メリトクラシーに関する暫定的結論
4月もあっと言う間に最終週。
ここ数週間何をしていたかというと、レポートを書くのに没頭していた。このあいだ1つ満足できるものができたと書いたと思うのだけれど、今学期はなんともう1つ頑張ったと言えるものができた。こんなことは未だかつて無かったからとても嬉しい!
それはイギリスの公共政策に関する"Public Policy Failure of British Government"という授業の最終レポで、私は1940年代から1960年代にかけてイギリスにおいて行われた教育改革を取り上げた。
これについて読みまくり考えまくることが、今までずっと抱き続けてきたメリトクラシーと教育システムについての問いへの暫定的な答えを与えてくれることになってとても楽しかった。本当に、文字通り、無我夢中でのめり込んで読み、書いていたと思う。それくらい面白かった。
私はこれまでずっと"pure meritocracy"って可能なの?もし可能だとして、それってすごく残酷なのでは?という問いを持っていた。
現在のメリトクラシーは「能力+努力で構成される"merit"(実力)」で人々の社会経済的地位を決めているという顔をしながら、実は家庭だったり地理などの影響を色濃く投影している時点でとても不完全なものだよねということが様々な国の社会における共通認識だと思う。
主に大学2年生の時には、そのメリトクラシーが日本においては一斉ペーパーテストにおける教育選抜で「いやいやホラ見てこれ純粋に点数で決まってるでしょ?みんなこのテスト受けられるから平等よ?」とすまして階層構造を「密輸」(竹内、1995)していることを見抜いたりだとか、あるいは「努力できる」ということすら社会階層による影響を受けてるよね(苅谷、2001など)とか、ペーパーで測れるところではないコミュニケーション能力などもメリトクラシーに組み込まれていってるしそれも出身階層の影響が大きいよね(本田、2005)とかっていう、日本の教育社会学界隈でのメリトクラシー研究系譜を辿ってきた。(ここが今重要な部分ではないので最高に雑に色々すっとばして書いていることはご理解願いたい……)
で、じゃあ、そもそもメリトクラシーにおいて出身階層の影響を極力薄めることって果たして可能なの?っていうのがまず1つ目の問い。これだけ家庭の影響とか生まれ育った環境に影響を受けた状態で教育システムを通じて後の社会経済的地位が決まっていくことに問題意識とか批判が出るのだから、その2つの結びつきを薄めるあるいは断ち切るということが次の手として考えられる。けれども、そんなことって可能なの?っていう。
もう1つは、それができたとして、本当にみんなそういう世界に生きたいのかな?っていう問い。何のせいにもできない、純粋に自分の努力と自分の能力のおかげorせいで今この社会経済的なポジションにいるということを受け入れるしかない状態って、うまくいった人の傲りとうまくいかなかった人の自己責任化に繋がって社会がどんどんバラバラになっていくんじゃないの?っていう。この辺りはサンデルとか書いてる。(「うまくいく」の定義とかの議論もここではすっとばしてるのをご理解願いたい……)
こういう問いを友人に語った時に、「じゃああなたはどうなれば良いと思ってるの?どうすれば良いと思う?」って聞かれることが多かった。私は明覚な答えを持てていなくて、だけど注目していたのは「うまくいった人の傲りとうまくいかなかった人の自己責任化に繋がって社会がどんどんバラバラになっていくんじゃないか」という部分で、その中でも「うまくいった人の傲り」というところ。一般的に社会経済的地位が高い人(i.e., エリート)たちあるいはこれからそういう位置に行くことが想定されている人(i.e., エリートの卵)たちの中で、社会貢献意識が高い人は誰だろう?公共心にみなぎっている人は誰だろう?そう思うのはどうしてだろう?ということを社会調査を通じて明らかにして、その結果を見て「こういう要素が『傲らないエリート』を生み出しているから、これを社会にもっと実装することはできないか」という提案に繋げようと考えていた。
けど、今回見たイギリスの教育改革の例が新たな、そしてより具体的な視座を私に与えてくれた。思えばメリトクラシーという言葉もイギリスの社会学者(Youngを社会学者と見るかどうかには諸説あるが)が生み出したものなのだから、辿り着くべくして辿りついたと言うこともできるのかもしれないが、それでもやっぱり全然違うように見えるイギリスの公共政策の失敗例の勉強で、なんとなく選んだ教育改革の例で、自分の関心が見事に繋がってそれが大きな示唆を与えてくれた時のワクワク感はまたとないものがあった。
さて、戦間期〜戦後のイギリスで実装されたのは、Tripartite System (1944~)というものであった。何かというと、11歳になると子どもたちは一斉にテストを受けて、その結果でグラマースクール(優れたアカデミックな教育を施すとされている)or 技術系の学校 or 職業学校の3つの教育トラックに振り分けられていた。これは他でもなくより"pure"なメリトクラシーを実現するためのもので、11歳という年齢で選抜を行うことで、家庭の影響がそこまで強くないうちに子どもたちをIQで測られる能力に基づいて評価しようというロジックだった。つまり、「教育達成への家庭の影響を弱める」ことが目指された点で「よりメリトクラティックな社会」を志向するものだった。ところが、この11+というテストが特に中産階級の保護者からものすごく不人気になった。早期のテスト、それも誰か人間が作ったテストによって子供たちの将来がある程度決定づけられてしまうことが"better life"への機会を奪われているような印象を生んだためだと学者たちは書いている。
