争点が違うのでは…
争点はオールドメディアとSNSの対比ではなく、信頼できる情報が何かを各人が自分の判断で探し出そうとしている結果かと…
その信頼できる情報の在処によって、最終的な各々の意思決定は変化するというもので…
能動的な情報取得
自分の情報を得る時に、既に多くの人が能動的に情報源を探すというか、検索して情報にたどり着くことが当たり前になってきたわけで…
例えば、電車の遅れについてもSNSの検索で、路線や駅名で検索すると、その状況が即時にわかったり出来る。それらの延長線上でのSNSの利用も進んでいて、確かに自分の主観と似たような意見をかき集めるという偏りは確かにあるけれど、それも含め取捨選択の意思決定は自分でやっているということ。つまりは正しい情報も間違った情報も、そのフィルタリングをしたのは自分の責任なので、良いも悪いも自分に納得感があるというもの。
メディアの情報は、そのフィルタリングの責任はメディア側の取捨選択によるものなので、意見が異なれば、その矛先はメディアに向かうのは当たり前の事象。
ただ、一次情報が白日の下にさらされているのに、メディアのフィルタリング機能が可笑しいのではないかというのが昨今の事象かと。
なので、オールドメディアとSNSの対比ではなく、根本は人々が何の情報を信じるかということ。もちろん一般の人がその事象を全て追いかけるのはネット内だけでも時間を要するわけで、最初は断片的なものだろう…
またメディアの記者も、僕らは十分な人的資源と取材コストをかけて案件を追っていると思っているが、例えば各県の主要なメディアの記者の数も、僕らが感じる人数と比べて遥かに少ないわけで、それプラス複数の取材をしていることから、そうそうどっぷりと全ての資源をその事案にかけているメディアも少ない。県によっては、夕方のテレビニュースの枠を埋めるのも大変で、ニュースという枠なのにニュース以外の項目に割く時間が多かったりもするし…
ちょっと脱線したけれど、人々は信頼できる情報というのを能動的に探すようなツールを手にしており、その信頼できる情報というのは、人やメディア、SNSなど複数の比較だし、その信頼感の一部をこれまではメディアが担っていたと思われるが、それも一次情報のネット化により、そのフィルタ機能を一般の人が知ってしまうことにもなったわけです。わかりやすいのは、各種記者会見の動画垂れ流しと、それを各種メディアが記事にした時に、そのフィルタの性能が、その会見を(たとえ暇つぶしに視聴したとしても)終始視聴した者からは良くわかるというもので、良く言われる右か左か、はたまたどの立場に偏って記事にしているかということまでバレてしまっているということ…
本当は客観的な事実を淡々と伝えることが望ましいけど、その客観的な伝え方も重要な点が削除されていたりするから、本来は言語化してまとめる能力というのはプロとしては相当レベルの高いお仕事とは思うけど、その能力にもハテナがつくのが現代かと…
更に、伝える内容にその記者やその社の意向というか、主観的な意見や感想が付け加えられたりするから、これが曲者である。
その事案で、「もし、◯◯だったら、△△になります」なんて言うことをサラッと付け足されてしまうと、そんなに◯◯の可能性が強いのかって読者や視聴者は思ってしまいますし、情報発信側はそれは「嘘ではない」という言い訳に繋がってしまいますけど、十分な印象操作にはなりますね~♪
一時期、メディアの信頼性という観点で、ニュースや企画取材等は、項目の最後に記者名のスーパーインポーズを入れていた時代があったけど、最近はこれも無くなってきたようですし…
