うちしめりあやめぞかをる郭公なくや五月の雨の夕暮れ 藤原良経(ふじわらのよしつね 1169-1206) 新古今和歌集 220 小山順子『藤原良経 コレクション日本歌人選 027』笠間書院 2012年1月刊 『新日本古典文学大系 11 新古今和歌集』田中裕・赤瀬信吾校注 岩波書店 1992.1 Benny Goodman (1909-1986)"Softly, as in a Morning Sunrise" (1939.1) 日記 2021年2月21日 スクワット20回 懸垂7回 66歳1か月
日記
2021年2月21日
午前0時15分起床
強風 室温17.1度 湿度43%
福岡県糸島市天気・最低最高気温予報
本日2月21日午前6時 晴れ 13.7度 最高気温 午後2時 22.0度
明日2月22日午前5時 晴れ 12.6度 最高気温 午後1時 22.9度
https://tenki.jp/forecast/9/43/8210/40230/1hour.html
体重54.2kg BMI 20.2
スクワット20回 懸垂7回
66歳1か月
Benny Goodman (1909.5.30-1986.6.13)
"Softly, as in a Morning Sunrise" (1939.1)
https://www.youtube.com/watch?v=XSeFc3CP5Mk
Class of '39
https://rsa.fau.edu/album/23053
https://www.discogs.com/ja/release/21965050-Benny-Goodman-Benny-Goodman-Small-Groups-Class-Of-39
https://ja.wikipedia.org/wiki/朝日のごとくさわやかに
「当初のオペレッタ
『ニュー・ムーン』1928
においては物憂げなタンゴのリズムで演奏」
「1930年代には、
アーティー・ショウ楽団がレパートリーに加え、
タンゴのリズムから4/4拍子のスウィングのリズムに変化
ベニー・グッドマンやウディ・ハーマンも演奏」
Artie Shaw (1910.5.23-2004.12.30)
"Softly, as in a Morning Sunrise" (1938.11.17)
"Softly as in a Morning Sunrise" (1984)
Artie Shaw Orchestra
Artie Shaw directing the new Artie Shaw Orchestra
featuring Dick Johnson.
Disneyland 1984
カラー動画
https://note.com/fe1955/n/n451f2094847d
ベニイ・グッドマン(1909.5.30-1986.6.13)の名前は
ジャズを聴き始めた高校生の頃(1970-72)から知っていましたが、
モダンジャズ以前の人なので、アルバムを買ったことはありません。
映画
『ベニイ・グッドマン物語』
The Benny Goodman Story (1955)
https://www.allcinema.net/cinema/20971
は、
2005年7月9日に、
福岡市総合図書館から借りたVHSビデオで観ました。
小山順子(1976- )
『藤原良経
コレクション日本歌人選 027』
笠間書院 2012年1月刊
https://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305706270/
https://www.amazon.co.jp/dp/430570627X
「定家ら新風歌人のパトロンにして、後鳥羽院から絶賛された、
夭折の天才歌人。
藤原良経 ふじわらよしつね
新古今時代を代表する、権門歌人。摂関流九条家の出身で、定家らが
開拓した新風和歌のパトロン的位置にあって、みずからも
「人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにし後はただ秋の風」
に見られるような漢詩風の世界に、景情一致の明澄な歌を残した。
叔父に『愚管抄』の著者天台座主の慈円がいる。
学識豊かな摂関家の御曹司として太政大臣の地位に就いたが、
三十八歳の若さで頓死した。
『新古今和歌集』仮名序の筆者でもある。
小山順子 こやま・じゅんこ
1976年京都府生
京都大学大学院博士課程修了、博士(文学)。
京都女子大学文学部教授
主要著書・論文
『文集百首全釈』(風間書房、共著)
「藤原良経『六百番歌合』恋歌における漢詩文摂取」
(『和歌文学研究』第89号)
「『長秋詠藻』から『俊成家集』へ」
(『中世文学』第55号)
【目次】
01 冴ゆる夜の真木の板屋の独り寝に心砕けと霰降るなり
02 問へかしな影を並べて昔見し人なき夜半の月はいかにと
03 ながめやる心の道もたどりけり千里の外の雪の曙
04 昔誰かかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけむ
05 友と見る鳴尾に立てる一松夜な夜な我もさて過ぐる身ぞ
06 あはれなり雲に連なる波の上に知らぬ舟路を風にまかせて
07 見し夢の春の別れの悲しきは長き眠りの覚むと聞くまで
08 古郷は浅茅が末になり果てて月に残れる人の面影
09 夜の雨のうちも寝られぬ奥山に心しをるる猿の三叫び
10 空はなほ霞みもやらず風冴えて雪げに曇る春の夜の月
11 見ぬ世まで思ひ残さぬながめより昔に霞む春の曙
12 吉野山花のふる里跡絶えて空しき枝に春風ぞ吹く
13 いつも聞くものとや人の思ふらむ来ぬ夕暮の秋風の声
14 春霞かすみし空の名残さへ今日を限りの別れなりけり
15 難波津に咲くや昔の梅の花今も春なる浦風ぞ吹く
16 暮れかかるむなしき空の秋を見ておぼえずたまる袖の露かな
17 もろともに出でし空こそ忘られね都の山の有明の月
18 うちしめりあやめぞ薫る時鳥鳴くや五月の雨の夕暮
19 神風や御裳濯川のそのかみに契りしことの末をたがふな
20 昔聞く天の川原を尋ね来て跡なき水をながむばかりぞ
21 光そふ雲居の月を三笠山千世のはじめは今宵のみかは
22 み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は来にけり
23 秋風の紫くだくくさむらに時失へる袖ぞ露けき
24 長きよの末思ふこそ悲しけれ法の灯火消えがたのころ
25 春日山都の南しかぞ思ふ北の藤波春にあへとは
26 見し夢にやがてまぎれぬ我が身こそ弔はるる今日もまづ悲しけれ
27 明日よりは志賀の花園まれにだに誰かは問はむ春のふる里
28 秋近き気色の森に鳴く蝉の涙の露や下葉染むらむ
29 きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣片敷き独りかも寝む
30 言はざりき今来むまでの空の雲月日へだてて物思へとは
31 月見ばと言ひしばかりの人は来で真木の戸叩く庭の松風
32 深草の露のよすがを契りにて里をば離れず秋は来にけり
33 雲はみな払ひ果てたる秋風を松に残して月を見るかな
34 知るや君星を戴く年ふりて我が世の月も影闌けにけり
35 人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにし後はただ秋の風
36 里は荒れて月やあらぬと恨みてもたれ浅茅生に衣打つらむ
37 石上布留の神杉ふりぬれど色には出でず露も時雨も
38 行く末は空も一つの武蔵野に草の原より出づる月影
39 忘れなむなかなか待たじ待つとても出でにしあとは庭の蓬生
40 草深き夏野分け行くさ牡鹿の音をこそ立てね露ぞこぼるる
41 何ゆゑと思ひも入れぬ夕だに待ち出でしものを山の端の月
42 誘はれぬ人のためとや残りけむ明日より先の花の白雪
43 老いらくの今日来む道は残さなむ散りかひくもる花の白雪
44 天の戸をおしあけ方の雲間より神代の月の影ぞ残れる
歌人略伝
略年譜
解説「新古今和歌集を飾る美玉 藤原良経」(小山順子)
読書案内
【付録エッセイ】心底の秋(抄)(塚本邦雄)」
2012年2月29日読了
福岡市総合図書館蔵書
藤原良経
(ふじわらのよしつね 1169-1206)
38歳で夭折した新古今和歌集巻頭の歌人、
百人一首 91
「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかもねん」
(新古今和歌集 巻第四 秋歌下 518)
で知られている
後京極摂政前太政大臣(1169-1206)の
和歌44首の鑑賞。
読み終わるまで二週間かかりましたけど、
そして書き写す気力がありませんでしたけど、
毎日、幸せでした。
『新日本古典文学大系 11
新古今和歌集』
田中裕・赤瀬信吾校注
岩波書店 1992.1
み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり
摂政太政大臣[藤原良経]
春たつ心をよみ侍りける
新古今和歌集 巻第一 春歌上 1[巻頭歌]
「吉野は山も霞んで、昨日まで白雪の降っていたこの古里に春は来たことだ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.20
秋篠月清集[藤原良経の家集]「治承題百首」。
後京極殿御自歌合。
本歌
「春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みてけさは見ゆらむ」
(壬生忠岑 拾遺 春)。
み吉野 大和国の歌枕。
山もかすみて 吉野は雪が深くて立春も
「春霞たてるやいづこみ吉野のよしのの山に雪はふりつつ」
(古今 春上 読人しらず)
と歌われている。その趣意を改めたのが本歌。
その「み吉野の山も霞みて」をそのまま承ける一方、
下の「里」に対する「山も」でもある。
この山と里を総括するのが初句で、
そのため本歌の「の」を「は」に改める。
ふりにし里 「降る」と「古る」と掛詞。
吉野は古代の離宮の地なので、古京の意で古里と呼ぶ。
雪はやんだが白皚々[はくがいがい]のイメージは働く。
寂れた古京の山野に訪れた明るい春の気配を歌う。
「立春」の歌。
藤原良経(ふじわらのよしつね 1169-1206)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。
後京極良経とも。
摂政関白・藤原兼実二男。
和歌所寄人筆頭。
建仁二年(1203年)十二月、土御門天皇の摂政となり、
建仁四年(1204年)には従一位、太政大臣。
元久三年(1206年)三月七日深夜に頓死。享年三十八。
新古今集仮名序執筆者。
新古今集入集七十九首、西行・慈円に次ぎ第三位。
千載集初出。勅撰入集三百二十首。
隠岐での後鳥羽院による
『時代不同歌合 再撰本』では在原業平と番えられている。
小倉百人一首 91
