。いかんせん、関わる人達が習い事の女子達ばかりだったので(笑)
しかし中学受験に合格して入学後、男子の友達を作っていく中で、段々と自分と周囲の友達との違いを自覚し始めます。
周りの友達は、クラスの女子の誰がカワイイか、胸が大きいかって話で盛り上がっているのに、僕はそんなことには完全に無関心。
それよりも、今話してくれている目の前の男子の顔のほうがイケメンで気になって仕方ない。
こんな状況があまりにも続くので、
「あれ、流石にこれ俺なんかおかしくね?」
と思い、ネットで自分のことについて検索しました。
確か、『男 女性 興味ない』 というワードで検索したかと思います。
そこで出てきたワードが、『同性愛者』そして『ゲイ』という言葉。
その言葉の意味を知り、僕は、すごく腑に落ちました。
「ああ、僕はこの同性愛者、ゲイってやつなんだな。」と。
こんな風に、中学2年の夏に、僕は自分がゲイであることを自覚しました。
誰にも言えず悶々としていた中学後期
しかし、自分のセクシャリティがわかったところで、友達との話が合わないという問題は解決されていません。
周りが女子の話で盛り上がっているならば、その空気を壊さないように女子に興味があるように振る舞う。(本当は全く興味ないけど)
女子のどのパーツが好き?と聞かれたら、とりあえず王道の胸と雑に応える(本当は男の胸板のほうが好きだけど)
女子の更衣室覗きに行く?って友達に提案されても、「そんなことして何が楽しいの?」状態。(男子の着替え見られるだけで眼福です)
みんなの近くにいるはずなのに、何故か仲間外れにされている気がする。そんな孤独感をずっと感じていました。
その中でもキツかったのは、体育の着替えの時。
クラスの男子達がお互いじゃれあっていたら、
「おいおいお前らホモかよ(笑)」
というヤジがいっぱい常に飛んでいました。
(ちなみにホモというのは、男性同性愛者の蔑称です)
「僕はその『ホモ』というやつなんだけど、どうすればいいんですか…?」
という思いを心に秘めつつも、誰にも打ち明けられない日々が続いていました。
そんなこんなでクラスのみんなにうまく馴染めなかった中学時代ですが、中学3年の最後に転機が訪れました。
うちの中学校は年に1回合唱コンクールというものがあって、その時の合唱の際には必ずピアノを演奏する人もクラスから選出されていました。
しかし、中3の時にクラスで合唱することになった曲は弾く難易度が高くクラスの誰も手を挙げない状態。
僕は中学校でもまだピアノを続けていたこともあり、
「ここで手を挙げればクラスのヒーローなれるんじゃね?」
とバカ素直に考えました。
そしてピアノ演奏に挙手。その後は合唱コンクール当日まで、毎日2時間猛練習をしましたよ。
結果、合唱コンクールは無事成功。更には全クラスの中で一番演奏が良かった人に与えられる「最優秀演奏賞」も獲得しました。
その結果、クラスのみんなから注目を浴びることに成功。
クラスのヒーローになるという、バカ素直な目論見が見事達成されました。
高校デビューをし、交友関係が大きく広がった高校前期
合唱コンクールを経てみんなからの注目度を上げることに成功した僕。
「この流れを利用すれば、もっと色んな人と仲良くなれるんじゃね?」
そう画策した僕は、同級生の関係性を観察し、高校からの自分のなりたいポジションを決めることにしました。
(ちなみに中高一貫校なので、高校デビューと言っても中学時代と同級生の顔ぶれは変わりません)
その結果、
男子と女子の間の交流がメチャクチャ乏しい(必要最低限しか会話しない)
しかし僕はゲイであるが故に女性と話す時に一切緊張しない
陽キャグループと自然に話せるようになりたいけど、所属してる陰キャグループにもメチャクチャ仲のいい友達がいるからその繋がりは切りたくない
これらのことが分かりました。
これを踏まえ、高校に進学した僕は
『男子とも女子とも、そして陽キャとも隠キャとも分け隔てなく話せる、架け橋のような中性キャラ』(中性というのは、男女の間、陰陽の間というダブルミーニング)
というコンセプトで高校デビューを行いました。
結果は、自分の想定とは少しずれた方向にいったものの概ね成功。
僕が(ゲイであるが故なのか)少しずれた感性をもっていたらしく、
『男女・陽キャ陰キャ問わず、同級生全員からいじられる天然ボケキャラ』
として、個性を確立することができました。
(注:小学校とは違い、決していじめではなかったです。皆愛のあるいじりをしてくれました。そのバランスが分かっているあたり、さすが中高一貫の進学校だな、と思いました)
このキャラ立ては、今思い返しても本当にうまくいったな、と思っています。
このキャラのおかげで、同級生の誰とでも仲良くなることができました。
それに加え、高校卒業から8年以上経った今でも、同級生に一切の抵抗なく連絡できます(かつみんなも連絡に応えてくれます)から。
僕にとって、高校時代の同級生とのつながりは、本当に大切な財産です。
性欲の暴走、そして初体験をした高校中期
ただ、まだこの時期は同級生へのカミングアウトは一切していませんでした。
だから、色んな人と仲良くなれても、中学時代と同様のゲイを打ち明けられないことに対する孤独感は感じ続けていました。
それに加え、年齢を重ねるごとに、性欲もどんどん強くなっていきました。
顔がタイプの男友達といると、話しているだけでムラムラが止まらなくなったりもしました。
そしてそれはどんどんエスカレートし、友達とお泊り会をした時、寝ている友達の乳首や陰部を触ったり、コッソリキスしたり、ということもするようになってしまいました。
もしこれが女性に対してだったら、完全にセクハラで捕まってますね。(汗)
しかし、そんなことを何回も繰り返していてはいつか感づかれます。
お触りしていたことが友達にバレ、必死に言い訳をしてごまかしたことも何度もありました。
「このままじゃヤバイ。せっかくできた友達を失ってしまう!」
「けど、性欲が強すぎて抑えられそうにない」
そう思った僕は、この問題を解決するために、更に深淵の世界へと足を踏み入れることになります。
ゲイ向けの出会い系アプリです。
今でこそPairsやTinderなど、異性愛者向けの出会い系アプリも普通に見かけるようになりましたが、その当時は異性愛者向けのそのようなアプリはいかがわしもの、という視線で見られていました。
しかし、ゲイの出会い系事情というのは異性愛者のそれより数歩先に進んでおり、アプリで出会うことが当時から普通でした。
(おそらく、ゲイというセクシャリティを公にカミングアウトすることができない環境だからこそ、アプリを通じて秘密裏に出会うということが当時から主流だったのだと思います)