個人的には、信頼ある情報をどう掴むかという点で今後も色々と模索するだろうし、自分らしい確からしい情報源というものを各々が求めるわけで、逆に情報を発信する側は、情報を正しく理解して、それを正しく発信することで信頼を勝ち取る以外に道は無く、それが報道という分野であれば、愚直な裏取りが重要なわけで、それを怠れば、当然ながらそのメディアの足元をすくわれてしまうということ。裏取りの基礎が怪しければ、結果的にそうなることは必然なわけで、裏を返すと、そのような愚直な取材姿勢が信頼を得るために求められていることであり、その姿勢が問われていることを当のメディアが軽視しているように感じられる。すでに一般の人にそこを見抜かれているのが昨今の案件の背景ではないのかと…
わたしも前にテレビ局で技術の仕事をしていたけれど、当時の地方で夜勤などで一緒になった年配の報道の人は、何よりも裏取りの大切さを語っていました。今一度基礎に立ち返ることが信頼への近道だと思います。
以前からお付き合いのある報道関係の人も、メディア側の意見から自慢気にSNSでUPされていましたが、論調が危なそうだったので、久しぶりに電話で会話した次第。
個人的には、メディアの信頼感が問われた時に、SNS側からのボクシングのようなパンチが繰り出された時にカウンターで反論できるように、メディア側は何を真実と捉え、どう判断し発信したのかを、得意のシンプルな言語化で添えるくらいの判断材料を読者や視聴者に伝えるだけでも違うと思うけど、今のメディアはその問われている信頼性に対して全くカウンター(信頼性の判断材料)を与えないですね…
この信頼性の判断材料と意思決定理由がわかれば、その妥当性判断の議論になるので、SNS側もその判断の確からしさの議論から、より真実に近づくと思います。
内部告発者の視点から
さて、ここからは少し余談ですが、ここ最近賑わしている事案については、わたし自身、かつて「内部告発者」だったこともあり、「内部告発者」としての振る舞いからは、明らかに変な時系列での対応があるため、世の中で「内部告発」経験者や「内部告発」を企図している者たちからすると「変だ」「何故」が多い事案ですね。
個人的には、某氏があそこまで首を突っ込んだのも、その「内部告発者」という観点からは「変だ」「何故」に気づいたことが大きいのではと理解しています。
まあその辺は、仮に自分の同僚や上司が不正を働いた時に自分がどう振る舞うかを自分なりに考えていくと、自分の正当性をわかっていただくのにどうするかという点を含め考え抜けばおわかりになるかと…
わたしの場合は、不正の証拠を全て集め(不正の物証となる資料そのものや関係する画面キャプチャ、関係者、不正であることを定める規定内容他)、さらに不正をした本人の弁明の肉声、不正をスルーした上司の肉声、不正事案に関して対面で会話した人全員の肉声を全て録音しました。録音もスマホ2台使って、1台は机の上にさり気なく置いて録音、もう一つは胸ポケットで録音。
不正を起こしたのが同僚の管理職でしたし、その不正をとどまるように何度も忠告したけど不正の張本人が改めることをしなかったのと、その上でその組織のユルユルなガバナンス、リスクマネジメント、コンプライアンス、それにセキュリティが甘々なところでは一緒に仕事をすることはできないと判断し、早々に辞意を表明し、色々と引き止めはありましたが転職に踏み切りました…
一応守秘義務は重んじるので、言えることはここまでかな~♪
個人的には同僚の不正を防げなかったのは、わたしの対処能力不足もあるかと思い、情報セキュリティに関する海外の資格に関しては、全て資格返上の処理をしました。
その時点では、もう情報セキュリティ関係の仕事からは足を洗おうと思っていましたが、むしろ情報セキュリティの技量をかわれて転職等が決まったことで、資格返上まではしなくて良かったかもと一瞬頭をよぎりましたが、自分なりのけじめということで、あえて資格返上のまま、現在に至っている状態です。
その後、不正をスルーした上司が転籍になるなどの動きがあったことを転職後に仲間から聞きました… 不正した張本人がその後どうなっているのかは、わたしは知りません…
どっちを選択する
昔IPAで講義をしていた折、このような問題を課したことがありました。
Q1:上司にあなたのパスワードを聞かれたら教えますか?