「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかもねん」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/九条良経
空はなをかすみもやらず風さえて雪げにくもる春の夜の月
摂政太政大臣[藤原良経]家百首歌合に、余寒の心を
新古今和歌集 巻第一 春歌上 23
「空は春というのにまだ霞みきらずに風は寒く、雪げの雲がかかってそのため朧な春の夜の月よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.26
建久四年(1193)、六百番歌合。後京極殿御自歌合。
家百首歌合 作者藤原良経(当時左大将)の邸で催された百首歌を結番してなった歌合の意。
余寒 立春後の寒さ。「なほさえて」は余寒を表わす常套句。
雪げにくもる 雪催いに曇る意。「雪げの雲」という句もあり、「雪降らむとて黄雲の立つなり」(奥義抄[おうぎしょう〔アウギセウ〕平安後期の歌学書。三巻。藤原清輔(ふじわらのきよすけ 1104-1177)著。天治元年(1124)~天養元年(1144)の間に成立]上)という。
霞のためでなく、雪げの雲で朧だというのである。
「余寒」、または「余寒の月」の歌。
わするなよたのむの沢をたつ雁も稲葉の風の秋の夕暮
摂政太政大臣[藤原良経]
帰雁を
新古今和歌集 巻第一 春歌上 61
「必ず思い出してくれ。いま田の面の沢を飛び立つ雁も、やがて稲葉に風のそよぐ秋の夕暮れを。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.36
秋篠月清集[藤原良経の家集]「二夜百首」、建久元年(1190)十二月。後京極殿御自歌合。
たのむの沢 荒れた春田の浅い水たまり。「たのむ」は「たのも(田の面)」の転訛。
「みよし野のたのむの雁もひたふるに君が方にぞよると鳴くなる」(伊勢物語十段)。
秋の夕暮 「雁 八月柳の末に風ふく時、常世の国より来て、二月に帰るといへり」(八雲御抄三[やくもみしょう 順徳天皇 1197-1242 による歌論書])。
参考
「昨日より早苗とりしかいつのまに稲葉そよぎて秋風のふく」
(古今 秋上 読人しらず)
「帰雁」の歌。
帰る雁いまはの心ありあけに月と花との名こそをしけれ
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第一 春歌上 62
「帰雁がもう旅立つ時分と心にきめているらしい有明で、今は月と花との名の方が惜しまれてならない。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.36
正治二年(1200)、[後鳥羽]院初度百首。
心ありあけ 「心あり」と「ありあけ」と掛詞。「ありあけ」は月の残る夜明けで、[旧暦で]中旬以後、ことに二十日以後をいう(袖中抄十九[しゅうちゅうしょう〔シウチユウセウ〕平安末期の歌学書。20巻。顕昭著。文治年間(1185~1190)ごろの成立])。
名こそをしけれ 帰雁を恨むのではなく、帰雁を翻意させられないのを月花の名折れとして惜しむと逆説的に歌う。
参考
「春霞立つを見すてて行く雁は花なき里に住むやならへる」
(伊勢 古今 春上)。
「帰雁」の歌。
ときはなる山の岩根(いはね)にむす苔の染めぬみどりに春雨ぞふる
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第一 春歌上 66
「名も常盤の、永久に変わることのない山の岩盤に生えている常緑の苔、その自分が染めたのでない緑の上に春雨が降って、ひとしお色鮮やかにしていることだ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.37
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
ときはなる山 山城国の歌枕の「常盤の山」に掛ける。
参考
「わがせこが衣はるさめ降るごとに野辺の緑ぞ色まさりける」
(紀貫之 古今 春上)
「春雨」の歌。
さそはれぬ人のためとや残りけん明日よりさきの花の白雪
摂政太政大臣[藤原良経]
返し
新古今和歌集 巻第二 春歌下 136
「(確かに美しい雪と拝見しましたが)これは誘っていただけなかった私の為にと残ってくれたのでしょうか。「明日」より前の今日急いで降ったこの花の白雪は。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.56
秋篠月清集[藤原良経の家集]。源家長日記。
後鳥羽院からの贈歌 135
「今日だにも庭をさかりとうつる花きえずはありとも雪かともみよ」
への返歌。
本歌「けふ来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや」(在原業平 古今 春上)。
けん 本歌では雪は「明日」のものなので、「明日」を基準として「今日」を「明日よりさき」と言い、回想の形で表わす。
上皇の恩情を雪の好意に取り成して、逆に恨んでみせたのはもとより諧謔で、贈答歌に常套の技法である。
「庭の落花」の歌。
吉野山花のふるさと跡たえてむなしき枝に春風ぞふく
摂政太政大臣[藤原良経]
残春の心を
新古今和歌集 巻第二 春歌下 147
「吉野山、この花も散り過ぎた古里には人の訪れも絶え、花なき枝には春風ばかりが吹いている。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.59
建久四年(1193)、六百番歌合。
残春 春の末。
花のふるさと 花の散ったあとの寂れた里の意を吉野の古里に掛ける。吉野は古代の離宮の地なので、古京の意で古里と呼ぶ。
むなしき枝に 漢語「空枝」の訓。詠歌一体[えいがいつてい 鎌倉初期の歌論書。1巻。藤原為家[定家の子]著。弘長3年(1263)または文永7年(1270)ころの成立か。]は制詞[せいのことば 歌学用語 歌を作るときに使用を許されない詞(ことば)]とする。
参考
「山人の昔の跡を来て見れば空しき床を払ふ谷風」
(藤原清輔 千載 雑上)
「ちる花のふるさととこそなりにけれわが住む宿の春の暮れ方」
(慈円 建久元年(1190)九月十三夜、花月百首)
「春の山風」の歌。
初瀬山うつろふ花に春くれてまがひし雲ぞ峰にのこれる
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第二 春歌下 157
「初瀬山を見ると、花が衰えるとともに春も暮れ、昔は花と見分けのつかなかった雲ばかりが山頂に残っていることだ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.62
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
初瀬山 大和国の歌枕。「長谷寺なり。雲居に高くよむ」(和歌初学抄[平安時代後期の歌人藤原清輔 1104-1177 による歌学書])。
「花の跡を尋ぬ」の趣。
巻頭から続いた「花」は完結。
あすよりは志賀の花園まれにだにたれかは訪はん春のふるさと
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第二 春歌下 174 巻軸歌
「明日からは志賀の花園を稀にも誰が訪れようか。春の古里となる古里よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.66
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
あす 立夏である。
志賀の花園 近江の旧都の地が、花の名所長等山の東麓(粟津原など)に想定されていたための称か。
まれにだに 「花のありしほどは稀にも人の訪ひし心を含めたり」(本居宣長『美濃の家づと』[寛政三年(1791)成立、同七年刊。新古今集から和歌696首を選んで文法的に注釈])。
春のふるさと 春が去って寂れた土地で、ここは古里の志賀に掛けていう。「花もみな散りぬる宿はゆく春のふるさととこそなりぬべらなれ」
(紀貫之 拾遺 春)。
無名抄[鴨長明による鎌倉時代の歌論書]が達磨歌的表現の好例とした用語。
「三月尽」の歌。
新古今の春の部は、良経で始まり、良経で終わります。
「「春」の巻頭と環軸をともに摂政太政大臣の古京の歌で飾ったのは偶然ではない。」p.66
有明(ありあけ)のつれなくみえし月はいでぬ山郭公(ほととぎす)まつ夜ながらに
摂政太政大臣[藤原良経]
千五百番歌合に
新古今和歌集 巻第三 夏歌 209
「ぐずぐずして無情に見えた有明の月はやっと出た。山郭公はまだ待つ夜のままで。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.76
建仁二年(1202)頃、千五百番歌合 夏一。
本歌
「有明のつれなく見えし別れよりあかつきばかり憂きものはなし」
(壬生忠岑 古今 恋三 小倉百人一首 30)。
有明 ここは有明(月の残る夜明けで、[旧暦で]中旬以後、ことに二十日以後)の頃の遅い月の出をいう。
本歌の暁に対して夜中、別れの恨みに対して待つ恨みである。
「月前郭公」の歌。
うちしめりあやめぞかをる郭公(ほととぎす)なくや五月(さつき)の雨の夕暮れ
摂政太政大臣[藤原良経]
五首歌人々によませ侍(はべり)けるとき、夏歌とてよみ侍ける
新古今和歌集 巻第三 夏歌 220
「しっとりと空気はしめり、あやめの香がよく立つことだ。郭公の鳴く五月の、雨のふる夕暮よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.79
秋篠月清集[藤原良経の家集]。後京極殿御自歌合。
本歌
「郭公なくや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな」
(古今 恋一 読人しらず)。
うちしめり 薫物[たきもの 種々の香を合わせて作った煉香(ねりこう)。それをたくこと]によい状態で、その連想がある。
本歌の序を叙景と実感で蘇らせており、「や」の詠嘆も深い。
「あやめぞかをる」「雨のゆふぐれ」を詠歌一体[えいがいつてい 鎌倉初期の歌論書。1巻。藤原為家[定家の子]著。弘長3年(1263)または文永7年(1270)ころの成立か。]は制詞[せいのことば 歌学用語 歌を作るときに使用を許されない詞(ことば)]とする。
「夕の郭公」の歌。「郭公」と「菖蒲」との繋ぎ。
小山田に引くしめなはのうちはへて朽ちやしぬらん五月雨の比(ころ)
摂政太政大臣[藤原良経]
釈阿、九十賀たまはせ侍りし時、屏風に五月雨
新古今和歌集 巻第三 夏歌 226
「山田の苗代に引き渡してある注連縄がすっかりくさってしまうのではなかろうか。五月雨の頃となって。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.81
秋篠月清集[藤原良経の家集]、建仁三年(1203)十一月。