出会い系アプリなので本来18歳未満は登録できなかったのですが、僕は年齢を18歳と偽って無理やり登録しました。(中高生のよい子は絶対真似しないでね。出会った相手の人が逮捕されちゃう可能性あるから。)
そこでやりとりを重ねて、初めてリアル(実際に会うこと)の予定を立てて会うことになりました。
そのリアルは忘れるはずもありません。何せ、それが僕の初体験だったんですから。
相手の方は当時22歳で、髪の毛ショートのちょっと男らしい系の人。
会ってすぐにその人の車に乗せてもらい、川の岸辺まで車を運転してもらいました。
そして岸辺の人気がないところで車を止め、初めての男同士でのディープキス。
最初は緊張していましたが、段々と理性がなくなって欲望のままに相手を求めるようになり、最終的なA・B・CのCまで行ってしまいました。
(A・B・Cの意味がわからない方は調べてください。直接的な表現は避けますが、まあ、そういうことです。)
まあそれはそれは、記憶に焼き付く衝撃的な初体験でした。
その方とはやってバイバイした後再び会うことはなかったのですが、すっかりアプリにはまってしまい、月1のペースでリアルを繰り返し性欲を発散していました。
ゲイであることへの葛藤。そして1度目の自殺未遂をした高校後期
このようにして、性欲の暴走はある程度抑えることができるようになりました。
しかし同時に、この時の僕は2つの大きな悩みを抱えていたこと。
1つ目は、結婚に関する悩みです。
仮に同性婚が日本で認められていたとしても、子供を作ることは今の技術では不可能です。
このことで悩んでいる同性カップルも結構いると思うのですが、僕の場合、その悩みは常人の比ではありません。
『僕が子供を作らなければ、実家がつぶれる』という問題に直面していたからです。
うちは代々家族経営である、その世継ぎ候補となるのは1人っ子のため僕しかいませんでした。
そのため、家を存続させていくには、僕が女性と結婚して子供を作ることが必須事項でした。
僕はその当時実家の家業が誇りだったし、家業を守っていきたいということを本心から思っていました。
しかし、それを実現する為には、恋愛・性的対象として全く惚れない女性と結婚をしなければならない。
それは同時に、仮に好きな彼氏ができたとしても、一生を添い遂げることができない(すなわち、いつか必ず別れる)ことが確定している、ということでした。
大好きな会社を守るには、自分の恋愛感情は封印しなければならない。
このギクシャクした感情が、自分をどんどん追い込んでいました。
そしてもう1つは、同級生で本気に好きになってしまった人が出来たこと。
同級生に対するムラムラそのものは、出会い系をすることで抑えることができました。
しかし、恋心となると話は別です。
好きになってしまったのは、中学時代からずっと仲良くし続けてきた子。
スポーツ万能で異性からよく黄色い歓声を浴びていたのに、本人はオタク気質が強く、二次元にドはまりしていた、というかなり変わった子でした。
元々「この子と一緒にいると楽しいな」とは思っていました。
しかし、高校に入り、より人柄を知っていく中で、
男友達に対しては誠実に面と向かって話をしてくれること
かつ深入りしすぎることはなく、相手が心地よいと感じるパーソナルスペースを保ってくれること
と、相手に対して常に気配りができるところを目の当たりにする中で、その子のことを、ひとりの人間として尊敬し、かつ男として非常に魅力的に感じるようになりました。
そうして、最終的には恋心を抱くようになったのです。
しかし、その子は中学時代から4,5年かけて関係を築いてきた、とても大切な友人。
「告白したら、今までの培ってきた関係が壊れてしまうかもしれない。」
「仮に告白がうまくいったとしても、実家のことがあるからいずれ別れなければいけない。」
「ならば、僕と付き合ったとしても、結局その子を不幸にするだけだ。」
とこのように、好きなのに、いや、『好きだからこそ』相手のことを考えると告白ができない、という状況に陥ってしまい、とても苦しみ続けることになりました。
この2つの悩みが、ぼくの精神を窮地にまで追い込んでしまいました。
そして最終的に、
「こんなにゲイであることに苦しみ続けなければいけないのなら、死んだほうがマシだ!」
と思い、自殺を決意。自室で首つりの用意をするまでに至りました。
しかし、死ぬ前に悔いは残したくないと思い、最後の連絡のつもりで好きだった子に連絡。
そしてゲイであること、そして好きであることを告白しました。
当然、告白の返事はNo。しかし。
「俺がふりしゅんのことを大切な友人だと思う気持ちはこれからも変わらない」
「もしこれから困ることがあったら俺に相談してくれ。何があっても、俺はふりしゅんの味方だから」
と言ってくれました。
その言葉に、どれだけ救われたことか。
初恋は叶わなかったけど、初めて自分がゲイであることを打ち明け、それを受け入れてくれる人ができた。
たった1人ですが、その1人ができたことで、
「もう少し頑張って生きてみよう」
と自殺を思いとどまることができました。
その後、その告白相手兼僕の命の恩人とは何でも相談しあえる仲になり、高校卒業から8年以上経った今でも、お互いに一番の大親友です。
(その親友がつい先日結婚しました。純粋に「おめでとう」って言えるようになった自分に対し、成長したなぁ、と思ったりしてます。)
京大への入学。そして勢いに任せた高校同窓会でのカミングアウト
その後、受験勉強に励み現役で慶應の経済学部に入学。
しかしその後、「やっぱり食品の勉強したいから農学部行く!」と思い、慶應に通いながら独学で受験勉強を並行し、翌年に京大の農学部に入りなおしました。
このことも話せば長くなるのですが、ゲイの話の本筋とはズレてしまうので、今回は軽く触れる程度にとどめます。
(余談ですが、この活動とは別に、高校生を対象に京大・早慶合格をサポートする受験指導も行っています。中学校で習う知識さえ持っていれば、高校の知識ゼロからでも1年で京大・早慶合格まで持っていくことが可能です。もし興味ある方がいればコメントください。別途詳しい記事を書きます)
京大に入学後は、京大受験をする受験生をサポートしたり、オープンキャンパスを運営したりするサークルに加入。
しかし、そこでもまだ、自分がゲイであることをカミングアウトすることはできませんでした。
「『変人の巣窟』と言われる京大であれば、ゲイってことくらい普通に受け入れられるんじゃないか?」
と思ったりもしましたが、それでも最後に一歩を踏み出す勇気がありませんでした。
でも、このままゲイでないことを言えずモヤモヤし続けるのは嫌だ…!
