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読書の記録1 デカルト『方法序説』
初めに
今回読んだのはデカルトが1637年に匿名で刊行した、屈折光学、気象学、幾何学に関する一連の論文の序文に当たる箇所である「方法序説」だ。
方法序説では、続く論文の方法論や、その方法論に至った経緯やそれまでの彼の人生などが述べられる。
「省察」は過去に読んでいたため、デカルトの方法論としての懐疑主義については理解していたつもりでいた。しかしこの著作は省察よりも古いものであり、省察ほどの明瞭さがなく粗削りであるように感じた。
私はこのnoteで著作紹介をしたいのではなく、あくまで読書感想文を蓄積していきたいので、その第1回となる今回は、「方法序説」のうちで最も目を引いた箇所である第三部について述べていきたい。
「序」でデカルトが述べる第三部の内容を引用するのであれば、第三部では、「わたしがこの方法(デカルト独自の学問を探求する方法の原理的な規則)からひきだした道徳上の規則のいくつか(中略)が見ることができる」。
ここで述べるまでもなく、デカルトは近代的な思想の起点となる命題を見出した。そのような命題を獲得するために自らに課した思考の規則が「方法序説」では述べられる。それらを以下で解説していきたい。
第三部 暫定的道徳について
第一の格率 自らの国の法律と慣習にしたがう
ここでデカルトは、良識のある人々によってさだめられた法、そして両極端に属さない慣習に従うべしと述べる。
デカルトの目的意識に照らして言えば、徹底的な懐疑を行うためにそれまでに築いた自らの意見は信頼に適さないために、先に述べたような法に従い、また誤っていた場合の被害を最小限に収めるべく両極端に属さない慣習に従うべきであるといえるのである。
彼のような壮大な計画や明晰な頭脳を持たない自分にとっても、この格率は処世術として有効であるように思われる。
例えば、法や規定のルールについて、全くの良識を備えた人によって定められたものであるとして真摯に従うのであれば、それなりに良い結果がついて雇用。また、慣習のみならず、行動や自らの思想に関しても、両極端に属するようなものよりも、できるだけ穏健なものを選びとった方が、実際の生活を進めるうえでの問題にぶつかりにくくなるように思われる。
第二の格率 自分の行動において、できる限り確固として果断であり(中略)一度それに決めた意見は一貫として従う
つまり、実生活において、行動を決定するタイミングでは猶予が無い。そのため、行動や意見を選択する際には蓋然性の最も高い意見を自分のものとし、実践に当たっては真実とみなすべきということである。
ここで述べられるものは道徳というよりも理想的な精神的な在り方が説かれているように思う。
実践において、何かしらの意見に基づいて行う場合はその意見の真偽に関わらず真とみなして果断に行え、という精神のあり方である。星新一のショートショートにもそんな話があった気がする。
確かにこのあり方は望ましいものであるが、実践のためには多大な精神力を要するように思われる。デカルトの言として以上の格率を自らの中で権威づけて実践していくべきだろう。
第三の格率 運命よりもむしろ自分に打ち克て、世界の秩序よりも自分の欲望を変えろ
確実に自分の力の範囲にあるものは自分の思想のみであり、その外にあるものについては、最善を尽くしても成功しない場合、絶対的に手にすることができない。そもそも人間の意志とは、知性が可能であると提示するもの以外は望まない。つまり、羽が生えて飛びたいであるとか不死でありたいとか、そういった不可能なものは望まないのである。であるならば、自分の限界について考察し、確実に手の内にある自らの思想以外に執着しないことによって、豊かで、自由で、幸福でいることができる。
これらの思想はストア派の哲学に端を発しているようだ。「我ただ足るを知る」のデカルト的解釈とも言えようか。デカルトは思想や欲望といった人間の内的な側面において足るを知れというのであるが、物質的な側面の比較・競争を絶えず促す現代社会では、しかし実践の難しそうな格率ではなかろうか。
実践のために重要なのは、自らの余力で手に入らないものについては、人間の身で空を飛ぶがごとく絶対的に不可能であることを理解するという言ってんだろう。常に自らの不満に対して、その不満を現在の力で解決しうるのかについて考察するべきである。解決が可能であれば、第二の格率にしたがい徹底的に果断に行動し、解決が不可能であるならば第三の格率に従い執着を捨てる、というのが賢明な生き方かもしれない。
まとめ
第三部を暫定的な道徳としたのは、デカルトの、明確な学問の方法論を築くという目的に資するための行動規範として第三部が提示されているからである。
デカルトの書物を読んでいると、デカルトの論理の緻密さはもちろんのこと、それらを発見するまでに彼が費やした時間の長さや、常に目的を念頭に置き行動していく精神の強さが感じられる。
自分のような小人とは比ぶるべくもないデカルトではあるが、であるからこそ彼が目的のための暫定的な道徳として置いたものが、自分にとっては生涯の道徳としておくのにちょうどよいのではないかと感じる。処世術としての有用さが私にとっては存在しているように思える。
しかしながら、以上の格率は私にとってはそうやすやすと実践できるようなものではなく、生涯を通じてその実践に労力を割く必要があるようにすら思われる。
社会に出てからのここ数年、自らの人間としての不足は目に余るものがある。であればこそ、最近行っている読書を通じて、何かその不足を補えないものかと思考している。その足取りをこのnoteに残すことができれば、何かしら得るものがあると信じている次第である。
もしよろしければ私の文に目を通していただき、改善点や評価点をコメントとして残していただければ幸いです。