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「予想外」補足コラム

私は女子校だった。女子校といったら、バレンタインの日に、山ほどみんなチョコレートを作ってくる。とにかく本当に山ほど。
その日のお弁当がいらないほど、食べさせていただける。

しかし、午後くらいになってくると、いいかげん、甘いものにみんな飽きてくる。その時、矢庭にカバンからお煎餅を出す者が現れる。
すると、その者はたちまち伝説のヒーロー(ヒロイン)となる…


もし自分が100人いたら、ギョッとすると思う。

わーわー集まってあれこれやっても、結局、自分と同じ人なので同じことしか思いつかない。

「いい加減、何か違う味はないのか?甘くない何かはないのか」

バレンタインの日の女子校の午後のようになる。

100歩ゆずって、年代の違う自分が集まったとして、まあそれはそれなりに学ぶことも多そうだけれども、100人もいらないよな〜100人ということは、年で割ったとしても、100歳以下の寿命なら、同じ年度で2人参加する場合があると、ここはほとんど話しても何の刺激もなさそうだ。あるかもしれないけれど、もし10歳や80歳の自分と話せるとしたら、そっちを選ぶから、やはり刺激の少ない自分とは進んで話したがらないだろう。

となると想像以上に「予想外」は重要ということになる。
実は誰もが、その恩恵に預かりまくっている。

生ハムとメロン、チーズとパイナップル、キーマカレーとレーズン、チョコレートとせんべい。
考えついた人は本当にすごいよ
いや、計算して作ってはないはず。ただ実験的に一緒に口に運んだ「柔軟な人」。あるいは、口(感覚)の求めるままに、口に一緒に詰めてみたのだと思う。

「柔軟さ」「自由な発想」。
それがクリエイティブの出どころなわけだけど、
「自由な発想」はじゃあどこから生まれるかというも、

「エゴのこだわりのゆるさ」からうまれると思う。

常にインスピレーションはきている。それをシャットアウトしているのは、エゴ(左脳的私)だから
「こういう形じゃなきゃ嫌だ」とか言って。なんでも自分でやりたがりなんだから。

クリエイティブの生みの親は、意外にも「無私」かもしれない。

無私、は、「自分がなくなってゆくこと」ではない。「左脳的自分(自分でやりたがり)」が減ってゆき、「インスピレーションの自分(感覚的自分)」になってゆくことだと思う。だから、無になっていってしんどくなるやりかたは、誤謬。見直して欲しい。

冒険する。
自分の知らない自分がばかりなら、100人いても楽しい。
「私はこういう人!」を携えて固まってる左脳的100人の私より、いろいろな可能性に向かって常にぼーっとしているインスピレーション的100人の私と出会いたい。

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