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二択ではなかったわたしの食卓
私の母は日本人だが、彼女の作るパキスタン料理が好きだと感じる。
私が、幼少期から今現在に至るまで、素材の味が分からなくなるような酷い辛さが大嫌いなので、母は「スパイスをしっかり使ってても辛さ控えめ、そして甘くない」料理に仕立てる特殊技を身につけた。
まあ、その特殊技は、私の祖母、つまり母にとっては、パキスタンにいる姑から教わったのだが。
そして私はといえば、うっかり母が量を間違えて辛い料理を出してきても、ヨーグルトを味方につけた。
そう、ヨーグルトは辛いカレーをマイルドにし、かつコクを出してくれる凄い調味料になる。
私は、少しでも辛いと感じたらヨーグルトをこれでもかというくらいドバドバとかけ、父はそれをしばしばネタにする。
「ファティマには素晴らしいSolution(解決策と言いたいのだろう)があるから、辛いものが出てきても大丈夫なのね」と言う。
ヨーグルトを食べてるのか、その特定の料理を食べているのか分からないような、ヨーグルト漬けの何かを食べながら、家族と笑ったりする。
スパイスの香りがただようと、必ずあの風景を思い浮かべる。
断ち切られたふるさとの、埃っぽい風景。
私の尊敬する故中村哲医師は、アフガニスタンの風景を「茶褐色の索漠たる光景」と表現したが(『医は国境を越えて』石風社 p.229より)私が幼少期に暮らしたパキスタンの最大都市カラチも、まさにそんな感じだった。
繰り返しになるが私は、幼少期から(今に至るまで)辛い食べ物がとにかく苦手だった。
地域によるとは思うが、カラチでは辛いものが食べられれば食べられるほどカッコイイとか、えらいとかいう風潮があった。
日本で未だに「お酒ガンガン飲める人カッコイイ」みたいな風潮があるのと一緒だ。
そんな私が日本に帰ってきてから出会ったのは、トルコ料理だった。
パキスタンで食べ物に関してつらい思いをしたせいなのか、帰国してからの私は、日本以外の料理を食べることに対して強烈な恐怖があった。
食物アレルギーの多い私は、「これ食べちゃダメ」「あれもダメ」と言われ続け、食に対してかなり保守的になっていたのだと思う。
未知のものを食べることが怖かった。
ところが帰国してから数年後に、生まれて初めてトルコ料理を食べた時、私は「おいしい…」と驚いたように言ったという。
それまで母は、私がスパイス全般が嫌いなのだとばかりに思っていたそうだった。
そうではなくて、単純に辛いものが苦手なのだと分かってからは、母も料理の幅を再び広げてくれた。
ところで私の母方の祖母は、大学時代「ミス・ヨーロッパ」と陰で言われていたくらい、ヨーロッパかぶれだった。大学も英文科に通った。
当時のインテリ女性にとっては花形学部である。
いわゆる花嫁修行のためにフランス料理を教えている料理学校へも通い、和食や中華料理も別の料理学校へ通いマスターした。
その影響か、ホテルのレストランに幼少期から何度か祖父母と行き、ごく基本的なものだったが、テーブルマナーなんかも教わった。
そして祖母は、テキトーでラフな格好してホテルに来る他のお客さんを見て
「なんて格好なの」
「今はああいう格好していても追い出されないけど、昔はあんなの門前払いよ」
「ちゃんときちんとした格好できちんとしたマナーでスタッフに接していると、スタッフの方にもいい対応をしてもらえるから、ちゃんとしなさい」
みたいなことを延々と繰り返し説教していた。
そして最後にこう付け加えるのを決して忘れなかった。
「いい?こういうことは他所(よそ)様の家では絶対に教わらないのよ」
ヨーロッパ的な上流階級に憧れ続けて、自分の身分相応なものを見失って迷走していた祖母。
そんな親に育てられた私の母。
その文脈の中で生を受けた私は、あらゆる地域の食文化に生かされて、今も生きているし、命を繋いでいる。
話はやや逸れるが、ある時、BS朝日で「ウチ、断捨離しました!」という番組を観た。
断捨離トレーナーことやましたひでこ氏が、断捨離前の散らかった状態の家に入ってまず最初に片付けに取り掛かったところはキッチンだった。
彼女は「キッチンは人の命を守る食べ物を作る場所、人の命を生かす食べ物を提供する場所。ここが死んでいたら、あなたも死んでしまう」というようなことを話していたのが印象的だった。
私たちが普段口にする食べ物は、アイデンティティの保持にも重要な役割を果たしていると気付いたのは、韓国ルーツを持つアメリカ人ミシェル・ザウナー著「Hマートで泣きながら」というエッセイを読んだときだった。
この本には、韓国人の母をガンで亡くした、ミックスルーツの著者が、自らの心を癒すために母と一緒に食べた韓国料理を作る描写がある。
私の場合、ありがたいことに母は元気で生きているが、いつか必ず、実質的な別れの時がやってくることは分かっているつもりだ。その時にこの本を読んだら120%泣く自信がある。それぐらい、胸に迫るものがあった。
母は本当に料理が得意で、私たちは外のレストランで食べても「家でママが作るのと同じぐらい美味しい」と言うのが通例だった。
母はその度に「コックさんが聞いたら怒るよ!」と言いながらも、まんざらでもない顔をしていた。
私の母は、言語継承の点に関しては何もしてくれず、ずいぶん恨んだ時期もあった。だが食べ物に関しては、私の複雑なアイデンティティの形成のために手を尽くしてくれたような気がする。
本人にはそのつもりなど無さそうで、ただ作りたいものを作っていただけに過ぎないのかもしれないが。
私が食卓に思いを馳せることなど、未熟で何にも心配していなかった10年前の私には考えられなかった。それだけ歳を取ったのだと今、感慨にふけっている。