ハン・ガン読んだらファン・ジョンウン読もう(1)
2024年のノーベル文学賞はハン・ガン(韓江)とのこと
それを報じるNHKの夕方のニュースを見ていたら、解説員風の人が「韓国は文化コンテンツの輸出に国をあげて力をいれている」式の解説を挟んでいて苦笑してしまった
含意されているのは、「韓国初のノーベル文学賞作家は(ドラマやポップスなどとも共通する)国の文化政策の後押しの賜物で、『文学の本質的価値』からみた結果ではない」というニュアンスだろう
こういう物言いは幾重にも間違っているが、最も重要な間違いは、「文学の本質的価値」を安易に措定していることだろう
川端、大江にはあってハン・ガンにはない本質的価値などない。もちろん村上春樹にも
あれこれいって韓国作家を下げてみても、漂ってくるのは安っぽいナショナリズムの香り。まことにNHKらしい一幕だった
さて、書店の「海外小説」棚に占める韓国文学の割合がぐっと増えたのは、晶文社の「韓国文学のオクリモノ」シリーズからだろうか
第1弾が2017年10月発行で、これがハン・ガンの『ギリシャ語の時間』だった
しかしこの「韓国文学のオクリモノ」シリーズで私が衝撃を受けたのはハン・ガンではない
それは『誰でもない』(2018年1月刊)を書いたファン・ジョンウンだった
まず、多くの人が同調してくれると信じているが、韓国の女性作家の作品は一言でいうと「リリカル」である
端的にいえば江國香織っぽい
江國香織を何年も読んでいないので違っていたら申し訳ないのだが
しかし江國香織と韓国作家を分かつ最大のモメントは、「政治」があるかないかである
つまり韓国女性作家=江國香織+政治、なのだ
というような話を友人にしていたら、「韓国の作家は政治マターの持ち込みが多すぎて結果文学的価値を減じている」的なことを言う
私はそれは間違っていると思う
近代国家に生きる私たちにとって、意識しようがしまいが政治は常に生活と密着したところに存在している
文学だけがそれから免れる「脱政治的な領域」にとどまれるはずはない
いや私小説は・・・、という向きには、それは日本の「私」の観念が貧弱なだけだろう、と言いたい
つまり転倒させよう
韓国女性作家ー政治=江國香織、だったのだ!
足りないのは江國香織のほうなのである
と、いうことにはっきりと気づいたのはファン・ジョンウンを読んでからだったのだが、それはまた次回。