意図と作為:押しボタン式だとわかるまでの時間何かの花が満開だった(丸山るい『静かな会話』)【まいにち一首評NO.3】
短歌において描写される景は時の一点であることが多い。これは絵画と同じで、風景画、もしくは静物画として情景描写を行なっているからだ。一方で一首の中で時間や場面の転換がある歌もある。この歌は後者である。
この歌が描写する景色はとても具体的である。押しボタン式信号だと気づかずにぼーっと赤信号を眺めていて、そのあたりには何の花かはわからないが花が綺麗に咲いていた。しかしこの風景はどれだけ普遍的だろうか?少なくとも僕はこれと同じ経験をしたことがない。
現実の場面の描写をするとき、その場面にはある程度の普遍性=説得力が必要となる。読み手に「わかる」とか「確かにね」と思わせたい。これがなければ読み手は混乱し、その描写は架空のもので何らかの象徴性のもとに生み出されたのだと考えるだろう。その観点で、この歌の景色は「なるほどな」と思わせられるものである。だから、読み手が経験したことはないが、現実にはあるだろうなという丁度良いラインを突いている。単なるあるあるとファンタジーの間、とも言える。
この歌は視覚的であり、主観的である。例えば「夕暮れにブランコが揺れている」というのは、視覚的でありかつ客観的である。「僕」にも、「あなた」にも、夕暮れのブランコは平等に揺れている。一方で今回の歌における「花」はどうか?そもそも主体の中でもその像が変化していることがわかる。
その変化の原因は、主体の意識や視線の移ろいである。静物画はひとつのリンゴしか記述できない。もっと言えば、特定の時の一点に静置されたリンゴしか描けない(これを打開するような運動が絵画においても起こった、のだと思う。美術に明るくないので知らない)。この歌で描写されているのは、「立ち止まる→歩き出す」という動き、あるいは視線の移動である。
同時に「何かの花が満開だった」についても考えたい。短歌において「花」は頻出語句である。それは時に希望を、女性を、祝祭を、別れの喩えであり、そこに特定の種類の花が想定されれば、例えば桜であれば始まりのメタファーだし、ひまわりであれば笑顔や明るさのメタファーだ。さらに花言葉という便利(?)な概念を考慮に入れればさらに詳細で意識的なイメージ付けが可能となる。
では、この歌における「何かの花」は何を表しているのか。「何か」という言葉で視覚的にぼかされている以上、そこに特定の花のイメージが入り込む余地はキャンセルされている。主体が観察した花の種類を、作者がぼかしているのではない。そもそもこの歌の主体が何の花か認識できていない/しようとしていないのだ。
この点においてこの歌はとても「リアルな」歌である。そもそも普通、短歌において世界を観察するのは主体ではなく作者である。作中主体が何を見て何を感じるかは全て作者によってコントロールされる。作者は歌の中の世界を自由に設定できる。だから、この歌においても「何かの花」の代わりに「桜の花」「黄色い薔薇」とすることだってできるわけだ。
しかしそれは「リアル」じゃない。作者がそのような作業(=作中の世界を設定すること)をした時、それは我々の世界に神が介入することと同じである。すなわち、「主体が認知するものが世界である」とするか、「すでにある世界を主体が認知する」と考えるのかの違いである。現実世界は前者であろう。私(=この世界における主体)が認知しないものを、私は記述できない。一方で多くの短歌は後者の視点で作られているだろう。
「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい
例えば有名なこの歌でも、「桜の可能性が大きい」という感想は作中主体の認知であるように思えるが、実際は作者が「はなびら」は「桜」だと設定したとも取れる。これは多分屁理屈なんだろうけど、創作物である以上作者の存在は考えざるを得ない。(「押しボタン式……」の歌だって作者が意図的にピントをぼけさせていると言えてしまうかもしれない。構造上。)
だけど僕が好きだったのはそこだった。意図的に焦点をぼけさせる。(歌の外側にいる)我々は、この世界のすべてに焦点が合うわけではない。近くのものでさえ全部見えているわけではない。いわんや遠くのものは?
短歌を作る時、作者は作中の作中世界のすべてが見えている。あるいは読者でさえ、その全てが見える気がしてしまう。では主体は何を見ているのか?主体は作者の分身であるように語られながら、実際は作中世界に一人ぼっちだ。
すこしずつ花の領土になっていく家のかたちを思い出せない
同じ作者のこの歌でも、作中主体に見えているのは「(何かの)花」であって、特定の花ではない。一方で作者には何の花か見えているか?多分見えていない。「押しボタン式……」ではピントが合っていないから何の花かわからないし、今挙げた歌でも、主体はおろか作者でさえ、家を隠していく花の名前を知らないのではないか。その点で、これら二つの歌において、作者と主体は限りなく近い認知を共有している。
上の方で書いた通り、僕は(そしてきっとあなたも)この歌のような経験をしたことがない。しかしその景はやけにリアルである。
短歌において作為性がどのように考えられてきたかについて、どのように受容されているのかについては浅学のため知らないが、初心者の自分としては考えさせられる作品だった。