内心ではずっとそう思い続けていました。
その想いを抱え続けて迎えた、成人式を兼ねた高校の同窓会。
ここで、(結果的にはいい方向に収まったからいいものの)かなりの大事故を起こしてしまいました。
大好きだった高校の仲間に久しぶりに会えたということもあり、かなり気分がよくなりお酒をガブ飲みしてしまいました。
僕は普段は結構お酒に強く、理性が緩くなるということはないのですが、その日は場の雰囲気と久しぶりの再会の喜びが合わさって、珍しく酔いが回りました。
その中で、かつて僕がセクハラしてしまった子が近づいてきて
「ねえ、ふりしゅんって結局男が好きなの?」
と聞いてきました。
当時の自分は、いつもなら絶対に否定してたところなのですが、この時の棒は理性がぶっ飛んでおり、
「うんそうだよ~、昔ちょっと君にいたずらしたことあるの、気づいてたよね~?あの時はごめんね~」
と、普通にカミングアウトしてしまいましたwww
すると、その周りにいた同級生達も、
「え、ふりしゅんってゲイ(同性愛者)だったの?」
と次々聞いてきたので、全員に
「うん、そうやでー」
と、軽いノリで応えていました。
結果的に、その話はどんどん同級生のメンバーに伝わり、同窓会が終わる頃には、参加メンバーのほぼ全員に自分がゲイだということが伝わってしまいました(笑)
とはいえ、みんな同性愛について興味津々に聞いてきてして場の空気が冷え切ることはなかったので、その時は何も感じることはありませんでした。
もちろん、後に冷静になった時は
「ああ、僕はなんて大事故を起こしてしまったんだ…」
と一瞬途方に暮れましたけどね。
初めてカミングアウトをして受け入れてくれた現親友にも、
「いきなり普通にカミングアウトし出すから、聞いてるこっちのほうが冷や汗かいたぞ!」
ってちょっと怒られました(笑)
その後アフターフォローのために、急いで同級生みんなに個別に連絡を入れました。
しかし、帰ってきた答えは、意外なものでした。
「別に気にするようなことでもないでしょ」
「というか、ふりしゅんは元々のキャラが濃すぎて、ゲイという要素でさえそのキャラに塗りつぶされちゃってるよ笑」
とのこと。
高校で中性キャラという独特の立ち位置を確立していたことが功をなしたのか、事故で始まった高校同級生へのカミングアウトは、あっさりと受け入れられて終了してしまいました。
人間関係を劇的に変えてしまう人生の一大イベントだと今まで思い続けていた僕からすれば、正直拍子抜けでした。
まあ結果的に、最高の財産だと思っている高校の同級生達に隠し事がなくなったのは、今まで抱えていたモヤモヤが消え去る感覚がして、とても心地よかったです。
「あれ? これってもしかして、カミングアウトのやり方工夫すれば意外と受け入れられるんじゃね?」
この事件をきっかけにそう考えた僕は、親しい人を中心に、少しずつカミングアウトを実践していきました。
大学時代にできた新たな親友、何でも受け入れてくれるサークルの先輩、純粋に自分を慕ってくれる後輩。
彼・彼女らに対し、同窓会での経験を元に、やり方を毎回変えつつ、少しずつカミングアウトをしていきました。
やはり京大という環境が良かったのか、カミングアウトをしてもほぼ全員があまり驚くことなく受け入れてくれました。
(一番大きかったリアクションで、「おおー、話には聞くけど実際にゲイの人には初めて会ったわ! 色々話聞きたい、面白そう!」って感じでしたからね笑)
大好きで告白した相手にSNS全ブロックされ、就活もうまくいかず鬱気味に。
そんな感じで、少しずつカミングアウトをしていき、理解してくれる人が増えてきたころ、僕は再び恋をしました。
好きになった相手は、自分のサークルの後輩男子。
本人は自分がイケメンじゃないと自虐していましたが、その少し男くさい感じのする見た目が好きでした。
その上、冷静に物事を考えられる人で、あっちこっち思いつきが激しい性格の僕には持ち合わせていないものを持っているところが非常に魅力的でした。
とはいえ、高校時代の時同様、仮に付き合えたとしても相手のことを考えればいずれ別れなければならないことは分かっていました。
でも、好きな気持ちを抑えることはできませんでした。
そのため、
「独りよがりかもしれないけど、カミングアウトをした上で告白し、自分の気持ちをなんとか受け入れてもらおう」
「その上で、叶うなら後輩以上恋人未満の関係になれるようにしたい。それ以上は求めない。」
と考え、行動を起こしました。
いきなりカミングアウトと告白を同時にすると、衝撃が大きすぎて拒絶されるだろうな、ということはなんとなく予想がついていました。
そのため、まずはカミングアウトから試みることにしました。
今まで何度か場数を重ねてきたこともあり、カミングアウトは無事成功。
次はいよいよ、告白という段階になりました。
後輩に親切な態度をとったり、さりげなく好意を示す発言をほのめかすことを繰り返したりして、外堀りは自分ができる限りしっかり埋めました。
そして、いよいよ告白をすると決めた当日に。
この日のことは、今でも強く記憶に残っています。
僕は、サカナクションのライブにその子と一緒に行くことにし、その帰りに告白する、という作戦を立てました。
その理由としては、
予めその子がサカナクションが好きだとリサーチ済み、ライブのチケット取ることで返報性の心理(何か提供を受けたらお返しをせずにはいられない心理)が働くかな、と思った
ライブ後の興奮状態だったら、告白した時に、勢いで受け入れてくれる可能性があると考えた。
こういうことを考えていました。京大生らしい、なかなかゲスい発想だと思います(笑)
ライブ会場までの移動時間、そしてライブ中も、
「これが終わったら告白するんだ…」
という気持ちでいっぱいで、正直ライブの記憶はほとんどありません。
そして、ライブ後、いよいよ告白!
