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紀行note 神戸市須磨区 敦盛塚 安徳天皇内裏跡伝説地

九月二十九日の須磨散策ノートもこの投稿が最後。
山陽須磨駅から山陽電車に乗りとなりの須磨浦公園駅で下車。ここはロープウェイやリフトを利用して山上公園へむかう人も少なくないのだが、駅から海を眺めながら西国街道を西へ数分歩く。

国土地理院 地図

たどりついたのが敦盛塚。須磨寺の境内にあった敦盛塚は首塚で、こちらにあるのは胴塚という。

この五輪塔の第一印象は、デカい!

敦盛塚

写真では分かりにくいが、総高397cm。ほぼ4mの石造五輪塔は重量感が半端ではない。なみの人間二人でも及ばない高さに、風格さえ感じさせる。
コレならちょっとくらい推しても引いてもビクともしなさそう。その前に恐れ多くて触れるのも憚られる。

敦盛塚

室町時代末期から桃山時代にかけて製作されたものらしい。
ためらいなく敦盛塚と呼んでいるが、鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門の冥福を祈り弘安年間(1278~1288)に造立したという説もある。
ここでは敦盛の塚と思い込み、合掌。

敦盛塚 うしろを鉄道がはしる

つぎに西国街道を引き返し東へ。須磨浦公園駅を通り過ぎていく。
このあたり山と海との間が狭い。右手は海が広がり、左手は山が迫る。その狭い間を国道や鉄道、そして公園が東西にのびている。

源平史蹟 戦の濱

しばらくあるくと「源平史蹟 戦の濱」の碑がたつ。
一の谷から西側の海岸、須磨浦公園の続く浜は「戦の浜」と呼ばれ激戦地だったようだ。

この碑の北、山陽電車の高架下をくぐる小径がある。その高架下の入り口に下の写真のような案内板が掛けられている。

安徳宮への案内

山陽電車の北側の台地の上に安徳天皇の内裏跡と伝わる場所がある。そこが最後の目的地である。
鉄道の高架をくぐると眼前に九十九折れが飛び込んでくる。台地の先端でほぼ崖である。義経の鵯越もこんな急斜面を馬で駆け下りたのだろうかと妄想する。

しばらくのぼり振り返る

道は問題ない。ある程度登ると線路や公園の向こうに海が見えてくる。

須磨の浜をながめる

台地をのぼりきり住宅地のなかを道なり進めば、突き当りにあるのが安徳天皇の内裏跡伝説地である。ほかのルートなら車でも行けるようだが不詳。
花壇などがありちょっとした公園のような趣で、かなり手入れされている印象を受ける。

安徳帝内裏跡伝説地

ここには安徳天皇を祀る安徳宮がある。
安徳天皇は高倉天皇の第一皇子で、母は平清盛のむすめ徳子。数え8歳、満6歳で壇ノ浦に身を投じられた。これは歴代天皇最年少の崩御である。また戦乱で命を落とされた天皇でもある。

安徳宮

❝ 小さう美しき御手を合わせ、先つ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其の後西に向かはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがて抱き奉て、「波の下にも都の侍ふぞ」と慰め奉り、千尋の底にぞ沈み給ふ。❞ 『平家物語』「先帝身投」より

安徳宮

安徳宮は小さなお社ですが、ちょっと屋根の左右に庇のような小屋根がついているので、小さいながらも立派にみえます。

安徳宮

こちらの隣には弁財天が祀られている。
また安徳宮の社前にある燈籠はモルガンお雪の寄進によるもの。

モルガンユキと彼女の母加藤コトの名が刻まれている

さて、元来た道をかえし、九十九折を今度は下り、JR須磨駅へ戻り、この日の散策は終了です。

JR須磨駅を午前11時ごろ歩き始め、須磨寺、松風村雨堂、源氏寺、関守稲荷神社、敦盛塚などめぐり須磨駅に戻ったのは午後3時10分ごろでしょうか。
その間、ちょっとした小休憩はとりましたが、ランチはコンビニでどら焼き。歩きながら。もともと昼食をしっかり食べない傾向にあるので、昼抜きでもあまり気にならない。

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