この不人気は1965年のcomprehensive education reform(包括的教育改革)へと繋がり、3つに分かれていた学校と11+は廃止され、代わりにみんな同じcomprehensive schoolに自動的に進学するということになった。結果的として、優れた教育を提供しているとされていたグラマースクールはcomprehensive schoolへととって替われれた。このcomprehensive schoolで提供される教育の質はグラマースクールのそれとは比べ物にならないほど低いとされている。だから多くの教育者だったり学者はcomprehensive education reformとグラマースクールの消滅(いくつかまだ残ってるけど)を嘆く。
裕福な家庭の子達には学費の高いprivate schoolでの質の高い教育という常に選択肢が残った一方で、それ以外の子供達については以前はテストで選ばれさえすればお金がなくてもグラマースクールで質の高い教育が受けられたけど、改革後は質の高い教育にお金なしでアクセスすることが難しくなった。この点で、改革は社会の階層構造を固定するものになってしまったと評価することができるのではないだろうか。よりメリットの果たす役割が小さくなり、家庭環境の影響が強くなったとも言い換えられる。
ただ、逆説的に保護者たちにとってはこれがとても満足のいく結果だったという。当時の世論によると、人為的なテストによって子供達のアカデミックな道筋が途中で断絶されてしまうよりは、教育の質は下がったとしても、「みんなが同じ学校で同じ年齢まで教育を受ける(ように見える)」ことが市民を満足させたとある。そのシステムが階層構造を固定していたとしても、「どこで」「誰が」そうしているのかという決定的な瞬間がない限りは不満を呼ばない。この心理は私が抱いていた2つ目の問いに対して「純粋なメリトクラシーが理想とされる状態とは限らない」という示唆を与えると思う。やっぱり純粋なメリトクラシーというのは残酷で、社会に受け入れられない。また、選抜の「恣意性」みたいなものが教育システムへの満足度の鍵になっていて、本当はどうなっているのかというところよりも、どのくらい公平に「見える」のかというところが重要なのである。
また、その当時の実証的な研究が、11+で早期の選抜をしたとしてもやはり家庭の影響は免れないから、O-E relationshipを弱めることはほぼ不可能であるということを提示している。これが1つ目の問いに対する示唆。メリトクラティックな選抜における家庭の影響を薄めると言うことは、やはりどう頑張っても限界がある。
じゃあどうすれば良いのかっていうところなんだけれども、tripartiteシステムの時、3つの選択肢に同じくらいの名誉と尊厳が社会から与えられていたらどうだろうか。みんなアカデミックトラックを目指すから、そこが「高い社会経済的な地位」に繋がっているから、その他の選択肢にはスティグマがつきものだった。これをなんとかできないだろうか。アカデミックなパス以外にどうやったら同じくらいの社会的な価値認識を植え付けられるだろうか。つまり、ひとくちにいえば評価基準の多様化である。メリトクラシーが使われるフィールドを分散させることによってその残酷さを薄めること。
どうやったらそれが実現できるだろう?職業学校などへのstigmaを弱めることはできるだろうか?まあこれについてはそれぞれの卒業者が就きやすい職業の賃金を同じくらいにすれば良いのだけれども、かなり社会主義チック・理想主義的な感じになるのでまずはトラッキングがとても明確な国の例(ドイツとか)を見ていきたい。そして、今の日本のトレンドとかも政策と照らし合わせて考察していきたい。
今まではかなり抽象的に「こういう世界になったらどうだろう」と思考していたのが、この政策の性質、改革者の用いたロジック、前後の社会や世論を実際に手触り感を持って追うことによってある種地に足のついた、具体的な考察が可能になったのがとても嬉しかったし楽しかった。
今もう一つ抱えている最終レポートが反エリート主義に関するもので、フランスという国は教育システムが衝撃的なほどにエリート主義的なのでそれとマクロン大統領による最近の職業学校改革、そしてフランスの反エリート運動を結びつけて面白いことが掛けたら良いなと思ってる。けど、正直ちょっと燃え尽きかかっている&4000語のリサーチペーパーinフランス語が結構キツい&うまくRQすらまとまらないまま期限が迫ってきているということでちょっとできるかわからない。それのためにフランスの教育システムについて最近は読んでいるけれど、これもまた面白い、イギリスや日本と比べてそのあまりに明瞭な機能主義的な仕組みにびっくり。それについてはまた次のnoteで書けたらなと思う。
(覚えているうちにと思ってばーーって書いたので学術的にはもっと細かく言わなくちゃいけないことが沢山ある、ちょいちょい読み返して編集していくからひとまず今日はここまで。)