違うチームの奴の車をぼこぼこにする前に
ある時期を境に、私は家の料理長に就任した。
料理が好きだからという理由で勝手に自分で買ってでた役職でもある。
我が家では、できるだけ体に良いものを食べるという暗黙のルールがあり、料理長に任命されてからは、私なりにも体に良いものを選んで使っているし、献立にもそれなりに気を遣っていた。
そんな折、父の仕事が忙しくなり、外に出ずっぱりになることが増えた。「なんか料理する分が減ったな」などと呑気なことを思っていたら、母から
「なんか父、最近コンビニのおにぎり食べてるらしい」と、密告があった。
「なァにぃーーーっ!?」
そのとき、自分に「画風」というのがあるとしたら、横山光輝氏の三国志に出てきそうな「画風」の激しいテンションで体の内側から燃えたつ憤りを全身から発していたにちがいない。
怒りではない、憤り。
ロジックとは関係ない、かなり反射的で、燃え立つような感じのもの。
横山画風になりながらも、一応研究家なので踏みとどまり、自分を観察するとよく分かった。
まさに、「おれの握り飯が食えないのか」状態。いや、作ってないんだけどさ。作ってないもんは食えないよね。でもそんな、「まだ行ってないこと」まで妄想して怒り狂えるくらいにはエゴは狂っているのだ、こういう時って。
今のこれって、サッカーの強烈なサポーターが自分のチームを貶された時の気分だよな、と。ふと思う。これは「思想」によってしか出来上がらない。
フランスでは、マルセイユとパリのチームのサポーターが本当に仲が悪いらしく、マルセイユナンバーの車でパリに行くと、停めている間にぼこぼこにされるそうだ。またその逆もぼこぼこにされるらしい。
それくらいの「根拠のないむすびつけ」によって簡単に激してしまうらしいサポーターたちを「そこまでやるか?」と苦笑することは簡単にできる。
それなのにどうだ。
「健康教」というものの下に入った自分は健康という教祖様の旗印の下では目の色を変えてその正義を叫ぶ人間になるのだ。恐ろしい話だ。
そもそも健康というのは、そうやって目の色を変えて狂ったように信奉するものではない。気持ちの良い範囲でもとめる一つのオプションにすぎない。それに、気持ちをその程度まで乗っ取られている時点で、だいぶ不健康だ。
「自分が今、どこのチームの言い分で考えている?」
「今、自分は何教の信者?」
そう問いかけてみるって、想像以上に必要なことだ、と改めて思う。気づかないうちに熱烈にサポートしすぎている推し、気づかないうちにすっぽり入信している宗教。
べつにこれを問いかけたからと言って、もうその選択肢がなくなるわけじゃない。
「ちょっと冷静になってみようか。自分の感情を支配できるような絶対的なものなんて、ないんだ。自分の感じ方は自分が決めるんだから」
それで結局料理長は、毎日眠い目をこすって父の弁当を作る羽目になった。
「弁当作るよ」というと「あ、そりゃ助かる」と父。二つ返事で終わってしまった。
「なぁんだ、俺のおにぎりが食えないというわけじゃないのか」
拍子抜けした。そう、エゴの大騒ぎには被害妄想も含まれているから。インターバル。問いかけて、それで中立に戻って、落ち着いた画風に戻ってから、またできる限りのことを選べば良いだけなのだから。
自分とは違う思想の人の車をぼこぼこにする暴挙に出る前に。