金原ひとみ(2) リア充小説の名人芸=アタラクシア
前回の金原(1)では、金原小説の基本構造=リッチを下敷きにした「危機」の分割と回復、を書いた
金原ひとみの小説の主人公は基本的にリッチであり、東京23区のマンションに住んでいる
大体人に羨ましがられる仕事をしていて、金に困っておらず、良いものを食べている
しかしどういうわけか、金原小説を評する人は大抵、「救いのない荒野」、「優しさや愛に飢え」、「孤独の苦しみ」などと登場人物を形容する(ちなみに上記は「アタラクシア」への野崎歓の書評)
売りたいほうもそういう風に売りたいのか、帯には「生きる苦しみ」(『アンソーシャルディスタンス』)とか「愚かしく、狂おしく」(『Fishy』)とか、なんかそんなことばかり書いてある
しかしそんな「怖いものみたさ」で金原の小説を読む人がどれくらいいるだろうか?
(1)にも書いた通り、今世紀に入ってからの(特に)女性作家の日本語小説は基本的にプロレタリア小説であり、プロレタリアは「自らを縛る鉄鎖以外はなにも持たない」(マルクス)のだから、登場人物の実存は常に生物的な生死と直線的に結びついている(あるいはそれが暗示されている)
だが、金原小説の主人公は、おおむね皆「持てるもの」であり「モテるもの」ですら、ある(彼女に『持たざるもの』という傑作があるのも面白い)
要は登場人物=総リア充状態なのだ
恐らく現代小説を読むうえで、リア充/非リアという軸は非常に重要な要素である
金原小説の登場人物は不倫していようが、虐待っぽいことをしていようが、ヤク中であろうが非リアでは全然ない
どいつもこいつもリア充ばかりである
なぜならそれは人物の欲望の形が明確であるからで、なおかつ、その欲望に対して金原の物語は必ずリアクションを生じさせるからだ
分かりやすくいえば、現実には不倫なんてしたくてもできない人が多いが、金原の小説では不倫をしたければ大体できてしまう
その結果、均衡は崩れ、破滅の寸前までたどり着く(大抵は寸前で回避されるが)
だがそれをもって「救いがない」とか「生きる苦しみ」とか、それは違うだろう
「一体この人たちはこのご時世にいつまでキラキラしてんのか」という、端的に言って羨ましさばかりが募る
「欲望の現実化」こそがリア充の本質であり、金原の小説はむしろ過剰なまでのリア充小説ばかりなのだ
対照的な非リアを絵に描いたような小説が、今村夏子の芥川賞作「むらさきスカートの女」である
これはリア充を眺める非リアを読者の視線と絡めてメタ化した傑作だ
ヘボいと思っていた近所の「むらさきスカートの女」を観察し続ける主人公が実は意外とリア充だった「むらさきスカートの女」に打ちのめされ最後は途方もない所業に出てしまう話である
この話は、主人公の目線を通じて小説世界の人物を眺める私たち読者こそが、実は最も非リアであることを白日の下にさらけ出してしまっている
いやしかしよく考えてみれば、文学と読者の関係とは常に読者の非リアぶりを暴露していくような痛々しい行為に他ならないのではないか
そんな金原のリア充ぶりの最高傑作が「アタラクシア」(2019年)である
私の読書メモによれば「金原は世間の向こうをはってリア充小説を書き続けている。このことの意味をよく考えた方がいいかもしれない」と書いてある
このnoteのために、わざわざ過去作を読み返してみる気はないが(次回以降に書く『Fishy』は金原システムの怪作と思うので読み返したいが)、読書メモに「金原=リア充」、という記載が登場するのは「アタラクシア」が初であり、自分的になんだかすごい合点がいった思い出がある
パラパラと「アタラクシア」をめくってみると、いつも3人くらいの女性主人公の視点が入れ替わっていく金原システムの中で、男も入っていて、かつ5人か6人の視点が登場する
これはすごい!職人技だ!などと思っていたら、同作は渡辺淳一文学賞だそうで名人芸ぶりが伺える
余談だが、2022年の「ミーツ・ザ・ワールド」で、金原は非リアの腐女子を描こうと一人称作品で挑んだが、まんまと失敗した
主人公は結局リア充に至ってしまい、「なんだそりゃ」の読後感しか残らない
腐女子かいてもリア充化してしまうのだから、もうその路線は諦めてもらいたい
ちなみに「ミーツ・ザ・ワールド」は柴田錬三郎賞とのこと
味わい深い