“即断と追求”で映像×ビジネスを拓く(前編)~人に喜ばれる制作こそが原点
株式会社ファストモーションは映像制作を軸に、デジタルマーケティング、ITスキル特化の就労移行支援の運営を行っています。
代表の藤沢基樹が2016年10月に26歳で設立し、2023年秋に8期目に突入しました。今日に至るまでの過程では創業期の苦労はもちろんのこと、コロナ禍での廃業危機とそこからの復活がありました。
今回の記事では藤沢の半生を振り返りつつ、ファストモーションの創業秘話とこれからの展望について前後編に渡って迫っていきます。
つくるこだわりと楽しむ心は父から
藤沢は4人兄妹の3番目として、福井県で生まれます。
父親は高等専門学校で機械工学を教える先生で、ロボットコンテストで大賞を受賞してメディアに取り上げられるちょっとした地元の有名人でした。
「家までテレビ局が取材に来たりして、それがどれほどのことなのか幼い私はあまり分かっていなかったですが、『お父さんのことテレビで見たよ!』と近所の人からよく声をかけられていましたね。
みんな知っているんだから、自分の父親はすごい人なんだなと何となくは感じていました。
父親は仕事の愚痴を家で一切言わない人でそれが子どもながらにキラキラ見えたというか、少なくとも仕事が嫌なものだとは全く感じませんでした。
父の血を濃く引いていると感じるようになったのは大人になってからです。
兄妹みんなものづくりが大好きなんです。私もこだわりを持ってやりきる部分は受け継いでいると思います。」
兄はメカニック、妹はデザイナーを生業にするなど兄妹たちはそれぞれ分野は異なるものの、個性を尖らせていきました。
家庭は特段裕福ではないものの、両親は何でも反対せずにやらせてくれたと藤沢は振り返ります。
自信の根拠となる読書と映像の可能性
藤沢は地元の武生工業高校に進学します。父の影響で機材や材料に囲まれた環境で育ち、自分でナイフや弓矢をつくって遊んでいた藤沢にとって、実技のある工業高校はとても向いていました。
学業成績優秀、恋愛も順調で充実した高校生活を送る藤沢。しかし、3年間打ち込んだ部活のテニスだけはうまくいかずに終わってしまいます。
その悔しさを晴らすために藤沢は大阪のスポーツ系の専門学校に進学する道を選びます。テニスの指導を学びながら選手活動を続けることにしたのです。
それでも選手としての芽はなかなか出ませんでした。
「周りはほとんどが高校を卒業したら就職していて、自分が専門学校に通う2年の間に現場を任されたりしていました。そんな中進学した自分だけがうまくいかなくて、悔しい日々が続きました。
親は他に兄妹がいる中で学費と生活費で数百万円負担してくれて、本当にありがたかったのですが、結果が出ずに申し訳ない気持ちでいっぱいでしたね。」
その頃から藤沢はテニスで結果を出すために読書を始めています。
最初は競技に活かすためのメンタルトレーニングを学ぶ目的でしたが、次第に有名経営者の自伝やビジネス本にのめり込むようになります。ここで身につけた読書の習慣で得た知識が後の藤沢の自信の根拠となっていきました。
「年に100冊は本を読んでいました。ほんの1~2冊読んだだけでは書いてあることが正しいかは到底確信が持てませんよね。でも100人が同じことを言っていたらそれはほぼほぼ正しいと言えると思います。
つまり読書はそういう共通項を探すゲームなんです。そこで見つけた知識こそが自分にいい影響を与えることになるし、その積み重ねが自信になるわけです。」
孫正義氏の本から影響を受け、藤沢は若いうちからチャレンジしたい、これから伸びる分野で戦いたいと考えるようになりました。
そこで可能性を見出したのが映像でした。
「自分が当時一人暮らしをしていたマンションの1階がカフェだったのですが、一度も行ったことがありませんでした。でも入口にあったケーキのイラストが写真に変わって、おいしそうに見えてつい入ってしまったんですよね。
2009年当時デジカメが普及し始めていて、写真がデジタル化すると今度は動画が来るんじゃないかと自分の行動の変化を通して感じたんです。」
原体験となる自主映像制作
結局藤沢はテニスでは結果を残せずに終わってしまいます。
しかし専門学校卒業まではあと半年残っていました。この期間で何か残ることをしたいと考えた藤沢はふと、高校時代に所属していた生徒会でつくった映像の出し物の制作が面白かったことを思い出して動き始めます。
「自分と同じように夏頃に最後の大会が終わって、燃え尽きてしまう人が多かったんです。でもあと半年何もしないのはもったいないから、残りの期間充実した生活を送る方法としてみんなで映像を作ろうと。
当時はmixi全盛でまだせいぜい写真をシェアするくらいです。でも同じように映像も共有できたらいいなと思ったんです。