釈阿 藤原俊成(1114-1204)の法名。
九十賀たまはせ 建仁三年(1203)十一月二十三日和歌所で行われた後鳥羽院主催の賀。
うちはへて ひき続き、ひたすらにの意。また「はふ」は「延ふ」で縄の縁語。
「早苗」から「五月雨」へ移る繋ぎの歌。
いさり火の昔のひかりほのみえて蘆屋のさとにとぶ蛍かな
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第三 夏歌 255
「漁火の、あの昔のにぎやかな光を今もほのかに眼に浮かばせて、蘆屋の里に飛ぶ蛍よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.89
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
本歌
「晴るる夜の星か川辺の蛍かもわが住むかたの海人のたく火か」
(伊勢物語 八十七段)。
昔のひかり 伊勢物語に「海人のいさり火多く見ゆるに」とある。
ほのみえて イメージとしての「昔の光」なので、ほのかにという。
蘆屋のさと 摂津国の歌枕。
伊勢物語では漁火を蛍火かとも疑ったのであるが、これは蛍火に漁火の面影を見たのである。
「鵜川」に付けて「漁火」の歌。
かさねてもすずしかりけり夏衣うすき袂にやどる月かげ
摂政太政大臣[藤原良経]
家百首歌合に
新古今和歌集 巻第三 夏歌 260
「これは重ね着しても涼しいことだ。夏衣のその薄絹の袂の上に映っている月光よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.90
建久四年(1193)、六百番歌合「夏衣」。
うすき袂 薄物即ち羅、紗などの袖。
やどる月かげ 月光、月の姿のいずれでもよいが、「重ねて」といえば前者がふさわしい。清泉に月を映すような美的感興。
参考
「秋の夜は衣さむしろかさねても月の光にしく物ぞなき」
(源経信 新古今 秋歌下 489)。
「夏の月」の歌。
秋ちかきけしきの森になく蝉の涙の露や下葉(したば)そむらん
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第三 夏歌 270
「秋も近い気配の見えるけしきの森で鳴くひぐらしの涙である露が森の下葉をもみじさせるのであろうか。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.93
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
本説
「嫋嫋兮秋風、山蝉鳴兮宮樹紅
[嫋嫋(でうでう)たる秋の風に
山の蝉鳴きて宮樹(きゆうじゆ)紅(くれなゐ)なり
そよそよと吹く秋風の中、山の蝉が鳴いて
離宮の庭園の樹は紅く色づいている]
(和漢朗詠集「蝉」・白居易)。
けしきの森 大隅国の歌枕。気配の意の「けしき」に掛ける。
蝉 「秋近くなりて鳴くはひぐらしなり」(八雲御抄三[やくもみしょう 順徳天皇 1197-1242 による歌論書]「蝉」)。
涙 秋になれば死ぬ定めを悲しむ蝉の涙。
露が草木を染めるという通念に立ち、その露を蝉の涙に見立てたもの。
参考
「鳴きわたる雁の涙や落ちつらむ物思ふ宿の萩の上の露」
(古今 秋上 読人しらず)、
「秋の来るけしきの森の下かぜに立ち添ふものはあはれなりけり」
(待賢門院堀河 千載 秋上)。
「蝉」の歌。
蛍とぶ野沢にしげる葦のねのよなよな下にかよふ秋風
摂政太政大臣[藤原良経]
五十首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第三 夏歌 273
「蛍が飛ぶ野中の沢に茂っている葦の根のよではないが、夜ごとに人知れず通ってくる秋風よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.93
建仁元年(1201)二月、老若五十首歌合。
沢 水草の生えた浅い水。池・川の辺をもいう。
葦のねのよ 葦の根茎の節。節から髭根を出す。「根」「よ」「下」は縁語。「よ」と「夜」は掛詞。
下にかよふ 根茎が地下に延びていることと秘かに通ってくる意とを掛ける。
野沢に立った秋の気配を歌う。
参考
「蒹葭水暗蛍知夜、楊柳風高雁送秋
[蒹葭(けんか)水暗うして螢夜(よ)を知る、
楊柳(やうりう)風高うして雁(かり)秋を送る
葦が生い茂って水面が暗くなると、
蛍は夜だと思って光をはなちはじめます。
楊柳のこずえ高く風が吹きくるにつれて、
北方から南へ雁が秋を運んでやってきます]」
(和漢朗詠集「蛍」許渾)。
葭はアシ。蒹も水辺の草。
「蛍」から「風秋に似たり」に移る繋ぎの歌。
深草の露のよすがを契(ちぎり)にて里をばかれず秋はきにけり
摂政太政大臣[藤原良経]
千五百番歌合に
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 293
「深い草に露が置くというわずかな繋がりを宿縁として、この荒れた深草の里を見捨てずに秋風が訪れ、秋は来たことだ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.99
建仁二年(1202)頃、千五百番歌合 秋一。
深草 山城国の歌枕。高く茂った草の意を掛ける。
露 八雲御抄三[やくもみしょう 順徳天皇 1197-1242 による歌論書]「春もよめど夏秋のものなり」。「わずかな」の意の「つゆの」を掛ける。
よすが 縁、えにし。
契 秋風は露を尋ねるものという習性をさす。
かれず 離れず。
参考
「今ぞ知る苦しきものと人待たむ里をばかれずとふべかりけり」
(在原業平 古今 雑下。伊勢物語四十八段)。
「初風」に「露」の歌。
をぎの葉にふけばあらしの秋なるを待ちけるよはのさを鹿の声
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 356
「軒端の荻の葉に吹く音を聞けば風も一段と荒々しい山風の秋とはなったが、それを待ちうけていたとみえる夜半の雄鹿の声よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.116
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
あらし 八雲御抄三[やくもみしょう 順徳天皇 1197-1242 による歌論書]「山より吹く心なり」。
待ちける 妻を呼ぶ鹿の声を聞いてそれと気がついたという擬人的表現。
軒端の荻に吹く風が山風に変る夜中、忽ち山中の鹿の声が送られて来て一入すさまじい思いがする。
参考
「世の中をあきはてぬとやさを鹿の今はあらしの山に鳴くらむ」
(藤原顕仲 金葉 秋)。
「荻」の歌。
藤原良経(新古今集仮名序執筆者)
の和歌が四首 356-359続きます。
同一作者の詠がこれだけ続くのは、
他にもあったかなぁ?
巻第十八 雑歌下の巻頭に、
菅原道真の作品が十二首並ぶ
というすごい例外もありますけど。
どちらも、実質的な編者であった
後鳥羽院の意図なのでしょう。
おしなべて思ひしことのかずかずになほ色まさる秋の夕暮
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 357
「総じてこれまで経験した数々の物思いのどれよりも、一段とあわれさの身にしむ秋の夕暮のけしきよ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.116
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
色 けしき。
「物色自堪傷客意
(もののいろはおのづからかくのこころをいたましむるにたへたり)、
宜将愁字作秋心
[宜(うべ)なり愁(うれへ)の字をもて秋の心に作れること]」
(和漢朗詠集「秋興」 小野篁)。
「秋夕」の歌。
くれかかるむなしき空の秋をみておぼえずたまる袖の露かな
摂政太政大臣[藤原良経]
題しらず
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 358
「暮れはじめた虚空にひろがる秋のけはいを仰いで、何故ともなしに落ちたまる袖の夕露よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.116
秋篠月清集[藤原良経の家集]「南海漁父百首」、建久五年(1194)八月。
むなしき空 虚空の訓。
露 実はわが感傷の涙である。
「秋夕」の歌。
ものおもはでかかる露やは袖におくながめてけりな秋の夕暮
摂政太政大臣[藤原良経]
家に百首歌合し侍(はべり)けるに
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 359
「物思いもしないでこのような露が袖に置くはずがあろうか。やはり物思いにふけっていたのだな、秋の夕暮よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.116
建久四年(1193)、六百番歌合「秋夕」。
露 秋の縁語で涙をさす。
「秋夕」の歌。
ふるさとのもとあらの小萩さきしより夜(よ)な夜な庭の月ぞうつろふ
摂政太政大臣[藤原良経]
五十首歌たてまつりし時、月前草花
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 393
「古里の本あらの小萩が咲いてからというもの、毎夜庭に訪れる月の光ばかりがいとおしむように映っている。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.125
建仁元年(1201)十二月、仙洞句題五十首。
本歌
「宮城野の本あらの小萩露を重み風をまつごと君をこそ待て」
(古今 恋四 読人しらず)。
もとあら 和歌初学抄[平安時代後期の歌人藤原清輔 1104-1177 による歌学書]「本のすけるなり」。荒れた庭の、生えぎわの整わない萩。
小萩 「小」は愛称。
本歌によって月が露に映るとする注もあるが、それでは特に「咲きしより」と限定した意味がない。
廃園の萩の花に月の映る優しさ。
「故郷の秋月」の歌。
時しもあれふるさと人(びと)はおともせでみ山の月に秋風ぞふく
摂政太政大臣[藤原良経]
建仁元年三月歌合に、山家秋月というふことをよみ侍(はべり)し
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 394
「こういう時に都の人は訪れて来ず、深山の月に秋風の吹く音ばかりが聞こえる。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.125
建仁元年(1201)三月二十九日、新宮撰歌合。
時しもあれ まさしく寂しさに堪えがたい時である。
ふるさと人 もと居た都の人をさす。
下句はそれが一層寂しさを催すというのである。
「故郷の秋月」の歌。