…となるはずが、日和ってしまい、ライブ会場では告白できずそのまま帰りの電車に乗ることに。
「何やってんだ俺!このままじゃあ今までと何も変わらないぞ!!」
そう電車の中で自分に喝を入れ、
「この後バー寄ってかない?」
と、再度告白する場を自分で取り付けました。
しかし、そこでも告白できず、結局そのまま解散。
それでも諦められなかった僕は、最悪の一手を投じてしまいます。
それは、電話での告白です。
帰った後、彼に電話し
本当は今日告白するつもりでライブに誘ったこと
ずっと前から好きだったこと
だけどお前が同性愛者ではないことは分かってるから、付き合いたいというわけじゃない。これからもかわいい後輩として仲良くしてくれ
と、僕が思っていることをほぼ一方的にしゃべり、電話を切ってしまいました。
一応、相手も
「あー、そうなんすね。」
「了解ですー」
みたいな感じであいまいな応対はしてくれたものの、ほとんど僕の1人語りでした。
そんな感じで、最悪な形で告白をしてしまった夜。
次の日になって、SNSを見てみると…
Twitter, Instagram全ブロック。LINEも1週間以上既読つかないから恐らくブロックされている。
と、考えうる中で最悪の結末になってしまいました。
高校時代の現親友に告白した時は受け入れてくれたので、甘くとらえていました。
初めて、告白をしたことで完全に拒絶されてしまったこと
そして、完全に拒絶されるくらいに相手の心を傷つけてしまったこと。
この2つから、とてつもない自己嫌悪に陥り、うつの症状に陥ってしまいます。
しかもこの時期は就活も重なっていて、そちらもことごとく惨敗。
( 京大生なんて就活楽勝なんじゃないの? と思われるかもしれませんが、その時の僕は『10年以内に実家を継ぐので、そのためにここで学びたいです!』ということを普通に面接で言ってました。長期で働く見込みのない人を会社が採用したがるわけないんですけどね笑 本当に愚かでした。)
失恋と就活、この2つのパンチで僕の気分はかなりどん底に近づいていました。
しかし、この時は自殺するまでにはいかなかったです。
ある方法で、気分を切り替えていたからです。
それは・・・ セックスです。
とにかく気分が落ち込んだ時は、セックスをしまくることで気分を紛らわしていました。
それはもう性に奔放という言葉が生易しいくらいにセックスをしまくっていました。
一番ひどい時は、3日で6人と別々に会ってセックスしてました(笑)
(こんだけ色んな人と簡単にセックスできるなら、ふりしゅんはさぞイケメンなんだろ?と思われた方。残念ながら全然そんなことはないです。
ゲイの世界は色々なものが重なり、異性愛者の世界に比べ、セックスするためのハードルが恐ろしいくらいに低い。ただそれだけのことです。
願わくば僕もイケメンに生まれたかった笑)
とはいえ、セックスによる気分転換は一時しのぎにしかすぎませんでした。
気分がどんどん落ち込む→ひたすらアプリなどで相手を探しまくって予定を立てる→連日セックスで一時的に気分がよくなる→疲れてセックスをしなくなったらまた気分が落ち込んでいく
というループに、しばらく囚われ続けていました。
流石にこの状態が続くのはヤバイな、と思い、心療内科を受診。
そこで、『双極性障害 』という精神疾患があると診断されました。
(この病気を簡単に説明すると、短期間の気分が高揚した状態と、そのリバウンドで長期間の鬱状態が波のようにくる精神疾患です。
この話も詳しく話すと長くなるので、気になる方は調べてみてください。)
そして、薬をもらって治療をしていき、少しずつメンタルを元に戻していきました。
色々と吹っ切れた大学4回生。ゲイであることをオープンにするように。
大学4回生に入り桜が散り始める頃には、治療のおかげでメンタルはかなり改善しました。
それに加え、失恋のショックそのものも昔の思い出として水に流せるようになりました。
しかし、まだ就活の問題が残っていました。
治療のため就活をしばらくの間お休みしていたので、自分が元々行きたいと思っていた企業はほとんど募集が終了していました。
(僕はその当時、実力をつけるためベンチャー企業を志望しました。
しかしベンチャー企業は3回生が終わる地点でほとんどが募集を終了してしまうので、行きたいと思っていた企業の募集はほぼ終わっていました。)
このまま就活を続けて、志望度は高くないけどどこかの企業に転がり込むべきか。それとも、一年留年して就活をやり直すべきか。
そう悩んでいたところ、『大学院進学』という第三の選択肢が出てきました。
これを読まれている方の中には理系の方もいるかと思います。そして同時にこう思ったことでしょう。
「そもそもなんで大学院進学ではなく就活を第一に考えたの?」と。
実は、希望する学部・学科に入学したものはいいものの、自分がしたいと考えていた先生が、入学した年に他の大学に移ってしまったんですよね。
それに加え、他の先生の授業も全然面白くなく、研究内容に興味を惹かれることもありませんでした。
そのため、
「このまま大学院に行くより、早く就職して実戦経験を積むほうがいい」
という考えに至り、就活に舵を切ったわけです。
しかし、就活はうまくいかない。そして、自分の学科で行きたい研究室もない。
