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春は寝姿がよく似合う

深夜にようこそ、唐崎夜雨です。
よく神社仏閣に出かけますが、宗教については詳しく知りません。
神社仏閣や教会へ訪れたときに拝見する対象から、もろもろ妄想してみたりはします。今宵もそんな話です。

さて、二月十五日は涅槃会。陰暦二月十五日に近い三月十五日に行われるところもあると思う。涅槃会は釈尊の入滅の日、つまりお釈迦様が亡くなられた日とされている。

この時期になるとお寺さんでは涅槃図というものが公開されたりします。いつでも公開しているお寺さんもあると思う。涅槃図はお釈迦様が亡くなるシーンを描いたものです。

沙羅双樹の下に横たわる釈迦。その周囲を弟子たちが取り囲み悲しんでいる。人間だけではなく、動物たちもたくさん集まってきて釈尊の死を嘆いているようだ。

釈尊は腹痛により死亡と聞いたが詳しくは知らない。たくさんの涅槃図を見たわけではないが、おそらく激痛に苦しむ釈尊を涅槃図は描いてはいない。

まるで昼寝でもしているかのようだ。
釈尊のいた古代インドはどうだか知らないが、いま涅槃図を見る日本の衆愚にとって気候もいいころあいかと思う。

旧暦二月なら、ざっくりいまの三月で冬を越えてほのかに温かみが感じられる。これが冬では寒いし、夏では暑いし、秋では寂しい。春だから心地よさそうなのだ。春風駘蕩。春はうたた寝がよく似合う。

一方で、西洋の聖人キリストの最期は磔刑。
釈尊の寝姿に比べると痛々しくツライものがある。

教会へ行くと、磔刑のキリスト像があったり、磔刑にされた我が子を抱く母の像があったりする。教会を象徴する十字架は、キリストの磔刑をシンボル化したものと考える。

どうして教会はその痛ましい姿を常時見せつけるのか。あるいは連想させる十字架を中心に据えているのか。
それは、我が宗教の創始者は殺されたのだ、磔刑に処されたのだ、そのことを忘れるなと訴え続けているように思われてならない。

西洋の磔刑像は見る者に何かを強いる。
東洋の涅槃図は見る者の何かを和らげる。
比較する話でもないかもしれませんが、実は創始者の最期にそれぞれの宗教の根本的な違いが表れているのかもしれないな、と漠然と思い巡らす。

二月十五日に投稿しようとおもったけど、日付が変わってしまいました。
お粗末様です。

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