ふかからぬ外山(とやま)の庵(いほ)のねざめだにさぞな木(こ)のまの月はさびしき
摂政太政大臣[藤原良経]
八月十五夜和歌所歌合に、深山月といふことを
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 395
「こんなに深くない外山の庵の寝覚めに眺めてさえ、どんなにか木の間の月は寂しいことであろうに。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.125
建仁元年(1201)八月十五夜撰歌合「深山暁月」。
ふかからぬ 深山にいての発語。
外山 里近い山。
月 「暁月」で有明の月。
外山にいて深山の月を推量したとする解はとらない。
深山の月の堪えがたい寂しさを表わす特異な手法。
「木間の秋月」の歌。
三首続いた良経の秋月の和歌は、
三首とも建仁元年(1201)に詠まれたものでした。
歌道に執心していた
若き後鳥羽院(1180~1239) が、
記憶に残っているこの三首を、
ここに並べたんだろうなぁ。
雲はみなはらひはてたる秋風を松にのこして月をみるかな
摂政太政大臣[藤原良経]
五十首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 418
「雲は皆吹き払い終わった秋風を松の枝に留めておいて月を見ることだな。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.131
建仁元年(1201)二月、老若五十首歌合。
松にのこして 松風のなお聞こえること。
「秋風楽」を奏でさせるためにわざと残したといった口吻。
秋風を始終意のままに使役して名月を観る態で長者の威風がある。
「松間の月」の歌。
月だにもなぐさめがたき秋の夜の心もしらぬ松の風かな
摂政太政大臣[藤原良経]
家に月五十首歌よませ侍(はべり)ける時
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 419
「月を見るだけでも悲しく堪えがたい秋の夜の私の心も知らぬげに、松に吹きすさぶ風よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.131
秋篠月清集「花月百首」、建久元年(1190)九月十三夜披講。
後京極殿自歌合。
本歌
「わが心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月を見て」
(古今 雑上 読人しらず)。
なぐさめ 心を安らかにする。
「松間の月」の歌。
行く末(すゑ)はそらもひとつの武蔵野に草のはらよりいづる月かげ
摂政太政大臣[藤原良経]
五十首歌たてまつりし時、野径月
新古今和歌集 巻第四 秋歌上 422
「分けゆく末は空も一つづきに見える武蔵野の中、その草の原から昇る月輪よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.132
建仁元年(1201)十二月、仙洞句題五十首。
そらもひとつ 野末が空に接しているさまで、海原のような武蔵野の特色を捉える。
武蔵野 武蔵国の歌枕。草深く末遥かなイメージがあった。
草のはらより 山よりではない驚きと、月が昇って空と野を二つに分けたとする趣向。趣向の面白さとともに琳派的に優雅、華麗な構成が注目される。
参考
「都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ」
(紀貫之 土左日記)。
「秋月に末を結んで月前の遠望」の歌。
たぐへくる松のあらしやたゆむらんをのへに帰(かへ)るさを鹿の声
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌よみ侍りけるに
新古今和歌集 巻第五 秋歌下 444
「一緒になって吹きおろしてくる松の嵐が弱まったのであろうか。今は峰の方に遠ざかって聞える雄鹿の声よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.139
秋篠月清集[藤原良経の家集]「十題百首」、建久二年(1191)閏十二月。
松のあらし 山中の松の木末をわたる山風。想像である。
吹く風の強弱に従って送られてくる鹿の声が遠く近くなる。その微妙な推移を巧緻に捉えた歌。
参考
「山高みおろす嵐やよわるらむかすかになりぬさを鹿の声」
(藤原季経 仁安二年(1167)八月、平経盛朝臣家歌合「鹿」)。
「嵐」に結ぶ「山の鹿」の歌。
里はあれて月やあらぬと恨みてもたれ浅茅生(あさぢふ)に衣うつらん
摂政太政大臣 [藤原良経]
和歌所歌合に、月のもとに衣うつといふことを
新古今和歌集 巻第五 秋歌下 478
「里は荒れ、月ばかりは昔のままだが私一人とり残されてと恨んで、どういう人が浅茅生であのように衣を打つのであろう。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.148
建仁元年(1201)八月十五夜撰歌合。
本歌
「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして」
(在原業平 古今 恋五)。
里はあれ 旅にある夫の帰ってこないことを示唆する。
「夫は旅に出でて、妻は旧室に残りて衣打つ心あるべし」
(和歌無底抄[藤原基俊による平安後期の歌学書]。
月やあらぬ この句に本歌の歌意を凝縮する。
も 詠嘆。
浅茅生 浅茅の生い茂った所。廃園をいう慣用語。
恨むがごとき砧の音に、打つ人の心中、場所を思いやる。
「擣衣」の歌。
きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしき独(ひと)りかもねん
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第四 秋歌下 518
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
「こおろぎの鳴く、この霜の降る夜の寒い筵の上で、衣を片敷いて独り寝るのであろうか。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.158
本歌
「さ筵に衣片敷こよひもや恋しき人にあはでのみ寝む」
(伊勢物語六十三段)。
さむしろ 幅の狭い粗末な筵。「寒し」と掛詞。
かたしき 相手と袖を交わさないで、自分の袖のみを敷いて独寝すること。
はゝそ原しづくも色やかはるらん森のした草秋ふけにけり
摂政太政大臣[藤原良経]
左大将に侍ける時、家に百首歌合し侍りけるに、はゝそをよみ侍りける
新古今和歌集 巻第五 秋歌下 531
「柞原では滴る雫までも紅葉の色に染まっていることであろうか。ここ大荒木の森の下草も秋のけしきが深まったことだ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.162
建久四年(1193)、六百番歌合。
本歌
「おほあらきの森の下草しげりあひて深くも夏のなりにけるかな」
(壬生忠岑 拾遺 夏)。
はゝそ原 山城国の歌枕(八雲御抄五[やくもみしょう 順徳天皇 1197-1242 による歌論書])。
柞はナラ・クヌギの類の総称。
森のした草 本歌のそれをさす。
大荒木の森の下草まで色づくのを見て、同じ山城国の紅葉の名所に思いを馳せる。
「森の紅葉」の歌。
立田姫いまはのころの秋風に時雨をいそぐ人の袖かな
摂政太政大臣[藤原良経]
家に百首歌合し侍りける時
新古今和歌集 巻第五 秋歌下 544
「秋の山を染めた立田姫の別れ際に吹く秋風のために紅葉は散り尽くし、今はもう時雨の染めるものがないので、私の袖が時雨の支度をしているよ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.165
建久四年(1193)、六百番歌合 暮秋。
立田姫 「秋の神をいふ。秋の山を染むる神なり」(能因歌枕[能因 988-1050 による歌学書])。
五行思想では秋は西に配されるので、平城京の西南に当る立田山にちなむ呼び名。
秋風 木の葉を散らすものとして一首の眼目。
時雨 暮秋・初冬の景物。ここは女神との別れを惜しむ涙に譬える。
時雨は木々を染めるものなので、別れを惜しむ紅涙に袖が染まるのを時雨のせいにして、「時雨をいそぐ」といった。
「いそぐ」の主格は「人の袖」。
「九月尽」の歌。
ささの葉はみ山もさやにうちそよぎこほれる霜を吹く嵐かな
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第六 冬歌 615
「笹の葉は一山をさやかに響かせてそよそよと鳴り、葉上の凍った霜を吹き払う山風よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.185
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首 恋。
本歌
「ささの葉はみ山もさやに乱れどもわれは妹思ふ別れきぬれば」
(柿本人麿 万葉集二)。
八雲御抄四[やくもみしょう 順徳天皇 1197-1242 による歌論書]に「さや さやかになり」とある。
上句は聴覚的、下句は視覚的イメージ。
「霜」に「嵐」を結ぶ歌。
きえかへり岩間(いはま)にまよふ水のあわのしばし宿かるうす氷かな
摂政太政大臣[藤原良経]
題しらず
新古今和歌集 巻第六 冬歌 632
「消え失せたり岩間にさまよったりしている水の泡が、束の間取りついている薄氷よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.189
秋篠月清集[藤原良経の家集]「南海漁父百首」、建久五年(1194)八月。後京極殿御自歌合。
きえかへり 「かへり」は強調。
うす氷 すでに流れの表面は薄く凍っている。
仏説にも無常の譬えとされる泡のめまぐるしく、はかない動きは、それが同様にはかない薄氷に宿かることで極まる。
繊細かつ巧緻な歌。
「氷」の歌。
枕にも袖にも涙つららゐてむすばぬ夢をとふ嵐かな
摂政太政大臣[藤原良経]
題しらず
新古今和歌集 巻第六 冬歌 633
「枕にも袖にも落ちる涙は氷となって、夢を結ぶこともできずにいる折節、ごうごうと閨に訪れる山風よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.189
秋篠月清集[藤原良経の家集]「南海漁父百首」、建久五年(1194)八月。後京極殿御自歌合。
涙 冬の夜のあわれさに落ちる涙。
つららゐて 「つららゐる」は成語。結氷すること。
いまいう「つらら」は「たるひ」。
630「立ちぬるる山の雫もおとたえて真木の下葉にたるひしにけり」
むすばぬ 「結ぶ」は「つらら」「夢」の縁語。
「氷」の歌。
みなかみやたえだえこほる岩間より清滝河にのこる白浪
摂政太政大臣[藤原良経]