そこで途方に暮れていたところ、現在僕が所属している研究室を発見したことが、ひとつの転機になりました。
僕が今通っている研究室は、京大の農学部である点は学部時代に所属していたところ共通していたものの、学科が異なるところに所属しておりで、自分で調べるまでその研究室は認知していませんでした。
主に未利用食品のポテンシャルの解明や、食品の物性の評価、そして味覚や嗅覚について主に研究をしています。
例を挙げると
・まだ有効活用しきれていない食品素材(例えば梅酒を作った後に処分される梅果実とか、中身だけ食べて皮を捨てられるアボカドの皮とか)を、食品素材(例えば、水と油を混ぜ合わせたり、泡を作ったりする材料)として有効活用できないかを調べたり。
・パンの食感を改善するには、どのような調理法・材料を用いればいいのかとか。
・食事の減塩のために、食塩の代わりになり、かつ味のクオリティも維持できる素材がないかを模索したりとか。
このような研究をしてました。
僕は、この研究内容をみて一目ぼれ。
更に研究室の説明会にて、所属している先生方の人柄を知って更に行きたい欲が向上。
「絶対にこの研究室に入って色んなことを吸収する!!」
と、強く決意することができました。
ただ、その決意ができたのは7月で、大学院の入試は8月末。
流石にその年の入試には間に合わないな、と思い、翌年に受験することに。
教授のご厚意で、学部を卒業する3月まではアルバイトとして、その後の1年間は研究生といういわゆる仮配属のような形で研究室に配属することを許可していただきました。
教授には、今でも感謝してもしきれません。
研究室配属からの大学院進学。ゲイをオープンにし、より自分に正直に生きられるように
そうして、僕は大学卒業から大学院進学までの間に、一年間の猶予ができました。
ここまで、大失恋・就活・進路など、色々な問題から自分自身と向き合い、そして乗り越えてきた僕は、もう自分の本心を隠すことに意味を感じなくなりました。
そしてそれは、ゲイであることを隠すことに関しても同様でした。
「もう自分のことを隠すことなく、普通にカミングアウトをしよう。それで嫌われたのなら、そもそもそこまでの関係性だったってことだし。」
そう割り切れた僕は、カミングアウトをすることに一切の抵抗がなくなりました。
自ら積極的に言っているわけではありませんが、そういう話題になった時に、何か力を入れるわけでもなく自然と自分がゲイであることをカミングアウトするようになりました。
すると不思議なことに、周りのみんなも自然と受け入れてくれるようになりました。
この時期以降にカミングアウトした人で、関係性が悪くなった人は1人もいません。
それどころか、むしろ関係性が良くなった人もかなりいました。
自分が秘め事をしていることへの心苦しさがなくなる。
相手との関係性もよりよくなる。
なんならその独自のポジションから男女共に相談してもらえることが増える。
カミングアウトって最高じゃん! って思えるようになったのは、この時期からですね。
そこから数年間は、自分のメンタルが悪化することもなかったです。
そして、このカミングアウトの経験から、自分のしたいことに正直に取り組めるようになりました。
北海道の利尻島まで行って昆布漁をしに行ったりだとか。(なおこの時利き指を骨折して大学院入試で一波乱あってのはまた別の話)
自分の過去の性欲の暴走の経験を踏まえ、性欲コントロールに関する情報発信をしたりとか。
コロナ渦で研究室がリモートワークになったので、自室での研究環境を改善するためにモニターとゲーミングチェアを導入したりとか。
研究も、僕は研究者適性がなかったため色々と指導してもらうことが多かったのですが、それでも非常に充実していました。
そして2回目の就活は無事行きたい企業に内定。
この数年間は、本当に楽しかったです。
そう、あの事件が起こるまでは。
突然の実父(社長)の逮捕。実家の会社が大混乱に。
あれは忘れもしない、5月中旬の昼下がり。
コロナ対策が緩和されたため、研究室に赴きいつものように研究をしていたら、突然母親から鬼のように電話が。
本来僕は研究室にいる時は昼休みを除いて電話をしたりすることはないのですが、「流石にこれはただ事じゃないぞ」と思い、すぐに母に電話。
開口一番、母親は次のように言いました。
「ふりしゅん、落ち着いて聞いてね。 お父さんが逮捕された。」
一瞬、何を言っているのか理解できませんでした。
曰く
「スーパーで会計をしていないのに商品を外に持ち出してしまい、店の人に引き留められたところ(本人は会計していないことに気づいていなかったため)抵抗をして店員を傷つけた」
とのこと。
罪状としては、強盗致傷罪とのことでした。
正直話を聞いてもいまいちピンと来ていなかったため、一度現状を母と共有するために研究室に許可をもらい帰省することに。
地元に帰った時には、もう実家の会社は修羅場状態でした。
鳴りやまぬ問い合わせの電話。
取引先企業との取引中止。
会社員総出で関係者に謝罪しに回っている。
「そんなフィクションみたいなことが、現実に起こるもんなんだな…」
あまりに慌ただしい状況に、このような感想を抱くことが精一杯でした。