Q2:あなたは組織内のシステムの特権IDを持っています。
出張中のあなたに、上司から「内部通報窓口に相談された案件で、システムのアクセスログが必要となり、このシステムでは特権IDを持つものしか開示できないので、PWを教えてくれ」と連絡を受けた。あなたはこの件、どう対応する?
Q3:上司から「『業務命令』だから特権IDのPWを開示しろ」と言われた場合は?
Q4:あなたがISACA認定のシステム監査人(CISA)、公認情報セキュリティマネージャー(CISM)やISC認定の情報セキュリティプロフェッショナル(CISSP)保持者だった場合、Q3の指示にどう対応しますか?
Q4に関しては、ISACA認定のシステム監査人(CISA)、公認情報セキュリティマネージャー(CISM)やISC認定の情報セキュリティプロフェッショナル(CISSP)等については、認定組織が提示する倫理規定に基づき、『良心に従った行動』をしなければ、資格を剥奪される場合がありますと解説を加えました。
https://www.isaca-osaka.org/docs/about/isaca/ISACA_ethics.pdf
情報セキュリティの各資格には各々倫理規定が設けられていたりします。
例え、自ら所属する組織で不正が発生しても、資格に示す行動を貫いていたら、その資格を剥奪されることは、よっぽど世間が注目するような大きな事案でない限りは無いかと思います。
講義では実際に自分が不正を発見した時にどう振る舞うかまで意見を求めています。仮定として、資格の倫理規定に沿って、自らが属する組織で資格に則った活動をするのか(その延長線上での内部通報窓口への通報など)、そのことで会社から窓際に追い込まれたりすることを辞さないか、黙っていることで会社で今まで通り安定して仕事や家庭をまもることを優先するのかなど…
みなさんも、それぞれの立場や境遇で考え方が異なると思いますので、一度考えてみると良いかも…
わたしの場合はウェーバー(1919)『職業としての政治』で提示された専門職倫理の考え方として、プロと言われる者は「信条(心情)倫理」よりも「責任倫理」に依拠するという考えなので、躊躇なく不正を正す方向に意思決定し、実際に行動しました。資格という観点から言えば、わたし個人の考えは、資格所持者がいながら、その効果がないのであれば、その資格を所持する意味は無いと考えていますので、その自分の意思決定に基づき資格返上した次第…
また、世の中には、不正に関わっている人に不正をやめよと忠告しても、聞かずに不正をやる輩が少なくとも存在するということが勉強できたので、その勉強のために資格を返上したと個人的に理解。
話しが随分脱線したが…
当初の話から更に随分脱線してしまったけれど、わたしがここ10年くらい感じていることは、自分の周辺分野を眺めて、仕事の質がかなり落ちていることの実感…
結構いい加減な仕事をしている輩が見受けられることが多くなってきた…
どの分野も人がいないということで、これまでベタランの方々が培ってきた仕事の仕方や習熟してはじめて得られるコツ等も惜しみなく手取り足取り教えている現状を見るに、技量獲得に関して軽く見られ始めたのかも知れない… また、昨今はそのベテランと言われる人たちすらもいい加減な人が多くなってきた印象…
それがジャーナリストの分野だと、基礎の基礎といえる裏取りまでおろそかになってきているし、憶測も多くなってきた。夜討ち朝駆けは今やドカタ仕事状態で人気がないというか、やりたがらないそうだ… まだ分野の違うコメンテーターが素人感覚で意見をいう分は良いとしても、報道する側に所属するコメンテーターが裏取りしないまま、情報の真意を確かめないままに発言するのは、報道する側の基本としては変だと思う。反省したと思っても同じことを繰り返すのが現状とは情けない… その変なところも含めてキャラクター設定をしている演出なのだろうけど…
まあ、どの分野やどの企業・組織にいたとしても、その業の根底にある基礎をないがしろにすると、足元をすくわれることは確かなようで…