五十首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第六 冬歌 634
「水上はあちこちに凍らないところがあるのだろうか。その凍った岩間を通って清滝川でわずかに打ち揚げている白波よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.189
建仁元年(1201)二月、老若五十首歌合。
みなかみや 「や」は疑問で、第二句で切れながら、さらに「こほる岩間」と続く。
たえだえ 点々と凍っている意。
岩間より 清滝川は名だたる渓流で、岩・岩間と詠むことが多い。
清滝川 山城国の歌枕。
下流に残る白波を見て、水上の氷結の状態を推量する。
参考
「さえそめてまだ閉ぢはてぬ池水の凍れるほどに残る波かな」
( 藤原家隆 壬二集 正治元年(1199)冬「池水半氷」)。
「氷」の歌。
かたしきの袖の氷もむすぼほれとけて寝ぬ夜の夢ぞみじかき
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第六 冬歌 635
「独り寝の袖には涙の氷も堅く結び、そのためうち解けて寝ることもできず、長い冬の夜も夢ばかりは短いことだ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.190
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
本歌
「とけて寝ぬねざめさびしき冬の夜にむすぼほれつる夢の短かさ」
(源氏物語 槿)。
かたしき 「かたしく」は独寝すること。
むすぼほれ 氷が結ぶ意に心が屈託する意を掛け、夢とも縁語。また「とけ」とは対語。
ほとんど本歌と変らないが、わずかに感傷の詞を捨てたところに工夫が見える。
「氷」の歌。
月ぞすむたれかはここにきのくにや吹上の千鳥ひとりなく也(なり)
摂政太政大臣[藤原良経]
五十首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第六 冬歌 647
「月はかくも澄んでいる。が誰がここに月を尋ねて来ようか。紀伊国の吹上の浜には千鳥ばかりが鳴いていることだ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.193
建仁元年(1201)二月、老若五十首歌合。
きのくにや 「来」と「紀」を掛詞とし、併せて「紀の国や吹上」と続く。
ひとり 人に対していう。
「千鳥」の歌。
いその神布留(ふる)野のをざさ霜をへてひとよばかりにのこる年かな
摂政太政大臣[藤原良経]
題しらず
新古今和歌集 巻第六 冬歌 698
「石上の布留野の小笹が幾夜の厳しい霜を経て、ただ一節枯れ残っている、そのように今年もたった一夜残すばかりになったな。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.206
秋篠月清集[藤原良経の家集]「治承題百首・歳暮」。
後京極殿御自歌合。
いその神布留野 大和国の歌枕。石上にある布留の野。「布留の社」(石上神宮)がある。「布留」に「経る」を掛けて「へ」の縁語。
をざさ 小笹(篠)。篠は神楽の採物(とりもの[神楽や神事で手に持つ道具])の一つで神聖な植物。
ひとよ 篠の「よ(節)」と「夜」を掛ける。
「歳暮」の歌。
おしなべて木(こ)の芽も春のあさみどり松にぞ千代の色はこもれる
摂政太政大臣[藤原良経]
京極殿に初めて人々歌つかうまつりしに、松有春色といふ事をよみ侍(はべり)し
新古今和歌集 巻第七 賀歌 735
「木々の芽も一様にふくらみ見はるかすすべては春の浅緑色となった。中でもひときわ緑濃い松にこそ、わが君の御代が千年も変ることのない常磐の色がこもっている。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.217
秋篠月清集・祝部「京極殿初度御会」、建仁三年(1203)正月十五日 。
京極殿 もと道長の邸宅。藤原兼子(卿三位)の家だったが、後鳥羽院が改造して用いた。
おしなべて
「おしなべて梢青葉になりぬれば松の緑もわかれざりけり」
(白河院 金葉 夏)。
木の芽も春 「春」と「張る」と掛詞。「目も遥」も掛けるか。
参考
「霞たち木の芽も春の雪ふれば花なき里も花ぞ散りける」
(紀貫之 古今 春上)。
参考
「常盤なる松の緑も春くれば今ひとしほの色まさりけり」
(源宗干 古今 春上)。
敷島ややまとしまねも神代より君がためとやかためおきけん
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第七 賀歌 736
「この日本の国も、神代の昔から神々がわが君のために揺るぎなく固めておかれたのだろうか。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.217
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首「祝」。
敷島や 「やまと」の枕詞。
やまとしまね 「やまとしまねとは日本の名なり」(和歌童蒙抄八[わかどうもうしょう〔ワカドウモウセウ〕平安後期の歌学書。10巻。藤原範兼著。久安元年(1145)ごろの成立か])。
参考
「いざ子ども狂(はた)わざなせそ天地(あめつち)のかためし国ぞ大和島根は」
(万葉集二十・藤原仲麻呂)、
「千年とも御代をばわかじ敷島や大和島根し動きなければ」
(散木奇歌集[源俊頼の家集]・祝部)。
神代に思いをよせて静謐の世を賀する。
同音の反復や連鎖が顕著。
ぬれてほすたまぐしの葉の露霜にあまてる光いく代へぬらん
摂政太政大臣[藤原良経]
千五百番歌合に
新古今和歌集 巻第七 賀歌 737
「濡れては乾き、濡れては乾きする榊(さかき)の葉の上に置く露や霜、そこに天に照る日の光が宿って、もう幾代を経たのであろうか。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.218
建仁二年(1202)頃、千五百番歌合・祝。
ぬれてほす
「ぬれてほす山路の菊の露のまにいつか千年をわれはへにけむ」
(素性 古今 秋下)。
たまぐし 「玉串とは榊を云ふなり。大神宮の風俗なり」(奥義抄・下[おうぎしょう〔アウギセウ〕平安後期の歌学書。三巻。藤原清輔(ふじわらのきよすけ 1104-1177)著。天治元年(1124)~天養元年(1144)の間に成立])。榊を伊勢神宮では「玉串」と称した。
露霜 年月の意もあり、下の「いく代」と響きあう。
あまてる光 伊勢神宮に祭られる皇祖神天照大神を「あまてる神」「てる日のみこ」(八雲御抄三[やくもみしょう 順徳天皇 1197-1242 による歌論書])といい、光はその象徴。
春日山(かすがやま)宮(みや)このみなみしかぞ思ふ北のふぢなみ春にあへとは
摂政太政大臣[藤原良経]
いへに歌合し侍けるに、春の祝(いはひ)の心をよみ侍ける
新古今和歌集 巻第七 賀歌 746
「京の都の南にある春日山で、わたしはこう思う、天子の恩沢を受けて北の藤波が春の栄えに遇ってほしいと。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.220
正治二年(1200) 閏二月、良経家十題二十番撰歌合(秋篠月清集[藤原良経の家集])。
本歌
「わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」
(喜撰 古今 雑下)。
春日山 大和国の歌枕。藤原氏の氏神を祭る春日大社がある。
宮このみなみ 天子は南面し、臣下は北面する。天皇の恩恵を表わす。
しか 副詞「然(しか)」に春日大社の神獣「鹿」を響かせる。
北のふぢなみ 摂関家が属する藤原氏北家を象徴。
参考
「春日山北の藤波さきしより栄ゆべしとはかねて知りにき」
(源師頼 詞花 雑上「藤花年久」)。
藤原氏を表わす「藤波」から天皇家を表わす「松」へ。
春霞かすみし空のなごりさへけふをかぎりの別れなりけり
摂政太政大臣[藤原良経]
定家朝臣、母の思ひに侍りける春の暮につかはしける
新古今和歌集 巻第八 哀傷歌 766
「春霞に霞んでいた空は、亡くなられたお母上の荼毘の煙の名残でしたが、その名残の霞とさえも、春の暮れる今日を最後に、お別れしなければなりませんね。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.228
秋篠月清集・無常[藤原良経の家集]。
拾遺愚草[藤原定家の家集]。
母の思ひに侍りける春の暮 母の喪に服していました春の終り。
定家の母、美福門院加賀は建久四年(1193)二月十三日没。
秋篠月清集の詞書によれば、この歌は三月尽日[最後の日。みそか]に贈られたというから、中陰[ちゅういん 人が亡くなってから次の新しい生へ向かうまでの]四十九日も終る頃であらう。
行く春のあわれを表に出し、春霞によって友人の母の死を暗示にとどめた、弔問の歌。
春の哀傷。
見し夢にやがてまぎれぬわが身こそとはるるけふもまづ悲しけれ
摂政太政大臣[藤原良経]
返し
新古今和歌集 巻第八 哀傷歌 829
「はかない夢のようだったあのひとの死。その夢を見ながら、夢のうちにそのまままぎれて消えてしまうことのできなかったわたし。そんなわが身が、あなたからご弔問いただいた今日も、まず悲しく思われてなりません。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.249
秋篠月清集・哀傷[藤原良経の家集]。
藤原俊成からの贈歌
828「権中納言道家母、かくれ侍りにける秋、摂政太政大臣のもとにつかはしける
かぎりなき思ひのほどの夢のうちはおどろかさじと歎きこしかな」
への返歌。
本歌
「見てもまた逢ふ夜まれなる夢のうちにやがてまぎるるわが身ともがな」
(源氏物語 若紫)。
けふも 今まで毎日悲しかった。そして今日も。
光源氏が藤壺に贈った恋歌を本歌に取りながら、哀傷に転じた。
悲恋を予感しながら、それでも愛の夢に「やがてまぎるる」ことを願望する本歌に対し、いとしい人の死という悲しい夢に「やがてまぎれぬ」わが身を嘆いて、切ない思いを表現した。
もろともにいでし空こそ忘られね宮この山のありあけの月
摂政太政大臣[藤原良経]
旅の歌とてよめる
新古今和歌集 巻第十 羇旅歌 936
「有明の月が山の端を出るのといっしょに、都を後にしたが、その時の空の景色こそが忘れられないものとなった。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.282
秋篠月清集[藤原良経の家集]「南海漁夫百首・羈旅」、建久五年(1194)八月。
旅の途中、都の方角の山にかかる有明の月を見て、望郷の思いをいだく。
参考
「都にてながめし月のもろともに旅の空にも出でにけるかな」
(道命 詞花 雑下)。
わすれじと契(ちぎ)りていでし面影は見ゆらん物をふるさとの月
摂政太政大臣[藤原良経]
