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もう遅いかもしれないけれど


先日、長襦袢と古い単衣の直しを頼んでいたのが仕上がってきた。いずれも三十年超えの古いもので、裾が擦り切れたり糸が切れたりしたものだ。

着物に詳しくない人のために書いておくと、長襦袢というのは、着物のすぐ下に着る下着だけれども、おなじ下着を何十年も着られるというのは、すごい文化だと思う(直してもらえたのだしそんなことをするのはまさか自分だけではなかろうと思いながら書いている)。

新しい畳紙に包まれたそれらをうれしく受けとったあと、古い大島紬を仕立て直す相談をしていたので、あらためて見てもらった。

一枚の古い紬から、雨用と防寒を兼用した丈の長いコートを一枚、つくる予定だった。ワンピースからレインコートをつくるようなもので、これもすごいことだなぁとワクワクしていた。

すると、袖の付け根が日に焼けたのか、太い筋になって色褪せているのが見つかった。隠せない致命傷だった。残念。
あっさり諦めたのは、見てくださった方の顔が曇ったからだ。彼は他の業者にできないこともしてくれる人で、以前、誰もが見放した、黄変した塩沢をみごとに復活させてくれたことがある。そんな彼が否と言ったらほんとうに駄目なのだと思えた。

色が抜けてしまうというのは、直射日光はもとより、室内にあっても色が飛んでしまうことがあるようだ。畳紙に包んで箪笥にいれておけば一応大丈夫。けれど、年に何度かは風を通してあげないと、不都合が出てくる。

ついでに見てもらった羽織も、その着物と同様で古くてもほとんど着られていた形跡がないというのに、やはり色が抜けた箇所があり、さらには、なにかがはねたような白茶けたシミがあちこちに飛んでいた。それは黴、というより黴の跡。そこだけ色が抜けてしまっていた。
無地などものによっては、色をかけるとか染め替えることも可能だけれど、そこまでするか、というと躊躇ってしまう。

もったいないなぁと思う。
しかし、引き継いで、着ることができるかどうか選別したり、直したり、譲ったり、処分したりする役目をわたしは担うことにしたのだから、仕方がない。

そして、日本中の箪笥に眠る古い着物について想いを馳せる。昔の樟脳とともに半永久的に眠っていないだろうか。
たまに、風を通しているだろうか。
あるいは、プラスチックの衣装ケースなどに押し込められたり、日に晒されたりしていないだろうか。

などと書くと、一抹の罪悪感とともに、「あぁ着物って面倒くさい!」と思う人も多いだろうな。
もう遅いかもしれないけれど、たまに、空気を通してあげてください。
着なかったら、古着屋さんで、ひきとってもらえます。銘柄のあるもの、すぐに着られる良い状態のもの以外は、お金に換えられることは少ないけれど、上記のような末期の場合でも、端切れとして使われる場合があるのだそうです。

着物を解いて洗ったり、再び縫い直したり、帯や小物に仕立て直したり。明治の女の人みたいにそれが自分でできたらよかったなぁと思う。着物を着なくなって、洋服を全自動洗濯機に任せることで得たその時間は、どこへ行ってしまったんだろう(ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる灰色の男たちが持って行ってしまったんだろうね)。

時間。時間の使いかた。
古いものにばかり囚われてぼーっとしていてはいけない。自分の残り時間と相談して、どんどん風を通して、目を通して、片付けていこう。
もう遅いかもしれなくても。

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