数日後、拘置所から解放された父は、社長時代の威厳が完全に消え失せ、やつれ切っていました。
わずか数日で人ってこんなにも変わってしまうのか、と恐怖を覚えました。
その後も会社の混乱は続きます。
当然信頼の面から逮捕された人間を社長のままにしておくわけにはいかないため、父は解任・懲戒免職処分。
母も父の配偶者であることからイメージ的によくないだろう、とのことで、新しい社長には母の妹が就任しました。
しかし、新社長である母の妹の経営のやり方は、これまでの父の経営のやり方を完全否定し、新しい体制を作っていくというもの。
確かに方針を随時変更していくのは大切です。しかしいくらなんでも極端すぎます。
確かに父の経営はトラブルも結構ありましたが、それ以上にいい点も多くありました。
なので僕としては、母の妹のやり方に対しては
「先代の悪行をなかったことにしようとするあまり、感情的になって本質的に大事な部分を見失っているんじゃないの?」
と思わずにはいられませんでした。
実際、母と母の妹は経営方針の違いで大反発し、従業員達も母派閥と母の妹派閥で二分。
退職者も続出してしまいました。
僕も、流石にこの状況はまずいなと感じ、研究の合間をぬって実家に帰り、会社の経営会議にオブザーバーとして参加するように。
母と母の妹の2人だけだとお互い話を聞く気がなく一向に議論が進展しなかったため(母も実際そうだったと言ってました)、僕が間に入り、2人の意見を整理しながら、少しずつ議論を進めていきました。
しかし、例え僕が間に入ろうって話をまとめても、二人共相手の意見には真向から反対するため、全然収拾がつかず。
僕も、研究室との二足のわらじを履いていることもあり、段々とストレスが蓄積されていきました。
それでも、「会社を守るためならば」と無理をして頑張っていました。
しかし、ついに限界が来てしまいました。
プツンと糸が切れたように、研究のことも研究室のことも、何も考えたくない状態に陥ってしまいました。
無理がたたり再びうつ状態に。療養を試みるも更に追い込まれる。
とはいえ、これまで自殺未遂やうつ症状などを繰り返し経験してきた僕としては、その原因は大方わかっていました。
双極性障害における、躁状態(テンションが高い状態)からの、うつ状態への反転です。
研究活動と経営会議のオブザーバー、これを両立しながら普通に活動できるなんて、僕のメンタルのことを考えれば躁状態であったとしかいいようがありません。
だからこそ、鬱状態が落ち着くまで、研究活動と実家の双方から距離を置いて療養しようと考えました。
実際に、療養をし始めておおよそ一か月くらいで、メンタルは好転し始めました。
しかし、そう簡単には問屋が卸しません。
好転し始めたタイミングで、親が「なんの連絡もなく」「勝手に家の鍵を開けて」僕の下宿に侵入してきました。
そもそも実家から距離置きたいから下宿にいる(しかもそのことは事前に伝えてある)のになぜ勝手に様子を見に来るのか、理解できませんでした。
いや、正確には、親としての心情的は理解できたけど、気持ち的に受け入れる余裕がなかった、というほうが正確かもしれませんね。
しかしそれ以上に僕にとってキツかったのは、『下宿』という、誰にもプライバシーを侵されることがなく安心できるはずの空間に、親がいつ入ってくるかわからないという恐怖を抱かないといけなくなったことです。
自分が安心できる空間なくなること。その恐怖と心細さは、想像を絶するものでした。
そのため、回復傾向にあっても、親が下宿に来るたびに再びメンタルがドン底に突き落とされる、ということが、何度もありました。
父の発言で実家を継ぐモチベーションがゼロに。生まれてから25年間やってきたことが全て無に帰す。
そんな感じで、メンタルが回復しかけては親によってどん底に落とされることを繰り返すこと約4カ月。
めずらしく親が1か月たっても下宿に来なかったこともあり、うつ状態に陥ってから今までで一番メンタルが回復していました。
そのおかげで研究室との教授との話し合いも久しぶりに行うことができました。
ゆっくりでいいから研究の感覚を取り戻していこうね、と優しい声をかけていただきました。
「時間はかかったけどようやく研究室に復帰できそうだな」
そう思えました。
しかし、そう思ったタイミングで、一番デカいの爆弾が投下されました。
教授と話し合いをしてから約1週間後、再び親が来襲。
当然メンタルも少し悪化はしましたが、既に教授と話し合いをしてメンタルのより回復させていたこともあり、どん底に落ちるまでは至りませんでした。
しかし、父のある発言が、僕の中にある考え全てを塗り替えてしまいました。
「もうこんだけ俺は謝ったんだからいいだろ。ふりしゅんもいい加減グズグズしてないでシャキッとしろよ、このノロマ」
・・・は?
ふざけてんのか?
そもそも、なんで俺がこんな精神状況に追い込まれたと思ってんだ?
てめえの逮捕が無かったら、俺はここまで苦しむことはなかったんだよ。
それに謝ったことを許すかどうかは、こっち側(家族や従業員、被害者等の関係者)の判断なんだよ。
何1人で、「もう謝ったから良し!」って完結してんだよ。
こんなヤツのために、俺は半年以上無理して研究室と実家を行き来して、挙句の果てにうつになったのか?
