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映画『ハケンアニメ!』は覇権の夢をみるのか
「いい作品をつくれば観てもらえると、思ってますか?」
『ハケンアニメ!』は、アニメ業界を舞台に、2つの制作チームがそれぞれの熱い想いをもってアニメをつくり、今期の「ハケン(覇権)」を目指す姿を描いた作品だ。
先にこの文章のスタンスを示そう。
映画『ハケンアニメ!』は傑作だ。「いい作品」どころの話ではない。まれに見る傑作だ。
新人監督の役を吉岡里帆、超人気天才監督には中村倫也、それぞれの監督をささえる敏腕プロデューサーは柄本佑と尾野真千子が演じる。劇中劇のアニメーション制作スタッフも豪華だし、有名声優も多数出演している。話題性は申し分ないようにみえる。
にもかかわらず、この映画はまったく売れていない。ほとんど話題になることもなく、公開から3週間で終映していく(一部の映画館ではまだしばらく上映されるようだから、どうか劇場に足を運んでほしい)。
劇中で、柄本佑の演じる敏腕プロデューサーは言う。
「面白いのに売れない作品もあるし、面白くないのに売れる作品もある」。
傑作なのに観られていない映画。
そういう映画もある。そういう作品がほんとうは膨大にある。
わたしは知ってしまったので、届けようとするしかないのだ。
わかりにくい序盤と、物語が加速するシーンについて
「傑作だ」と散々言ったものの、序盤の内容はあまりよくない。今後は配信サイトで観られる機会もあるだろうが、「評判良かったけど開始10分くらいわりと凡庸というか寒いな」と視聴者は感じるかもしれない。
なにしろ冒頭2カット目は主人公が就職面接を受けているシーンだ(主人公の面接シーンがいきなり出てくる作品には期待したくないだろう。就職面接は、人物の内面を簡単にセリフにできてしまう)。
続くシーンでは、状況も登場人物もよくわからないまま誰かと誰かのケンカが始まり、顔を覚えないうちに重要キャラが退席してしまう(ここで起きているのは「アニメ雑誌の表紙用ビジュアルが弱いからリライトさせろ」「いまさら言うな」という対立で、一応テロップで役名や肩書は表示されるが、初見では把握しにくい)。
その後は「リデル」の制作現場にカメラが移るが、このタイミングでは「主人公側」なのか「ライバル側」なのかがよくわからない。その後、柄本佑が尾野真千子に対して吉岡里帆を紹介する描写があり、こっちの2人がチームで、こっちの人は別チームなんだなとわかる。
それはそうと、別のテレビ局で放送されるアニメ作品のスタッフがあんな場所で会うのだろうか?(たぶん何らかのスタジオのロビーなのだろうけれど、よくわからない)
映画序盤の演出は「アニメ的な実写」という感じで、だいぶ鼻白むところもある。ゼーレの会議室みたいなところで偉い人がふんぞり返るし、閉店ギリギリの洋菓子店に駆け込もうとした吉岡里帆は間に合わずにガラス戸にぶつかるし、中村倫也の登場シーンはお約束的なギャグ演出がどうしたって滑っている。
賢明な視聴者はこのあたりまで視聴して「おいおい、傑作だとか言ってたやつ、なんだったんだよ。邦画じゃん。もういいや」と思ってブラウザを戻るだろう。正直、2度めの劇場鑑賞をしたときの私もそう思った。あれ、昨日観たときは傑作だった気がしたんだけど、現状なんか変だな?
この作品には、そういうところがある。
しかし、映画は、あるシーンから突然、急激に加速し始める。中村倫也が怒りをにじませながら「物語によって生きながらえた自分と、同じように生きながらえる同胞たちへの想い」をまくし立てる場面。そこで話のテンポが変わる。
これはマンガではない
中村倫也の次の見せ場、「天才」と呼ばれる苦悩を吐露するシーン。華やかなイメージ、視聴者の予想や期待を超えることを期待されているプレッシャー、そうした重圧を乗り越えるには、机の前に座ってとにかく手を動かすしかない。地味でも泥臭くてもやるしかない。描くことの壁は、描くことでしか超えられない。
彼はけっして戯画的なキャラではなく、たしかに実在している。過去の作品を高く評価されイケメン監督と呼ばれて特別な「天才」にされてしまったけれど、魔法使いでも神様でもない産みの苦しみを抱えた1人のクリエイター。そういう輪郭がみえてくる。
そう、これは人間を描いたドラマだ。だからおそらく、中盤あたりからはマンガ的・アニメ的な実写演出は影を潜める。
この作品のプロモーションがうまく行かなかった(と言ってしまっていいだろう。わたしにはそれを言う資格もあるだろう)のは、序盤のノリを重視してしまったからだ。この作品は、デフォルメされたキャラたちがアニメみたいな恋をするお仕事モノ、ではない。これはマンガではない。しかし、映画序盤はそういうもののように見える。計算されていたのだとしても、惜しいなと思う。
ぜんぜん可愛くない吉岡里帆のこと
『ハケンアニメ!』の何が素晴らしいかを語るとき、「主演の吉岡里帆がぜんっぜん可愛くない」ことは外せないだろう。
ほんとうに、ほぼすべてのカットで吉岡里帆はやつれているか疲れているか苦い顔をしているか、そうでなければ真剣すぎるかハイになっていて少し怖い。今をときめく人気女優をここまで地味に撮りきったのは、見事としかいいようがない。
「映画って女優を魅力的に撮れればそれでOKでしょ」と言ったのは『映画大好きポンポさん』のポンポさんだが、『ハケンアニメ!』の吉岡里帆は最高に魅力的だ。
絶妙に野暮ったいメガネをずっと掛けているし、ぜんぜん笑わない。一筋の涙を流したりもしない。
作品にとって、制作者の美醜など関係ない。いや、それで話題になるのなら利用するべきだ。劇中でも交わされる議論。真実は両方にある。だから、この映画の主演は美しさと実力を兼ね備えた吉岡里帆なのだ。名実ともに、作品を体現している。アニメ雑誌の表紙を「神作画」アニメーターに依頼したように。
監督は監督でしかなく、世界の主人公というわけではない
私は群像劇が好きだ。『トップガン マーヴェリック』や『シン・ウルトラマン』のような映画も好きだけど、『桐島、部活やめるってよ』とか『響け!ユーフォニアム』みたいな作品が好き。
「ヒーロー」とか「敵」とか「父」とかそういう役割をもったキャラクターが配置されているのではなく、人々がふつうに営んでいる状況にたいし、特定の人を中心に据えて眺めたらこういう物語が切り取れたというような作品が好きだ。
だから、たとえば終盤で「リデル」最終話の放映を観終えたとき、中村倫也の右隣にいる男性が満足そうに大きく身体を伸ばす、ああいう場面が好きだ。彼の視点から見える物語だって成立する。どの視点からでも。
アニメーション作品は、とても多くの人の手によって作られる。予算を握るスーツの責任者もいるし、徹夜で絵を描き続けるアニメーターもいる。みんなそれぞれに真剣にやっている。これが届けばいいと思ってやっている。監督はたまたま監督なのであって、それ以上のことはなく、ましてや物語の主人公ではないし、世界の主人公でもない。
たぶん、群像劇には希望がある。わたしもこの世界で生きていていいのだと感じられる希望が、群像劇にはある。
『ハケンアニメ!』は物語に心を動かされる体験を祝福する、人間讃歌だ。
上映館はもう少なくなってしまったけれど、まだ終わりではない。映画はエンドロールが終わっても終わらない。
5年後、10年後にも語られるであろう作品を、いま、たしかめてほしい。