和歌所月十首歌合のついでに、月前旅といへる心を人々つかうまつりしに
新古今和歌集 巻第十 羇旅歌 941
「お互いに忘れないでいようと約束をして都を出た。故郷のひとの面影は、月を見るたびに思い出される。そのひとも、今夜の月にわたしの面影を見ているだろうに、心が慰まないのはなぜ…。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.283
建仁元年(1201)八月十五夜、当座御会(明月記[藤原定家の日記])。
見ゆらん物を 「見ているであろうに、それなのにどうして」と、恨む気分を残す。
いその神ふるの神杉ふりぬれど色にはいでず露も時雨も
摂政太政大臣[藤原良経]
和歌所歌合に、久忍恋といふことを
新古今和歌集 巻第十一 恋歌一 1028
「石上の布留の社の神杉は年経たけれども、さすがに紅葉しないでいる。露にも時雨にも。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.308
本歌
「石上ふるの神杉神なるや恋をもわれはさらにするかも」
(万葉集十一・柿本人麿歌集)。古来風体抄・上[こらいふうていしょう 鎌倉初期の歌論書。藤原俊成著。式子内親王の依頼により、建久八年(1197)に撰進。万葉集から千載集までの秀歌を引用し、その歌風の変遷を示して短評を加えたもの]の訓は「神なれや」。
和歌所歌合 年次未詳。
いその神ふる 大和国の歌枕。布留は石上の内。
「ふるの神杉」は石上神社の杉群。地名の「ふる」から「古り」を導く。
常緑の神杉を讃えた一首がそのまま題意[久しく忍ぶ恋]の譬喩となっている。
「木に寄せて忍ぶ恋」。
うつせみのなく音(ね)やよそにもりの露ほしあへぬ袖を人の問(と)ふまで
摂政太政大臣[藤原良経]
家に歌合し侍りけるに、夏恋の心を
新古今和歌集 巻第十一 恋歌一 1031
「蝉の鳴くねのように私の泣く声が外に漏れるのであろうか。その羽に置く森の露ではないが、涙でぬれて乾かす暇もない袖をいぶかしんで人が問うまでになったことだ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.309
正治二年(1200)閏二月、良経家十題二十番撰歌合(秋篠月清集・明月記)。
本歌
「うつせみの羽に置く露の木隠れて忍びしのびにぬるる袖かな」
(伊勢集。源氏物語・空蝉にも)。
うつせみ 八雲御抄三[やくもみしょう 順徳天皇 1197-1242 による歌論書]「ただ蝉の惣名[事物を一つにまとめて呼ぶ名称]なり」。
もり 「漏り」に「森」を掛け、「うつせみ」の縁語とする。
露 涙の意を兼ね「なく」の縁語。
参考
「忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」
(平兼盛 拾遺 恋一)。
「虫に寄せて忍ぶ恋」。
かぢをたえ由良(ゆら)のみなとによる舟のたよりもしらぬ沖(おき)つ潮(しほ)風
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第十一 恋歌一 1073
「櫂をなくして由良の港に寄ろうとする舟がよるべもなく漂っていることだ。沖つ潮風よ、しるべしてくれ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.320
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
本歌
「由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな」
(曾禰好忠 新古今 恋一 1071)。
由良のみなと 「由良の門」に同じ。「みなと」は水門、港。
沖つ潮風 沖から岸へ吹き寄せる風。
参考
「白波の跡なき方にゆく舟も風ぞたよりのしるべなりける」
(古今 恋一 藤原勝臣)
[先の舟が残す白波の跡一つない海を行く舟でさえ、風がせめてもの頼りとなる案内者なのだった]。
一首が言い寄るすべのない恋の象徴となる。
「舟に寄する恋」。
難波人(なにはびと)いかなるえにか朽ちはてん逢ふことなみに身をつくしつつ
摂政太政大臣[藤原良経]
和歌所歌合に、忍恋をよめる
新古今和歌集 巻第十一 恋歌一 1077
「難波人はどこの江で朽ちはてる――私はどういう因縁ですたれ者になってしまうのであろうか。波に翻弄されている澪標(みおつくし)ではないが、逢うことができないために身を削りつづけて。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.321
建仁元年(1201)八月三日影供歌合「久恋」。
本歌
「わびぬれば今はたおなじ難波なる身をつくしても逢はむとぞ思ふ」
(元良親王 後撰 恋五)。
え 「江」と「縁」と掛詞。
なみ 「無み」と「波」と掛詞。
身をつくし 同音で「澪標」に掛けるのは常套。澪標は水路の標識で、能因歌枕[能因 988-1050 による歌学書]「水の深き所に立てたる木」。難波津の景物。難波人・江・朽ち・波・澪標と縁語を連ねて難波人を歌うと見せながら、「逢ふこと」の一句で恋歌に転ずる。
「澪標に寄する恋」。
恋をのみすまの浦(うら)人藻塩(もしほ)たれほしあへぬ袖のはてをしらばや
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第十二 恋歌二 1083
「日夜恋い焦がれている私は、須磨の海人が藻塩をしたたらせて袖を濡らし、干すひまもないように絶えず涙で袖を濡らしているが、しまいにその袖がどうなるか知りたいものだ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.323
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
本歌
「わくらばに問ふ人あらば須磨の裏に藻塩たれつつわぶと答へよ」
(在原行平 古今 雑下)。
すま 動詞「す」と摂津国の歌枕「須磨の浦」を掛ける。
藻塩たれ 製塩のため藻塩草にかける海水がしたたることと、涙で濡れる意の「しほたる」を掛ける。
やがて袖もわが身も朽ちるのではあるまいかという嘆き。
巻第十一 恋歌一 1041
「須磨の海人の浪かけ衣よそにのみ聞くはわが身になりにけるかな」と類想であるが絶望感が強調されている。
「藻(海辺の草)に寄せる忍ぶ恋」。
もらすなよ雲ゐる峰の初時雨(はつしぐれ)木(こ)の葉は下(した)に色かはるとも
摂政太政大臣[藤原良経]
左大将に侍りける時、家に百首歌合し侍りけるに、忍恋の心を
新古今和歌集 巻第十二 恋歌二 1087
「決してもらさないでくれ。雲のかかっている峰に降る初時雨よ。お前のために木の葉は雲の下でひそかに色づいているとしても。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.324
建久四年(1193)、六百番歌合。
本歌
「白露も時雨もいたくもる山は下葉のこらず色づきにけり」
(紀貫之 古今 秋下)。
雲ゐる峰の 深く秘めた心を表わす。詠歌一体[えいがいつてい 鎌倉初期の歌論書。1巻。藤原為家[定家の子]著。弘長3年(1263)または文永7年(1270)ころの成立か]は制詞[せいのことば 歌学で、用いてはならないと禁止した言葉]とする。
初時雨 「初」に初恋の寓意がある。
下句は袖が紅涙(激しい悲しみの涙の色を紅とするのは通念)でひそかに染まることを表わし、上句はその涙即ち時雨に呼びかけた態。一首はあくまで自然詠を装う。
山がつの麻(あさ)のさ衣をさをあらみあはで月日や杉ふける庵(いほ)
摂政太政大臣[藤原良経]
水無瀬恋十五首歌合に 新古今和歌集 巻第十二 恋歌二 1108
「山がつの着る麻の衣は筬(おさ)の目が粗いので織り目が合わない、そのように逢うこともなく月日は過ぎるのであろうか、この杉の板葺の庵に。」『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.329
建仁二年(1202)九月十三日、水無瀬恋十五首歌合 山家恋。
本歌
「須磨の海人の塩焼衣をさをあらみ間どほにあれや君が来まさぬ」
(古今 恋五 読人しらず)。
山がつ 山里に住む人。「杉ふける庵」の縁語。
さ衣 衣に同じ。
をさ 筬。[織機の部品の一つ。経 (たて) 糸の位置を整え、打込んだ緯 (よこ) 糸を押して、さらに密に定位置に打働きをするもの。]筬羽を櫛の歯のように並べた織具。筬羽の間に縦糸を通して横糸を打付けるが、羽の粗密によって織り目に粗密ができる。
あはで 織り目の空いていることと「逢はで」と掛詞。
杉ふける庵 杉板葺の粗末な山家。「杉」と「過ぎ」と掛詞。
「杉に寄せる忍び難き恋」。
歎かずよいまはたおなじ名取川(なとりがは)せぜの埋(むも)れ木くちはてぬとも
摂政太政大臣[藤原良経]
千五百番台歌合に 新古今和歌集 巻第十二 恋歌二 1119
「歎くことはない。今はどちらにしても同じことだ。名取川の瀬々の埋れ木が朽ちはててしまうように、浮名をとってすたり者になったこの身は死んでしまうとも。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.332
建仁二年(1202)頃、千五百番歌合 恋三。
本歌
「わびぬれば今はたおなじ難波なる身をつくしても逢はむとぞ思ふ」
(元良親王 後撰 恋五)。
本歌
「名取川せぜの埋れ木あらはればいかにせむとかあひ見そめけむ」
(古今 恋三 読人しらず)。
おなじ 埋れ木はこの上朽ちようとも所詮世に出られないことは同じの意。
名取川 評判の立つことの譬え。
これは既に現れた恋。
「川に寄せる逢はざる恋」。
身にそへるその面影も消えななん夢なりけりと忘(わす)るばかりに
摂政太政大臣[藤原良経]
千五百番台歌合に
新古今和歌集 巻第十二 恋歌二 1126
「わが身に寄り添って離れないあの人の面影が消えてくれないものか。そうすればあれは夢だったのだと納得して忘れることができように。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.334
建仁二年(1202)頃、千五百番歌合 恋三。
本歌
「あけぐれのそらにうき身は消えななむ夢なりけりと見てもやむべく」
(源氏物語 若菜下)。
面影 幻影。
「夢に見てむ姿こそ驚かば消えもし侍らめ、面影は夢さむとも消え侍らじものを」(千五百番歌合 千八十八番 [源]師光判)。
本歌は事実逢ったのであるが、これは夢の逢瀬。
「夢に寄せる逢はざる恋」。
幾夜われ浪にしほれて貴船川袖に玉散る物思ふらん
摂政太政大臣[藤原良経]
家に百首歌合し侍りけるに、祈恋といへる心を
新古今和歌集 巻第十二 恋歌二 1141
建久四年(1193)、六百番歌合 恋
「幾夜私は波に裳裾をぬらして貴船川を渡って来、袖にも涙の玉を散らし、心もうつろになるばかりの物思いをすることであろう。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.338