ふざけんな。もう実家なんてどうなってもいい。イヤ、潰れてしまえ。
そして、「自分のせいで300年越えの老舗企業をつぶしてしまった」と、死ぬまで一生苦しみ続けろ。
恐らく、今までの人生至上、一番真っ黒な感情に支配された瞬間でした。
おそらく、僕は父を一生許すことはないでしょう。
感情としてはいずれ許してもいいと思う時が来るかもしれないです。
でもケジメとして、父が死ぬまで、許すことも、顔を合わせることもしないつもりです。
この大事件があり、僕は実家を継ぐことへの意欲が完全になくなってしまいました。
実家に貢献しうることは何もしたくない。そんな状態になってしまったわけです。
そしてそれは、研究に関しても同じことが言えます。
僕はそもそも、『実家に役立てる』ということを大前提とした上で、大学を選び、研究室にも配属されました。
しかし、実家に貢献しうること全てに嫌悪感を抱くようになった以上、僕自身が研究をするモチベーションもゼロになってしまいました。
研究室自体は先生も研究仲間も大好きだったのですが、そもそものモチベーションがなくなった以上、通う必要性を感じなくなり、行かなくなってしまいました。
(この事件以降、しばらく研究室のみんなとは音信不通だったので、悪いことをしたなと今では思っています)
生きる意味を見失い、二度目の自殺未遂を決行。しかし、ゲイでだったおかげで心が救われる
このような形で実家への嫌悪・忌避感に感情が支配された後、最後に残ったのは、『虚無』でした。
生まれてからこの時までの約25年間、僕はずっと実家を継ぐということを軸にして生きてきました。
中学受験、大学受験と仮面浪人、そして大学院。自分の進路も、全て実家のことありきで選択してきましたし、上述したような性欲コントロールに関する情報発信や昆布漁も、情報発信の練習や人脈の形成を通じて、将来的に実家に役立てようとしてのことでした。
実家に囚われすぎだ、と言われるかもしれませんが、それまでは実家のことを考えるのが本当に楽しかったんです。
しかし、そのように25年間考え続けてきたことの全てが、嫌悪感・忌避感に支配されるほどに嫌になってしまいました。
その結果、自分のやりたいことが完全に消えてしまいました。
更に、『食べる』という生命活動に必要な行為ですら、実家のことを連想してしまい苦痛に変わってしまいました。
もう何もしたいことがないし、嫌でも1日3回の『食事』という苦痛を味わなければならない。
そんな状況が続くなら、もう死にたい。
こうして、高校時代以来、2度目の自殺願望を抱くようになりました。
そして、自殺旅行を観光しました。
行き先は北海道。
以前、実家と距離を置きたいのに無断で親が下宿に来た際は、そう簡単に来られないよう特急を使って京都から福井まで逃げたのに、スマホの位置情報検索ですぐに車で追ってきました。
しかも、スマホの電源は、福井駅近くのネカフェで充電する際に一瞬不可抗力でONになる時以外はずっと消していたにも関わらず。
だから今度は、仮に気づいても絶対に来れないであろうところまで行ってやろう、とならば北の大地しかねぇ!
というわけで、北海道を自殺旅行の場所に選びました。
自殺の場所として考えたのは、北海道の北の果て、宗谷岬。
理由は単純で、
北方四島を除けば日本最北→ということは、海が日本一冷たい(旅行に行った時期が冬でした)→なら、海にとびこめば、最速で意識失うことができるのでは?
という考えからでした。
しかし、北海道の中心都市であり玄関口でもある札幌から宗谷岬のある稚内までは、特急を使っても5時間かかる長丁場。
そして、一日稚内駅から宗谷岬に向かうバスも少ないです。
そのため、関西から北海道に向かったその日に宗谷岬まで向かうのは飛行機の時間的に不可能でした。
そのため、到着するその日は札幌に宿泊することにしました。
さて、自殺願望が強い+絶望感ではなく虚無に包まれると、人間の男どんな行動に出ると皆さんは思いますか?
答えは、『子孫を保存する』という動物的本能が強調されるようになります。
難しい言葉を使いましたが、要はセックスしたくなるということです。
高校の時の自殺未遂時は、色々なことに苦しむ絶望感に包まれていて、セックスのことなんて考える余裕がありませんでした。
しかし、今回は何か絶望しているわけではなく、ただただ虚無な状態。何か考えようという気にならないだけであり、おそらく脳のキャパ自体はゆとりがあったのでしょう。
だからこそ、動物的本能が全面に出てきて、子孫保持につながるセックスをしたい、と強く思うようになったのだ思います。
(まあ、実際はゲイで男同士でしかする気にならないんでセックスをしても子供は作れないんですけどね笑)
さて、一度ヤりたいと思ったからには、そこからは早かったです。
大学時代の失恋&就活エピソードで話したように、ゲイの世界はセックスするためのハードルがメチャクチャ低いです。
北海道に就いたタイミングで出会い系アプリで相手を探し、当日のセックスの予定をこぎつけました。
そして、宿泊するホテルに相手の人を呼んですぐにセックス。
やっている間は、自分が自殺しに来ているんだということを忘れていました。
やり終わった後、自分が何で旅行に来ているのかを相手の人に話しました。
もしかしたらこれはゲイだけではないかもしれませんが、セックスする目的で会った場合はワンナイトの関係になりがちです。そのため、今後の関係とかを気にすることなく、自分の境遇を素直に打ち明けることができました。
流石に自殺しに来ているとストレートにいうのはどうかな、と思ったため、
「生まれてから今まで25年間人生の軸にしていたものが全て崩れ去って、したいことが何もなくなってしまった」
という風に相手には伝えました。
すると相手の人は、
「そっか。せっかく北海道に来たんだし、とりあえず何も難しいことは考えずに北海道の各地を巡って観光してみたら?それで、今日みたいに現地のゲイ捕まえてセックスすればいいんじゃね?笑」
と言ってくれました。
確かにそれもそうだな、と思ったので、稚内に行き自殺する前に、北海道の各地を巡ることにしました。
巡った土地は、札幌はもちろんのこと、函館、旭川、層雲峡、そして稚内。
北海道を縦断する形になりました。
「北海道各地をめぐるなんて、異動だけでメチャクチャ金かかるんじゃないの?」と思われた方、いるかもしれませんね。
しかし、僕が旅行に行った時期は、JR北海道から
『JR北海道全線6日間乗り放題、特急料金のかかる特急列車も自由席は乗り放題で指定席も5回まで取ること可能、それで値段はなんと12,000円(北海道⇔函館の特急による往復金額より安い)』
