ファン・ジョンウンのリリカルな政治性~ハン・ガン読んだらファン・ジョンウン読もう②

韓国の人気女性作家ファン・ジョンウンは1976年生。ノーベル賞をとったハン・ガンが1970生だから少し年下ということになる
「韓国現代女性作家ー政治=江國香織」と書いたが、これはほぼほぼファン・ジョンウンを読んで思い立った公式である

韓国現代小説は政治的なテーマが話の重大なフックになるものが多い
よく出てくるのが済州島4・3蜂起や光州蜂起、あるいは朝鮮戦争までさかのぼることもある

しかしファン・ジョンウンのすごいところは、セウォル号やパク・クネ弾劾など最近の政治的テーマが物語の主題をなし、登場人物がデモや集会に当たり前にでかけていくことだ
主人公がデモに行くような小説は、日本だとイモっぽいというかよく言えば重厚、わるくいえば愚鈍なものに思われてしまう
「韓国の現代小説は政治が過剰でもったいない」とその作品を評した友人がいたが、おおむね彼にもそう見えているのだろう

ファン・ジョンウンの小説は日本語に多く翻訳されているが
一冊すすめるとしたら何と言っても「ディディの傘」(2019年原著:2020年翻訳)をおすすめしたい
この本の何がすごいかといえば、収録されている中編「何も言う必要がない」において、90年代の韓国学生運動がテーマにされていることである

一般に、韓国学生運動といえば、7~80年代の民主化闘争がイメージされることが多い
しかし、「何も言う必要がない」で重要なモチーフになっているのは1996年の、参加者・当事者にとっては恐らく深刻だが、世界民衆運動史には名前をとどめることのない闘いの記憶なのである
ファン・ジョンウンがその参加者であったかは知らないが、当事者しか知り得ない感情をよくくみ取って表現していて、本人か非常に親しい人が当事者だったことがうかがえる

闘争の経過は省こう
重要なことは、90年代の韓国において、学生運動は「すでに終わったもの」「遅れたもの」と認識されていたということだ
わたしは90年代の後半~00年代初頭にかけて大学で学生運動をやっていたが、あることがきっかけで韓国に行って当地の学生活動家と交流する機会があった
その当時の学生も、「386世代が自分たちにとっては抑圧的である」ということをよく言っていた
「386世代」とは60年代生まれで、80年代に学生運動(民主化闘争)をやり、90年代に30代だった人々を指す
2024年現在は間もなく還暦という世代であり、まさしく韓国社会の中核をなす世代であるといえるだろう

勝利の栄光を掴み取った80年代学生運動に比して、90年代の運動がどのように捉えられていたかは想像できる
しかしそれでもキャンパスにも社会にも不正は山ほどあり、若者たちは怒り、悲しみ、状況の中に飛び込んでいく
「何も言う必要がない」で描かれる96年の闘争の最後は壮絶な敗北で、立てこもった大学施設に学生たちは逆に閉じ込められ、女性たちは最後は機動隊員にあちこち触られ卑猥な言葉をなげかけられて連れ出されるという末路を辿る

小説の主人公は大学1年生でその闘いに参加し、経験を重いものとして抱えているが、しかしその経験が韓国社会全体に共感されることはなく、その後の時代を生きる
ラストシーンでは、朴槿恵弾劾のデモに出かけた主人公が、朴槿恵を批判する女性差別的なプラカードを見て、嫌な気持ちになる
それでも参加を続け、最後には朴槿恵弾劾を勝ち取る
だが、勝利の歓喜とともに日常が帰ってきて、不思議な余韻を残す

この小説が極めて優れているところは、悪しき大統領がかわったところで何かが自分の近いところで決定的に変わるわけではない、それでも政治的正義のために行動しなければならない、という現代民衆運動が総じて抱えている葛藤をうまく表現しているところだ
シニシズムの魔の手はすぐそこまで迫っているが、ギリギリのところで「それでもデモにはいかないといけない」という感情
国の形そのものをかえた80年代のようなダイナミズムはなくても、だ

この小説の味噌は、女性差別的なプラカードを目にした主人公が、「それでも」と自分を押し出していくところだ
没政治的なリリシズムは、女性差別的なプラカードを目にしたときの嫌悪感に自分を閉じ込めるだろう
だが、運動のなかに留まることで、その嫌悪感に対する回答(そこに大統領弾劾とは違うもう一つの政治課題があることは言うまでもない)を出そうという姿勢が素晴らしい

日本には政治的挫折小説の系譜がある
挫折の文学的消化は文学的には無意味とは思わないが、正直に言ってしまえば政治的には無意味だと思う
無意味というか、無力といったほうがいいが

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