今だったらYouTubeショートやTikTokがあって、友達とふざけながら動画をつくったら楽しいじゃないですか。
そんな感じで動画をつくって、思い出として残したいと考えて声を挙げたわけです。」
そこから学年全体を巻き込んだ映像制作プロジェクトが始まります。
映像の内容は各クラスごとに自由にテーマを決めて、2~3分程度にまとめるというもの。一部を除いて撮影と編集はすべて藤沢が担当することにしました。
しかし、いざ自分でプロジェクトを始めてみるとなかなか協力してもらえず、全くうまくいきません。テニス以外で挫折を味わったことがなかった藤沢はショックを受けつつも、企画を前に進める道を模索します。
「人が付いてこなくて、意外と反対する人もいました。想像以上に人を巻き込むのは難しかったです。
でも途中でやめるのはダサいと思って、やることを前提にあらゆる手段を試しました。その中で気が付いたのは人は賛同しないと動かないということです。
何よりもまずは信頼を獲得しないと物事は進まないんです。」
そこから藤沢は各教室を回ってプレゼンをしたり、チラシを配って大勢に呼びかけを行いながらも、水面下でリーダー格の人間と個別で話をして信頼の獲得と賛同の拡大を目指しました。
その過程で先生から目を付けられ、職員室で怒られることも何度もありましたが、諦めずに行動し続けた結果、次第に賛同者が増えていきます。プロジェクトの輪が大きくなっていくと協力してくれる先生も現れました。
最終的に卒業式の1週間前にすべての映像が完成します。藤沢はできた映像をDVD化して全生徒に配布することをもってプロジェクト完遂とするつもりでいました。
しかし、ここで嬉しいサプライズが起きます。
「みんなにDVDを配る前に応援してくれていた先生に映像を見せたんです。そうしたら『何十年も教員をやってきて、こんな生徒はいなかった!』とすごく褒めてくれて、卒業式の予行練習後にみんなの前で上映する時間を作ってくれました。本当に嬉しかったですね。
別れはつらいですが一緒につくった映像で学校生活を振り返り、ともに涙を流したのは一生の思い出です。これが今に通じる一番大きな原体験になっています。」
ウェディング映像制作は“天職”
専門学校の最後の半年を思い出の映像制作にすべてつぎ込んできた藤沢も卒業に伴い、就職の時を迎えます。
卒業間際に始めた就職活動では早くから給与アップが見込める、かつ建築コース出身ということで不動産営業を選びました。
いくつかの内定先からあえて小規模のベンチャーを選び、実際に早くから成果は出したものの、1日300件のローラー営業で藤沢は疲弊していきます。
ある日命の危険を感じた藤沢は就職からわずか4か月ほどで会社を辞めることにしました。
次の仕事を考える中で頭に思い浮かんだのは、やはり専門学校時代の映像制作での成功体験でした。
「また映像をやりたいなとはずっと思っていました。でも自主制作しかやったことがなければ未経験者と同じです。
そんな中で見つけたのがウェディングの映像制作でした。未経験OKだったので思い切って飛び込んでみたら見事に自分に合っていましたね。自分の原体験は人に喜んでもらう映像制作でしたから、最高に楽しかったです。天職だと思いました。
結婚式当日に一番近くで二人とコミュニケーションを取り、他の人が立ち入れない場所まで入ってVIP席でその様子を見られるのはカメラマンだけです。プランナーは他も担当しているので実はずっと二人のそばにはいられません。
だから無事に式が終わると感情移入して泣いてしまうこともありました。新郎新婦から感謝の手紙をもらうこともあって、それは今も持っています。」
株式会社ブライダルプロデュース(現・株式会社BP)で本格的に映像制作の世界に踏み込んだ藤沢はここで現在に至るまで続く仕事におけるマインドを教わります。
「“カメラマンである前に、サービスマンであれ”というのを先輩から教えてもらいました。
カメラマン含めた技術者はそのスキル面にフォーカスされがちですが、それ以前にサービス業なんです。
人の表情を引き出すためには相手を嫌な気持ちにさせないというのがまず大前提になります。
だからカメラマンは技術じゃなくて人なんだと。サービスマンでなければいいものはつくれないんだということは今も一貫して根底にありますし、今関わるクリエイターにも伝えています。」
天職に出会った藤沢でしたが、フリーランスを経て2016年10月に株式会社ファストモーションを設立し、プレーヤーから経営者としての一歩を踏み出します。
後編では会社の理念にも通ずる決断に対する藤沢の考え方とコロナ禍の苦悩、今後の展望について迫っていきます。
↓後編はコチラ
https://note.com/fastmotion/n/n7df195d030ea
※ 記載内容は2024年4月時点のものです