本歌
「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂たまかとぞみる
和泉式部 男にわすられて侍りける頃、貴船にまゐりて、御手洗(みたらし)川にほたるのとび侍りけるを見てよめる」
「奥山にたぎりておつる滝つ瀬のたまちるばかり物な思ひそ」
(後拾遺 巻二十雑)。
きぶね河 山城国の歌枕。上流に貴船明神を祀る社がある。「来」と掛詞。
玉ちる 涙の散ることで「しほれ」の縁語。
併せて本歌の、魂(たま)の遊離し散乱する意を掛ける。
明神の託宣歌にすがって苦衷を訴える。
「久しき恋」。
この和歌は、
聖心女子大学図書館に勤めていた
横浜市民だった頃(1980-87)に読んだ、
塚本邦雄(1920.8.7-2005.6.9)
『恋 六百番歌合《恋》の詞花対位法』
文藝春秋 1975.6
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J95C2I
で憶えました。
もう四十年以上経ってしまったんだなぁ。
またもこん秋をたのむの雁だにもなきてぞ帰(かへ)る春のあけぼの
摂政太政大臣[藤原良経]
後朝(きぬぎぬ)の恋の心を
新古今和歌集 巻第十三 恋歌三 1186
「来年の秋にはまたと期するところのある田の面の雁でさえ、別れの悲しさに鳴きつつ帰ってゆく春の曙である――どうして再会のあてのない私が泣いて帰らずにいられよう。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.350
秋篠月清集 治承題百首。
たのむの雁 「みよし野のたのむの雁もひたふるに君が方にぞよると鳴くなる」(伊勢物語十段)より出た成語で、「たのむ」は「たのも」(田の面)の転訛。
「暁に帰りなんとする恋」。
なにゆゑと思ひもいれぬゆふべだに待ち出でし物を山のはの月
摂政太政大臣[藤原良経]
水無瀬にて恋の十五首歌合に、夕恋といへる心を
新古今和歌集 巻第十三 恋歌三 1198
「別にそのわけなど深く考えたことのない夕暮でさえ、夕暮は月の出が待ち遠しく思われたものであるが、山の端の月よ。ましてこの夕暮は約束をあてにしているので、月が出る頃にはあの人がとしきりに月が待たれることだ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.354
建仁二年(1202)九月十三日、水無瀬恋十五首歌合。
同年、若宮撰歌合。
待ち出でし 「出で」は「思ひもいれぬ」の「入れ」の対。
参考
「いま来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな」
(素性法師 古今 恋四 小倉百人一首 21)、
「あしひきの山よりいづる月待つと人にはいひて君をこそまて」
(柿本人麿 拾遺 恋三)。
「月に寄する暮の恋」。
めぐり逢はん限りはいつと知らねども月なへだてそよその浮雲
摂政太政大臣[藤原良経]
千五百番歌合に
新古今和歌集 巻第十四 恋歌四 1272
「めぐり逢うのはいつの日までとも分からないが、月を隔てないでくれ。遠い彼方の雲よ。思わぬ邪魔がはいって二人の仲を隔てないでくれ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.374
建仁二年(1202)頃、千五百番歌合 恋三。
本歌
「忘るなよ程は雲居になりぬとも空ゆく月のめぐり逢ふまで」
(橘忠幹 拾遺 雑上。伊勢物語十一段)。
よそ 遠くに離れている。無関係な。
「月に寄せて忘らるる恋」。
わが涙もとめて袖にやどれ月さりとて人のかげは見ねども
摂政太政大臣[藤原良経]
千五百番歌合に
新古今和歌集 巻第十四 恋歌四 1273
「私の涙を探し尋ねて袖に映ってくれ、懐かしい月よ。映ったからといってあの人の姿がそれに添うて見えるわけではないが、せめての慰めに。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.375
建仁二年(1202)頃、千五百番歌合 恋三。
本歌
「恋すればわが身はかげとなりにけりさりとて人に添はぬものゆゑ」
(古今 恋一 読人しらず)
[恋のために、このとおり影法師のように痩せ細ってしまった。影なら人に添っているはずだが、私ではあの人に寄り添うわけにはいかない]。
わが涙 再び逢えない嘆きの涙。
月が映るという露に涙を見立てる。
月 昔二人で見た月。
「月に寄せて忘らるる恋」。
思ひ出(い)でてよなよな月にたづねずは待てと契りし中やたえなん
摂政太政大臣[藤原良経]
題しらず
新古今和歌集 巻第十四 恋歌四 1278
「こちらは約束を思い浮べて、夜ごとに月の出とともに問いただしてやらなければ「いま行きます。待っていて」と約束した二人の仲は絶えるのではなかろうか。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.376
秋篠月清集[良経の家集]。
本歌
「いま来むといひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな」
(素性 古今 恋四)。
たづね 事情を追及する。今宵はいかがなどと消息すること。
本歌を空しく「待ちいでつる」から「たづね」に趣向し変える。
第二・三句「よなよな月にたづねずは」は本歌の一夜説、
即ち一夜有明の月の出るまで待つという解ではなく、
月頃待って九月も下旬の有明の頃まで待つという解に基づいている。
「月に寄せて忘らるる恋」。
わくらばに待ちつるよひも更けにけりさやは契りし山のはの月
八月十五夜和歌所にて、月前恋といふことを
新古今和歌集 巻第十四 恋歌四 1282
「めったにないことに待っていた宵も過ぎて夜になってしまった。お前を見るまで待つなどとそんな約束をしたであろうか。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.377
建仁元年(1201)八月十五夜、当座御会(明月記)。
和歌所 当時二条殿にあった。
わくらばに待ちつる いつも訪れない人がたまたま約束したので待ったこと。
「いま来むといひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな」
(素性 古今 恋四)が念頭にあるが、「わくらばに待」っただけに下句の激しい怒りがある。
参考
「あふことは心にもあらで程ふともさやは契りし忘れはてねと」
(平忠依 拾遺 恋五)。
「月に寄せて忘らるる恋」。
いはざりきいま来(こ)んまでの空(そら)の雲月日へだてて物思へとは
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第十四 恋歌四 1293
「あなたはそんなことは決しておっしゃいませんでした――「いま来む」とはおっしゃいましたが、それをあてにしてずっと眺めていた空にかかる雲がまるで月日を隔てでもするように、こんなに幾月もの間物思いせよなどとは。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.380
正治二年(1200)[後鳥羽]院初度百首。
本歌
「いま来むといひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな」
(素性 古今 恋四)、
「忘るなよ程は雲居になりぬとも空ゆく月のめぐり逢ふまで」
(橘忠幹 拾遺 雑上。伊勢物語十一段)。
いま来ん すぐお訪ねします。
月日 天体の日月と日次のそれとを兼ねる。
「雲に寄す思ひ出す恋」。
思ひかねうちぬるよひもありなまし吹きだにすさべ庭の松風
摂政太政大臣[藤原良経]
家に百首歌合し侍りけるに
新古今和歌集 巻第十四 恋歌四 1304
「恋うる苦しさに堪えきれず、ついまどろむ宵もあるだろうに、せめて吹き弱って夢を覚まさないでくれ、庭の松風よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.382
建久四年(1193)、六百番歌合 寄木恋。
家に百首歌合 作者藤原良経(当時左大将)の邸で催された百首歌を結番して成った歌合。
思ひかね 幾日も空しく待つからである。
すさべ 慰み興ずる意から転ずる。
松風 「待つ」に掛ける。身にしみる風としてもいう。
参考
「松風は色や緑に吹きつらむ物思ふ人の身にぞしみける」
(堀河女御 後拾遺 雑三)。
「風に寄せて思ひ煩ふ恋」。
いつも聞くものとや人の思ふらんこぬ夕暮(ゆふぐれ)の秋風のこゑ
摂政太政大臣[藤原良経]
家歌合に
新古今和歌集 巻第十四 恋歌四 1310
「いつもの聞き馴れたものとあの人はおもっているであろうか。待てど来ぬ夕暮の一入わびしい秋風の音よ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.384
建久四年(1193)、六百番歌合 寄風恋。
家歌合に 作者藤原良経(当時左大将)の邸で催された百首歌を結番して成った歌合。
本歌
「こぬ人を待つ夕暮の秋風はいかに吹けばかわびしかるらむ」
(古今 恋五 読人しらず)。
人 来ぬその人。
「風に寄せて絶えむとする恋」。
月見ばといひしばかりの人は来(こ)で真木(まき)の戸(と)たゝく庭の松風
摂政太政大臣
百首歌たてまつりし時
新古今和歌集 巻第十六 雑歌上 1519
「月を見たら必ず待っていてほしいと言ったばかりに有明の月の出るまで待ったあの人は来ず、真木の戸をたたくのは庭の松風です。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.444
正治二年(1200)後鳥羽院初度百首。
本歌
「いま来むといひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな」
(素性 古今 恋四)。
真木の戸 杉・檜などで作った板戸。
たゝく 人の訪れた合図。
松風 「待つ」に掛けるのは常套で、思わせぶりな松風という気持。
秋の雑歌。
「月」に寄せる。
天(あま)の戸(と)をおしあけがたの雲間より神代の月のかげぞのこれる
摂政太政大臣
春日社歌合に、暁月の心を
新古今和歌集 巻第十六 雑歌上 1547
「天上の門を押し開けてやって来た明け方の雲間を通して、あの神代の月が残っているのが見える。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.451
元久元年(1204)十一月十日、春日社歌合、題は「暁月」、右持。
後鳥羽院の下命により和歌所において催された。
本歌
「天の戸をおしあけがたの月見ればうき人しもぞ恋しかりける」
(新古今 恋歌四 1260 読人しらず)。
天の戸 日月・四季の出入する天の門で、これを押開けて夜は明ける。
また大空の意。
天の門を押明けて夜が明けるの意で、「おしあけ」と「あけがた」に掛けて序とする。