と、「JR北海道値段設定間違えたんじゃないの?」と思うくらいにバカ安く便利な切符が販売されていたので、金銭的な負担はそこまで大きくありませんでした。
そして、観光と同時に、各地のゲイとも出会い系アプリでやりとりを重ね、男遊びも楽しみました。
アプリを通じて出会った人々は、身分や職業、考え方など、全てバラバラでした。その人達に一人ずつ、今自分がなんで北海道に来て各地を巡っているのか、ということを、身体を交えた後に話しました。
ゲイの世界では、身分や境遇などはあまり関係なく、まずは身体から関係を持つことが多いです。
そのため、普段の生活では絶対に関わることのないような人とも交流を持つことが簡単にでき、様々な立場からの意見やアドバイスを聞くことができます。
僕は、これもゲイであることの大きなメリットの1つだと思います。
そのようにして出会った人のうちの1人に、僕とほぼ同年代にも関わらず、事業を立ち上げ起業している方がいました。
僕はその人から、次のようなことをアドバイスされました。
「多分、今はしばらく冷却期間なんだと思う。無理に何かを考える必要はないよ。」
「ただ、少し落ち着いたら、自分のためだけではなく、他の誰かのために何かしてあげたいことはないか考えてみなよ。自分中心で物事を捉えていて見えないことでも、他の人にフォーカスを当てると、色々見えてくることもある。」
「俺の今やっている事業も、他の人に目線を当てたことがきっかけでやろううと思ったことだし。」
僕はこのアドバイスを聞いて、少しずつ視界が明るくなる感覚がありました。
これまで、僕はずっと『実家のため、実家のため』という思いの元で行動してきました。
しかし、それは結局、『将来実家を継ぐ自分のため』に過ぎなかったんです。
今までの人生の中で、本心から『他人のため』を思って大きな行動に移してきたことはほとんどありませんでした。
(あったとしても、「その人のために今行動することで、いずれ自分に得があるだろう」という打算的なものが多かったです)
「今、自分から何かしたいと言えることは何もない」
「でも、自分の人生はこれまで割りと波乱万丈だったと思う」
「なら、自分の人生をもう一度ゆっくり振り返ってみれば、誰かのためにできることがあるんじゃないか。」
このように思考がチェンジした僕には、もう自殺する、という考えはなくなってしまいました。
ゲイだったからこそ、このようなアドバイスをしてもらえる人と出会い、考えを改めることができた。
冗談抜きで、ゲイだったから自殺を思いとどまることができたんです。
とはいえ、せっかくどこでも行ける切符あるんだから、使わないのはもったいない。
というわけで、結局稚内には行っちゃいました(笑)
といっても、行き先は宗谷岬ではなく、稚内港から船で向かうことのできる利尻島。
以前、昆布漁をしにいった(ついでに骨折もした)、思い出深い場所です。
以前お世話になった漁師さんにアポを取り、漁師さんの家で一泊させてもらうことに。
そこでもごく自然とゲイであることをカミングアウトし、また理解者を増やすことができました。
こんな感じで、当初は自殺目的に向かった北海道旅行ですが、最終的には人生の大きな転機になりました。
かつての自分と同じ悩みを抱えているゲイ(バイ)の人達のために、情報発信をすることを決意
北海道旅行を終えた後、少しずつ自分のことを振り返っていきました。
とはいえ、また自分の殻に引きこもりすぎるとまた病んでしまう気がしたので、時々旅行に赴いていました。
金沢、兵庫・岡山・香川、そして福岡・佐賀。本当に色々なところにいきました。
(お金そんなになかったので、移動はLCCやバスを使い、宿は基本ビジホで済ませてました)
そこで各地のゲイとも出会い、色んな話を聞きました。
その中でわかったのは、ゲイ(バイ)の人達は、自分がセクシャルマイノリティであることが原因で、日常生活で悩んでいたり苦しんでいたりすることが多いということ。
みんな、ゲイ(バイ)であるために、学校や職場などで、何かしらの生きづらさを感じていたようです。
でも僕は、これまでの自分の経験の中で知っていました。
無理にゲイ(バイ)を隠さなくても、カミングアウトをして皆に受け入れられる方法があることを。
ゲイ(バイ)であることは悪いことだけではなくいいことも沢山あることを。
だから、ゲイ(バイ)であることに悩んだり苦しんだりする必要は全くないということを!
だからこそ、
「ゲイ(バイ)であることに悩んでいる人のために、その悩みを解決できる場を提供したい!」
こう強く思うようになりました。
僕がおそらく生まれて初めて、他人のために行動したいと決意した瞬間です。
そして、この想いが自分にとって新たな、本気でやりたいこと・取り組みたいことになったのでした。
ゲイ(バイ)であることに悩む人達のための悩み解決コミュニティ、運営しています(参加無料です)
と、ここまでが、僕が
ゲイであることに思い悩んで自殺未遂し
その後ゲイをオープンにして悩みから解放され
ゲイ(バイ)のために情報発信をしようと決意する
までのいきさつです。
自分の思いのたけを赤裸々に書いていたら、こんなにも長くなってしまいました(笑)
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
現在僕は、主にTwitterを使って、ゲイ(バイ)であることに悩んでいる人のための情報発信を行っています。(アカウントは以下のQRコードから読み取り、あるいは画像下のURLあるいはユーザー名から飛ぶことができます。)
このプロフィール記事を読んで僕に興味を持っていただけた方は、フォローしていただければ嬉しいです。
また、ゲイ(バイ)であることに悩んでいる人がその悩みを相談し、解決できる場を作るため、
ゲイ(バイ)のための悩み相談・解決コミュニティ 『GB Lifehack』
を運営しています。
『GB Lifehack』の詳細は、こちらのnoteにて詳しく説明しております。
もしゲイ(バイ)としての悩みを相談したり、解決したりできる環境に興味がある、という方は、こちらのnoteもご覧いただければと思います。
あなたの人生を変えることを約束します。
それでは、長くなりましたが、ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!
これからも、ふりしゅんをよろしくお願いいたします!!
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