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介護の思い出とおばあちゃん
昨日、会社の帰り
実家に寄ったところ
見たことあるけど誰だったか覚えてないレベルのおばあちゃんが、エレベーターの前に立っていた。
挨拶したけど聞こえてるのか聞こえてないのかわからないぐらいのおばあちゃんで。
寒いのに上着も羽織らないで
一人壁ドン状態でずっとエレベータの前に立ってるわけですよ。
実家から家に帰る時にもまだいたから
「何してるの」って声かけてもうなずくだけ。
「誰か待ってるの?」って聞いたら
「息子が帰ってくる」と言うので
「寒いし家で待っとりゃ―」と伝えるも動こうとせず
お家を聞いてもわからない
名前を聞いてもわからない
ニャンニャンニャニャーン
壁ドンばっかりしてるおばあちゃん
とりあえず母を呼んで、知ってるおばあちゃんか尋ねたところ
どこのおばあちゃんかは分かったんだけど、家に誰もいない。
で、そこん家と仲いい別の近所の住民にSOSしたら、まぁ色々と事情を知っていた。
息子が何時に帰ってくるとか
おばあちゃんがデイサービスから戻ってくる時間とか
デイサービスのスタッフさんがカギを開けて家に入れてくれて、鍵を閉めて郵便受けにいれてあることとか。
家で息子を待っている間はテレビも見ていないことまで。
結局そのおばちゃんが半ば強制的に手を引いて
優しく説得して連れて帰ってくれたんだけど。
息子が帰ってくるまでの間、何度か様子を見に行くし
娘の連絡先も知ってるから伝えておくと言ってくれた。
**********
我が家は今から5年前まで、ばあちゃんを自宅で介護していた。
ばあちゃんが動けなくなったのは20年以上前だったけど、じいちゃんが亡くなった8年前から3年間、家で引き取って一緒に暮らした。
介護生活は、今思えば楽しい事の方が多かった気がするけど、それはもう全てが終わったから思えることで
数えきれないぐらい、母親とも、ばあちゃん本人ともぶつかった。
うちで一緒に暮らしていた母方のばあちゃんは、痴呆はほとんどなかったし、壁をつたって一人でトイレに行けるレベルの半身不随だった。
ばあちゃんが家にいた時
我が家は絶対ばあちゃんを一人にしなかった。
そうしなきゃいけないと刷り込まれてたから 私もクソ忙しかった時期だけど、母が当時は夜行っていた仕事に出る前に自分の仕事を放り出して帰ってたし、プライベートの用事だって同じ
むしろプライベートの用事なんて、それこそ途中で帰ってくるのが嫌で行かなくなったり、そんなことを続けているうちにたくさんの友人と疎遠になってしまった。
まぁ理由があってのことだし
その時から変わらずずっと繋がっていてくれる友人もいるので、疎遠になった人たちはそれまでの関係だったんだなと今は割り切れるけど
結構、寂しかった。
それがばあちゃんのためだと思ってやってきたし
そうすることが正義だと、私より責任感の強い母に「当たり前のこと」として刷り込まれてきたから
私も当たり前だと思っていたし
自ら望んでそうしていると、思ってはいたものの
看る方も、自分の生活を犠牲にしてまで何かに尽くしてしまうと、壊れるわけですよそのうち。
我慢すればいいだけの娯楽に手を出さないのとは違う
やらなければならない仕事をこなせなかったり
どうしても会いたい人に会いに行けなかったり
その穴埋めをするために身体に負担をかけて頑張ったり
ばあちゃんのため
母親のためだと思ってやってきたけど
本来は「自分のため」に頑張ることではないのかな って、当時も思ってきたし
今もその日常を、対象を変えてずっと続けている母に対して
私はずっと思い続けてる。
極力人に頼らずに
自分たちだけで自分たちの家族を守ること
守らなきゃいけないと思うこと
素晴らしいことだとは思うけど、正しいことだとは思えなくて、でもそれをわかってもらうことはできなかった。
人に頼ることや、自分も大事にすること に
ずっと罪悪感を持って生きてきてしまったから
今でも私は頼るのが苦手で
自分を大事にすることに抵抗があって
必要以上の贅沢をしているような気持ちや、時にはなんだか悪いことをしているかのような苦しさを感じてしまう。
要するに
優しさで手をかけることだけが愛じゃないってことです。
もちろん愛なんだけど、歪んでる場合もあるってことです。
自分も大事にしてこそ与えられる優しさってのが、大事って話です。
昨日のおばあちゃんは
デイサービスから帰ってきて約4時間程
いつも家で独り、家族の帰りを待っているようだった。
そのことを教えてくれた、おばあちゃんを連れて帰ってくれた近所住民曰く、こんなこと(一人で外に出ちゃう事)は初めてだそうだけど
今後そういうこともまたあるかもしれないな、と思った時に
いつもそんな母を待たせる側の息子は きっと少なからず葛藤があると思う。
痴呆のおばあちゃんを一人家に残して仕事に出ている息子が、決して親不孝なわけではなくて
息子は息子のやるべきことをやって、それでもお母さんに対して与えられる愛情があるわけで
いざとなったときにこうやって近所住民が助けてくれるのは
その時のために、もしかすると事前に帰宅時間などを伝えておけるような信頼関係あっての関わり方を 息子が普段からしていたのかもしれない。
息子の意図はわからないけど
私が普段、近所住民と無駄に話したり安否確認をしたり、困ってる人を助けたり時には助けてもらったりしてるのは
単純に私が人と話すことを楽しいと思っているだけじゃなくて
いずれここ(実家)に残していく母に何かあった時に、少しでも気にかけてくれる人が多くいるように という思いも強くあるから。
自分が無理して
自分がやることにだけこだわって
結局自分の首を絞めて辛い思いをして
こんなはずじゃなかったのに って結果自分を責めることが、一番の介護の闇に繋がる部分だと思っている。
大切な人だからこそ、考えたほうがいいこともある。
私は、長い長いばあちゃんの介護生活を終えて
もっとこうしてあげたかったとか、こうするべきだったんじゃないだろうか、と未だに考えることもあるけど
昨晩、エレベーターの前で息子を待っていたおばあちゃんが
「寂しかった」と言って、他人に優しく手を引かれていく後姿を見守りながら
なんだか胸が締め付けられそうな気持ちになったけど
自分を大切にすることは、悪じゃない。
自分を先に大切にしないと、大事にできないものもある。
愛情は決して、決まった形ではなくて
これでいいんだよな、って思った昨日の夜でした。