また春日社の祭神、藤原氏の遠祖である天児屋根命(あめのこやねのみこと)に因んで、
日本書紀 神代下「引開(ひきあけ)天磐戸、排分(おしわけ)天八重雲」(天孫降臨条)も連想されているか。
のこれる 有明の月。「月」に寄せる秋の雑歌。
人すまぬ不破(ふは)の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風
摂政太政大臣[藤原良経]
和歌所歌合、関路秋風といふことを
新古今和歌集 巻第十七 雑歌中 1601
「住む人もいない不破の関屋の板庇よ。荒れ朽ちてからというもの、独り秋風が吹き越えるばかり。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.467
建仁元年(1201)八月三日、和歌所影供歌合、「関路秋風」、二番左勝。
人 関守。
阿仏尼[あぶつに 1222-1283 藤原為家側室]の「うたたね」には関守が「何をがな止めむと見出したる気色もいとおそろしく」とある。
不破の関 美濃国の歌枕。
延暦八年(789)廃止されたが、
固関(こげん)の儀
[天皇・上皇・皇后の崩御、天皇の譲位、摂関の薨去、などの非常事態に際して、「三関」と呼ばれた伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関、越前国の愛発関[あらちのせき](後に近江国の逢坂関)を封鎖して通行を禁じること]
はその後も行われた。
板びさし 戸口や窓の上に取り付けた板の小屋根。
後の心敬[しんけい 1406-1475 天台宗の僧、連歌師]
「ささめごと」に「此ただの二字は、昔より玄妙不可説のことに侍るとかや」という。
参考
「故郷有母秋風涙、旅館無人暮雨魂」
(新撰朗詠集「行旅」源為憲)、
「雪折れの竹の下道あともなし荒れにしのちの深草の里」
(藤原定家 拾遺愚草 建久五年[1194])。
海辺でなく配列疑問。
関の関連で並べる。
昔きくあまの河原(かはら)をたづねきて跡なき水(みづ)をながむばかりぞ
摂政太政大臣[藤原良経]
天(あま)の河原を過ぐとて
新古今和歌集 巻第十七 雑歌中 1654
「昔語りで知られた天の河原を尋ねてやって来て、今は跡かたも残っていない流れを見つめて感慨に耽けるばかりである。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.482
秋篠月清集[良経の家集]。後京極殿御自歌合。ともに二句「あまの河原に」。
天の河原 河内国の歌枕。
昔語りに 惟喬親王と業平がこの川の辺で酒を飲み、詠歌した故事。
古今 羈旅や伊勢物語八十二段に見える。
跡なき水 「跡なき波」という慣用句に基づく用語。
「川」に寄せる。
忘れじの人だにとはぬ山路(ぢ)かな桜は雪に降りかはれども
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌たてまつりしに、山家の心を
新古今和歌集 巻第十七 雑歌中 1667
「忘れまいと堅く約束したあの人さえ訪ねて来ない山路よ。あの時散っていた桜は今は雪に降り替っているが。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.486
正治二年(1200)後鳥羽院初度百首「山家」。
深山にわびて住む世捨て人の態。
参考
「こと問はで契りし道も絶えにけり桜の雪に降りかはるまで」
(藤原定家 拾玉集[慈円の家集]、建久年間の詠。
「山家」に寄せる。
ふるさとは浅茅(あさぢ)が末(すえ)になりはてて月にのこれる人の面影
摂政太政大臣[藤原良経]
百首歌よみ侍りけるに
新古今和歌集 巻第十七 雑歌中 1681
「昔の住居はすっかり浅茅が原の野末と化し、月に照らされて今も見えるのは懐かしい故人の幻だけだ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.489
秋篠月清集[良経の家集]「十題百首 居処」、建久二年(1191)閏十二月。
後京極殿自歌合。
浅茅が末 浅茅が原(短いチガヤの茂る原。チガヤはイネ科の多年生草本)の野末の意。屋敷地が荒れはてて浅茅が原の端にとり込まれたこと。
面影 幻影。
後京極殿自歌合で俊成は下句を「まことに忍びがたく」と評する。
「古里」に寄せる懐旧。
舟のうち浪の上にぞ老にける海人のしわざもいとまなの世や
摂政太政大臣[藤原良経]
千五百番歌合に
新古今和歌集 巻第十八 雑歌下 1704
「舟中浪上に生涯を費やして老いてゆく。遊女の生業も暇とてない世の中だ。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.497
建仁二年(1202)頃、千五百番歌合 雑一、二句「浪の下にぞ」。
本書諸本も同じ。
舟のうち 底本[国立歴史民俗博物館蔵伝冷泉為相筆本]は
「舟中浪上、一生之歓会是同」
(和漢朗詠集「遊女」大江以言)
をそのまま取る。
「浪の下にぞ」に従えば、舟中で釣り、波に潜って魚貝を採る漁夫の生業に人の世の暮し難さを見たことになる。
いとまなの世 「な」は、「無し」の語幹で、感動をこめた言い方。
「海人」に寄せる雑歌。
浮きしづみ来(こ)ん世はさてもいかにぞと心に問ひて答へかねぬる
摂政太政大臣[藤原良経]
千五百番歌合に
新古今和歌集 巻第十八 雑歌下 1765
「これまであるいは浮き。あるいは沈み六道を輪廻して、来世はそれではどうなるかと自問してみるが、答えることはできずにいる。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.514
建仁二年(1202)頃、千五百番歌合 雑二。
浮きしづみ 天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄と数えられる六道において上昇するのが「浮き」、下降するのが「沈み」。前世の業の果報として今人間に生まれ得たことは知っているが、罪障の重い身は、いかに精進し放逸を慎むとしても来世の行方は分からない、その心細さ。
千五百番歌合の判歌で慈円は「心に問ふも苦しかるらむ」という。
「世」に寄せる述懐。
われながら心のはてを知らぬかな捨てられぬ世の又いとはしき
摂政太政大臣[藤原良経]
題しらず
新古今和歌集 巻第十八 雑歌下 1766
「われながら心の落ち着く先がつかめないことだ。この世を捨てようとして捨てられず、といって捨てられない世がまた遁れたくなるのだから。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.514
秋篠月清集 南海漁夫百首、建久五年(1194)八月。
「世」に寄せる述懐。
おしかへし物を思ふはくるしきに知らず顔(がほ)にて世(よ)をや過ぎまし
摂政太政大臣[藤原良経]
題しらず
新古今和歌集 巻第十八 雑歌下 1767
「こう思い、今度は反対にああ思うというのは堪えきれないので、いっそ何も気にしない顔をして世を送ろうかしら。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.514
建仁二年(1202)頃、千五百番歌合 雑二。
おしかへし 押し戻すこと。
ここは例えば前歌
「われながら心のはてを知らぬかな捨てられぬ世の又いとはしき」
の下句のような思考過程。
「世」に寄せる述懐。
神風や御裳裾河(みもすそがは)のそのかみに契(ちぎり)しことのすゑをたがふな
摂政太政大臣[藤原良経]
大将に侍りける時、勅使にて太神宮に詣(まう)でてよみ侍りける
新古今和歌集 巻第十九 神祇歌 1871
「伊勢の御裳濯川の川上に鎮座まします天照大神よ、太古の昔、わたくしの祖先にお約束なさったことを、末々まで違えないで下さい。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.545
後京極殿御自歌合「公卿勅使にてありけるに」。
秋篠月清集[藤原良経の家集]。
勅使 良経の伊勢勅使は建久六年(1195)二月。
神風や 「御裳濯河」にかかる枕詞。
御裳濯河 五十鈴川。伊勢内宮(ないくう=皇大神宮)の象徴。
下の「かみ」「すゑ」は「河」の縁語。
そのかみに契しこと 天孫降臨の昔、天照大神が、天児屋根命(あまのこやねのみこと)の子孫(藤原氏)を、天皇を輔佐する臣下に命じた約束。
「そのかみ」は川上をも暗示。
天皇家と摂関家との関係の永続性を祈念。
伊勢大神宮関係の詠。
奥山にひとり憂き世はさとりにきつねなき色を風にながめて
摂政太政大臣[藤原良経]
家に百首歌よみ侍りける時、十界(じつかい)の心をよみ侍りけるに、縁覚(えんがく)の心を
新古今和歌集 巻第二十 釈教歌 1935
「奥山でひとり修行をして、この世がはかないことを悟った。風に、飛花落葉の無常のありさまを凝視していたら。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.564
秋篠月清集[藤原良経の家集]「十題百首 釈教」、建久二年(1191)閏十二月。
十界 凡夫の迷いの世界である六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)と、聖者の悟りの世界である四聖(ししょう 声聞・縁覚・菩薩・仏)との、十種の世界。
縁覚 師につかず独力で悟りを開いた修行者。独覚。
「飛花落葉ヲ見テ。ヒトリ諸法ノ無常ヲサトリ」
(和語灯録一[鎌倉中期の仏教書 了恵道光編]。
風 「つねなき色」(無常の理の具体的な現われ)である飛花落葉を引き起こす風。
https://yatanavi.org/rhizome/新古今和歌集
西行 94
慈円 92
藤原良経 79
藤原俊成 72
式子内親王 49
藤原定家 46
藤原家隆 43
寂蓮 35
後鳥羽院 35
俊成卿女 29
藤原雅経 22
藤原有家 19
源通具 17
藤原秀能 17
二条院讃岐 16
宮内卿 15
源通光 14
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『新日本古典文学大系 11 新古今和歌集』
田中裕・赤瀬信吾校注 岩波書店 1992.1
丸谷才一『後鳥羽院 第二版』
筑摩書房 2004.9
ちくま学芸文庫 2013.3
https://note.com/fe1955/n/n3c66be4eafe5
丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
『日本詩人選 10 後鳥羽院』筑摩書房 1973.6
https://note.com/fe1955/n/n56fdad7f55bb
丸谷才一(1925.8.27-2012.10.13)
『樹液そして果実』集英社 2011.7
『後鳥羽院 第二版』筑摩書房 2004.9
『恋と女の日本文学』講談社 1996.8
https://note.com/fe1955/n/n0d04f004682c