「山びこ的な生き方」~他者の声を受けとめて表現する豊かさ~
情報が飛び交う世の中で、やっと気付けた、自分にとって大事なこと。
旅先で、とある初対面の方とお話したとき、
その方の相づちの打ち方や、聞き方がとても心地よくて、
普段あまり人には話さないようなことも、すっとシェアできた感覚があった。
その人が聞いてくれたからこそ話せたこと――
その時、やや飛躍した表現だが、「山びこみたいな人だな」と思った。
山の上で、ヤッホーと叫んだら、山々に反響して返ってくる、山びこ。
「こだま」とも呼ばれる。
人間関係においても、こういう山びこ的なスタンスが大事なのではないだろうか。
そんな気づきがあって、一人小躍りするような感覚だった。
同じころ、音声配信のVoicyがきっかけで、以下の本を読んだ。
いきなり、扉ページのことばに、目が釘付けになった。
「あ! この考え方、山びこっぽい!!」と共鳴した。
山は、叫ぶ人の声を、ただ、その山容をもって受けとめて、
共鳴して、叫んだ本人に返す。
眺めた山々が、何かを延々と諭したり、説いたりする訳ではない。
ただ、眺めて立つその人の、声と存在を、振動を通して認めてくれる感じ。
叫ぶのが恥ずかしいような人でも、見晴らしの良い場所に立つと、
それだけで、なんだか満たされた気分になる。
まさに、山々がその人の豊かさを示してくれたと言えるのではないだろうか。
今の私に足りないのは、おそらく、そういう姿勢・スタンスだ。
そういう受けとめてもらえる人や場・空間も必要だし、
自分自身が、他者にとっての、そういう存在にもなれたらいい。
たとえば、話をシェアしてくれた人に対して、すぐに自分の考えをとうとうと話したり、変に解決策を提案するような感じではなくて、
まずは「そういうことがあったんだね」「そういう風に感じているんだ」と
受けとめてみること。
シンプルなことだけれど、意外となかなかできていない気がする。
まずはそこから。
無理に主張しようとせずとも、
さまざまな経験が稜線や谷、沢、池、崖を形成し、それがいつか
だれかのありったけの叫びを、ぐわんぐわんと山びこして応えることになるはずだ。
その反響の仕方に、その人(山容)の個性が自然と出るんだろうな。