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文脈を読む力VSそのまんま鵜呑みにする力

 好きな女性に会いに行くために、タクシーに乗せてもらって山道を走っている時、ふと運転手が「このまま谷底に落っこちたら助かりませんね」と言ったとする。その言葉を受けて、後部座席の男性は「心温まる話だ」と言う。

 これは適当に書いた文章なのだが、大抵の人は「心温まる話だ」というのを皮肉だと取るのではないかと思う。自分の恋愛も人生もそこで途絶するならば、「心が温まる」わけがないじゃないか。健全な読解力は、文脈を読みとる力というのは、反語もきちんと理解する。

 しかし、本当に「文脈を読む能力」だけが読解力なのだろうか?「そのまんまを鵜呑みにする読解力」があっても良いのではないか?

 つまりは、男性はタクシーごと谷底に落下したら、「心が温まる」と仮定してみる。

 保坂和志も「書きあぐねている人のための小説入門」に書いているけれど、人の話を聞く時に深読み=文脈を読む、ということを敢えてしない効用は、実はもっと光が当たって良いのではないか?


文脈を理解しない話の聞き方

 僕の知人に一人、基本的に話の文脈を読まないおーちゃん(仮名)という方がいるのだが、最近になってあれは優れて小説的なのではないかと考えるようになった。

「婚約相手のお父さんに初めて会った時、心臓が飛び出そうだったんだよ」という共通の知人に対して、
「え?じゃああなた死んじゃうじゃない」

いや、緊張してただけなんだけど、という趣旨の説明に対しておーちゃんも負けじと何かを返していたのだが
どうも、「心臓が飛び出そう」ということを実際に内臓が身体の外に出かかっているという意味だと理解しているらしく、「じゃあ死んじゃうじゃない」と思ったらしかった。

 これは事実を脚色して書いているのだが、その場に居合わせた僕はわりと混乱して何も言えなかった代わりに「もしも本当にそんな緊張があったら、医学も塗り変わるだろうな」と思った。文脈が読めないとか空気が読めないとかで逃げるのではなく、おーちゃんの才能から理屈を掴みとってみれば、興味深いサイエンスフィクションが描けるかも知れない。次には、心臓が飛び出るということと、婚約相手の父親に会うということは本当に関係があるのかという心理学的なアプローチも可能になる。自分の気分で心臓が飛び出るならば、そこには心理がある(例えば肺は自分の意志で動かせる唯一の内臓であるがゆえに文学的テーマになるが、そこに心臓も加わるわけだ。内臓に変な意識を向かせてしまっていたらごめんなさい……)。


 タクシーごと谷底に落下したら、「心が温まる」のか?

 最初の話に戻ると、タクシーごと谷底に落下したら心が温まる人、というのがこの世にはいるのかも知れない。そう仮定して考えてみると、興味深い人間の姿を造形できそうだと思う。相手の女性が好きなあまり死に近づくというのは、恋愛モノで取り上げる狂気としては割と陳腐かも知れないが…。実は結ばれることじたいに不安があって、谷底に落下したら恋愛をせずに済むわけだからホッとする=心が温まる、とか。

 誰かの話を聞いた時に、自分のなかで「そのまんま」組み立て直すということができれば、ちょっと変な話を構想できるのではないかと思う……。

 ここまで考えて思うのは、おーちゃんに会ったときに「ここは一般論に逃げよう」と無意識にも無難な発言ばかりしていた、自分の情けなさだ。次お会いできたら頑張って、おーちゃんの世界観と併走してみようと思う。

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